その男は、雨の降る夜にしかの前に現れなかった。晴れた日、曇りの日は、朝まで待っていても決して彼は現れない。そのくせ、音もなく細い雨が少しでも降ろうものなら、へらりと笑って現れた。
「軒、貸してくれる?」
彼はいつも申し訳なさそうにそう言って、に一夜の宿を乞う。雨の日だけ。
「……どうぞ」
湿気ってしまったであろう蓑笠を乾かそうと炉端に置こうとすれば、やんわりと断られ、すぐ乾くからと土間に立て掛けた物干し竿や何かに被せて、板の間に上がってくる。いつものこと。
沸かしていた湯が少し冷めた頃合いを見計らって、は彼に白湯を出す。ありがと、と湯呑茶碗を受け取って男はやんわりと微笑む。けれど、これまでの一度たりとも白湯以外、の出した飲食物を口にしたことはない。いつも、男が去ってからはそれをそろそろと食べる。男のために少しばかり良い物を支度したに食べさせるための、男なりの気遣いなのかもしれなかった。
朝になれば、男は姿を消している。が寝入るのを見守って、目を覚ます前にはいなくなっている。去り際に一言、サヨナラ、とだけ告げていく。だからは男の名前も知らない。
ただ、あかがねの髪をざらりと流した、美丈夫なのだとしか知らない。
だから、はふとした瞬間、男に会いたいと思っても――言葉が出ない。男の名前を、たとえそれが偽りなのだとしても、は知らない。
雨が降る夜にしか会えないあの人は、雨夜の君とでも呼べばいいのだろうか。そんなガラじゃないよ、と男は困ったように笑いそうだ。
城下に近いとはいえの住む寒村にまで、次々に入ってくる戦の知らせ。
城が落ちてしまっては元も子もない。男手は借り出され、村に残ったのは老人と女子供ばかり。昔語りの長い老人に子供は預け、働き盛りの女は畑へと出る。も、畑仕事は一通りこなせるようになり、才があったのか山野にある獣を狩ることも苦にはならなくなった。戦には使えなくなって廃棄されるだけだった弓を幾許かの農作物や獣肉と交換に譲り受け、弓兵だったという老人から弓の使い方を教わった。
弓は山間で獣を相手取るには文句のない武器、だった。事前に目当ての獣の周回路を調べ、確実に仕留められるとなれば昼夜にわたって樹上に潜み、息を殺して時を待つ。初めのうちは逃げられてばかりだったが、そのうち兎や鹿といった小物を獲られるようになり、まれに猪まで狩れるようになって、は村に戻るたびに祭りかと見まごうほどの歓待を受けるようになった。
その頃から、雨の男はの許に現れなくなった。
女一人には勿体ない、土間と板間があるだけの家であったとしても、そこはの家だった。山へ入る時には必ず身に着けている獣臭い毛皮を脱ぎ捨て、丁寧に修復された武器と箙を、そう、と板間に置く。今のはこれなしに生きてはいけない。が強くあらねばと決意したのは生まれ育ったこの村のためだった。その決意は少しずつ少しずつ回る毒のようにを苛んでいく。守るため、であったはずが、戦うために変わりつつある。
雨が降って男が訪れたら、名前も知らないその男に、弱音を吐いてしまいたかった。――雨が降っても、男は現れることはなかったのだけれど。
次に男が現れたら、夜が明けるまで起きていようと決めた。
そうして、男にこの村から連れ出して、と頼もうと決めた。
この、閉じ込められたような息苦しさから、あの男ならを易々と連れ出してくれる、どうしてだかにはそんな気がしていた。
いつか、寝物語にと男が語って聞かせてくれた話があった。
戦で夫を亡くしたと伝えられた妻が、その言葉を信じずにひたすらに夫を待ち続け、何年も経ってからボロボロになった夫と再会するものの、再び二人の仲は引き裂かれる。夫は遠くの島へと流され、妻は実家に帰されながらも夫の無事を祈り続けて彼の為にできることはないかと奔走し、何年かに一度の文のやり取りだけを許されて互いの無事を喜んでいた、という。
「もし、そんな風になったらはどうする?」
いたずらっぽく訊いてきた男に、少し考えては返した。
「誰と?」
「俺様と」
ふうと微笑む男に頭を撫でられながら、はその目を見ていられずに瞼を伏せる。
「まず、あなたを探しに行く。戦場へ、お城へ、近くの村々へ。何年も待つだけなんて嫌だわ」
夫婦ではないけれど、それ以前にそのような関係でさえないけれど、今も同じようなものだから、という言葉はの心の中に留めておいた。
「へぇ。俺様が敵方で敗北して、命からがら逃げ延びてるんだとしても?」
「敵だろうと味方だろうと、私には関係ない。それは戦をしてる人たちが決めることで、私にとってあなたは、」
伏せていた視線を上げる。を見る男に、笑ってみせた。
「――その話になぞらえるなら、愛する夫なんでしょう?」
ぱちぱちと意外そうに瞬いた男の姿は、滅多に見られないものだった。それから柔らかに微笑んで、男はを抱きしめた。
「あは、そうだねぇ。は、俺様が大悪党でも聖人でも気にしないでいてくれるんだろうなぁ」
「だって私はあなたのこと、何にも知らない。でも、愛してる、かもしれない」
愛だの恋だの、そういうものがどういうものなのか、は知らない。この男に対してどう思っているのかも、よく判らない。だからそのままに告げた。ぎゅう、と苦しいほどに男はを抱きしめる。そうであるというのに、幼い頃に親に抱えてもらったような温かさも、怪我人を背負った時のような生々しさも、何もなかった。
不意に、男は本当に生きているのだろうかと不安になって、は男の背に手を当てた。わずかに強張りながらもの手を受け入れた男の背は、人のものだった。
しばらく言葉もなくそうやっていた。眠ってしまったをいつものように一人残して、男はいなくなっていた。サヨナラ、だけは忘れずに。眠りに落ちる直前、こめかみに何か温かなものが触れた気がした。
男がに触れ、が男に触れたのは、その一回きりだった。
夢を見た。
涙が止まらなかった。どうしようもなくて外に出ると、明け方だというのにまだ雨が降っていた。の髪をぬらし、頬を滑って足許へ流れ落ちる雨の滴。星が流れるみたいだとぼんやり見つめる。
「……迎えに来て」
転がり出た言葉は止まらない。
「わたしをここから連れ出して」
むせび泣く。
「あなたの空に連れて行って」
ぱしゃ、と小さな音がした。泣きぬれた顔で音の方を見たは目を瞠る。見たこともない姿をした男が、そこに立っていた。腕には大烏を止まらせ、苦いような難しいような表情をしてを見下ろしている。
「……その言葉、本気?」
男の冷え冷えとした声を初めて聞いた。逃げ出しそうになった心を隠して、は頷く。今のを救えるのはこの男しかいない。
「二度とここへは戻れないぜ」
「戻るつもりなんか、ない」
「俺はあんたを攫って人買いに売るかもしれない」
「それでも、いい。……あなたが連れ出してくれるなら」
滴が、睫毛を濡らす。の頬を流れるのは涙なのか雨なのか。
男がはあ、と溜息を吐いた。困ったような苦笑を浮かべて、を抱きしめる。
「こんなにずぶ濡れになって、なにやってんの。風邪引いちゃうだろ」
柔らかな声が懐かしくて、はまた泣く。鋼で硬いはずの男の体が温かく感じられた。
「……俺様を待っててくれた? 名前も、素性も知らないこんな男でもいいの?」
戸惑いがちに掛けられた声に、何度も頷く。しゃくり上げるだけで、言葉が出ない。おバカさん、とそんなに微笑んで、子供をあやすように男はの背を撫でる。落ち着いてきてようやく、途切れ途切れにこれだけ言った。
「あなたに、会いたかった。朝になって、独りなのは、もう、嫌。あなたが、わたしのすべてを変えたんだから」
「――だから?」
間近にあった男の顔は、ひどくいたずらっぽくて、なのに優しい。無理やり笑顔を作っては言う。
「あなたを教えて」
うん、と男は笑う。唇が重なった。
低く昇り始めた太陽に照らされて、細かな水滴が小さな虹を形作っていた。
ばさり、ばさり、人よりも大きい烏が羽を広げて空を飛ぶ。その足を掴む男はを抱えて、見たこともない空からの景色に目を白黒させながらは地上を見下ろす。
「あんまりきょろきょろしてると落っこちちまうぜ」
くつくつと笑う男に抱きついて、は大人しくなる。しばらくして、ぽつりと問い掛けた。
「いつも、こうしてわたしのところへ来てたの?」
「ん? まーね」
「だから、蓑と笠を触られたくなかった?」
「よく気付く子だねぇ。そうだよ、濡れてないってバレちまうだろ」
「そうまでしてどうしてわたしのところに?」
つと上げたの目に映る男の顔は苦虫を噛み潰したよう。
「野暮なこと聞かない! ほら、高度上げるぜ!」
男はの体を抱え直して、向かい風に乗った烏が見る間に高さを増していく。耳許で渦巻く風の中、ふわあ、と声がこぼれた。同時に、風に呑まれて消えるだろうと男が呟いた言葉もこっそり聞こえた。
「雨を口実にしてしか会えないなんて、情けなくって言えるかよ」
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2010/03/02
この話は、坂本真綾ちゃんの「雨が降る」からインスピレーションを受けました。彼女の歌詞は本当に感性豊かで大好きです。どうしても書きたくて書きたくて、何度も挫折して、ようやく形にはなりましたが……。
曲は本当に素晴らしいので、機会があったら聴いてみてもらえればと思います。
私の拙い文章力ではこれが限界です……。悔しすぎる!
よしわたり