バタバタと窓に打ちつける大きな雨粒の音に、元就は目を上げると溜息を吐いた。
天気は大荒れだ。ところによっては雪が降っているらしい。今のところ、この辺りは雨で済んでいるものの、勢いが強い。さらには吹く風によって屋内の障子がカタカタと小さく鳴っている。現代建築による完璧な設計をされているわけではない家は、完全な密閉空間ではないから多少の隙間風には目をつむるしかない。
春の嵐。そうしてまた、元就は溜息を落とす。二度目のそれに、窓辺にいるが元就を振り返った。
「どうかしました? 元就さん」
「……なんでもない。お前は何をしている」
「台風が来ると訳もなくワクワクしちゃうことってありません? なんだか、そんな気分になっちゃいまして」
「気楽なものだな」
クスクスと笑うに鼻を鳴らす。再び机上の原稿に集中しようとした元就に、がすまなさそうに言った。
「お邪魔ですね、申し訳ありません」
「気にするな。この嵐の中を帰られて原稿を紛失されてはこちらが迷惑だ。風雨が落ち着くまで待て」
雨の中、今朝が締め切りの原稿を取りに来ただったが、チェックを入れている間に天候が悪化してしまった。わざわざ原稿を取りに来させている、ということから元就が編集部に連絡を入れて、は嵐が通り過ぎるまで元就の家にいさせるように言った。
電車の運行に支障が出ていたりずぶ濡れになって帰ってきた社員がいたりで大わらわな会社もそれを簡単に認めて――というよりは、元就の原稿を第一に考えてさらにタクシー代をケチった上での判断なのだが、今に至る。
平屋建ての、いかにも旧家然とした家に元就は一人で住んでいる。
応接間も他の部屋もあるのだが、が訪れる際に元就は決まって書斎で応対しているため、はなんとなく他の部屋に行けなかった。書斎とお手洗いしか入ったことがないのだから仕方がない。そのため、執筆を再開した元就の邪魔にならないようにと縁側に近い部屋の隅に移動し、手持無沙汰にガラス戸越しに庭を眺めていた。
そこに、二度の溜息である。お互いにどうにもならない状況に飽きていたのかもしれない。
「あの、差し出がましいようですが、元就さんはどうして紙原稿にこだわるんですか?」
すぐ傍に置いた分厚い茶封筒を見、元就の文机――デスクではなく本当に文机なのだ、を見ては問うた。若干眉を寄せた元就があっさりと答える。
「文章を書くのにこれ以外の方法はなかろう」
「PCは使わないんですか?」
「使っておろう。だがあれは文章を書くための道具ではない」
確かに元就はラップトップを使っている。が、それで執筆を行いはしない。取材以外でほとんど外出をしない元就にとってPCはなくてはならないツールなのだが、それとこれとは別らしい。眉間の皺がに移る。
「よく判りませんが……、そういうものなんですか」
「そういうものだ」
それだけ言うと、元就はペンを置く。気難しい作家先生の機嫌を損ねてしまったかとびくつくに呆れた視線を残して、部屋を出た。
「茶を淹れる。しばし待て」
居間の、昭和の香りのする丸い食卓でお茶をいただくことになった。
元就の担当編集になって年数が浅いがこちらへ呼ばれたのは初めてだ。おそるおそる、といった風情で足を踏み入れた部屋は古風とレトロモダン、そしてハイテクが見事に調和した空間だった。真新しい畳の匂い、薄型の大画面液晶テレビ、磨りガラスのはまった仕切り戸、丸い座卓にふかふかの座布団、黒く美しい大黒柱、床の間には一枝の梅が生けられている。
「元就さんって、風流ですよね」
感心して言う。茶器の乗った盆を手にした元就は小さく息を吐く。
「そうでもなければ作家などという缶詰仕事、やっておられぬわ」
元来が引きこもりの性質かと思っていたが、そうではないらしい。
「……外へ出たいとは思っているんですね」
「出られる暇があればな。取材もじっくりと時間をかけてその地の空気を体感したいところだが、そうもいかぬであろう。こうなることを考えていなかったわけではないが――少々、気が塞ぐこともある」
文芸誌の連載に書き下ろし作品。常に一定以上の仕事を抱えている元就だが、それを造作もなくやりのけているのだと、は思っていた。愚痴らしい愚痴を初めて聞いて、きょとんとしてしまった。
「……間抜け面を見せるでない」
元就の鋭い視線と冷ややかな言葉がに向けられた。慌てて気を引き締める。
「そんな顔してました?」
無言。
基本的にこの家は座って生活することを考えられているため、応接間以外は和室である。家主の元就も和装が多い。必然的に家に上がらせてもらう担当編集のも座らなければならない。座りにくいジーンズや皺になるパンツスーツは避けるようになった。さすがに和服は着付けを出来ないので着ないけれども。
先に座った元就に続く。出されたお茶の香りには頬を緩めた。
「これ、この間私が持ってきたお茶ですよね? どうでした?」
「悪くない」
「そうでしょう? 元就さんがお好きそうな香りだと思いまして」
「ふん。この程度で知った風な口をきくのか」
以前が差し入れた、玄米茶をベースにすっきりとする香りを特徴とするそれは、元就に気に入られたようである。
お茶請けは今日持参した餅だ。柔らかすぎず硬すぎず、甘さも控えめで評判のものなのだが、開店と同時に買いに行くくらいでなければすぐに売り切れてしまう。今朝は元就のところへ来る予定だったし、雨のお陰で客も少なく、簡単に手に入れることができた。気になりつつも逃してばかりだったも、初めて食べるので一抹の不安があった。
「こちらはどうですか?」
味を確かめるように食べた一口目。ついで、ぱくりと食べ切る。気に入ってもらえたようだ。
「……まあ、悪くない」
「よかった」
はほっと笑って同じように一ついただく。噛むともっちりとしているのに、ほろりととろけるような食感。評判になって当然といえた。
作家と編集。お茶の席でも話題はいつもと変わらなかった。それが元就らしいといえばらしいし、そうでなければ何を話せばいいのかには判りかねる。そうやって一息ついた頃、雨の音がバリバリとひどくなった。二人で窓の方を見て、あ然とした。
「霰、ですね……」
「この時期に、珍しいな」
見る間に庭を白いかたまりが覆っていく。雨から霰になっても強さは変わらず、むしろ勢いだけなら強くなっていた。時折、突風が窓ガラスを鳴らしていく。
「これ、止みそうにないですね」
午前中には会社へ戻る予定だったのだが、このままではそれも難しくなりそうだ。時計を見ながら思案するを余所に、元就は悲しげに項垂れていた。
「元就さん?」
「そろそろ大丈夫だと思って植えたばかりの球根が……」
外出はしないくせに、日光は体に良いとかで元就はやたらと庭いじりをしているらしい。南に面して広く取られたこの家の庭も、大きな木は植木屋に頼んでいるが、それ以外はほとんどが元就手ずから手入れを行っているのだと言っていた。もしかすると、設計から自分でしたのかもしれない。そうすると、庭がよく見えて日当たりのいい書斎も居間も――それ以前にこの家自体が、彼の設計によるものではないかという考えが湧き上がってきて――、は首を振って何も考えなかったことにした。
すっかり白くなってしまった庭土に、見るも切ない元就に、あいまいな返答で場を濁した。
「……残念ですね」
結局、霙になったものの天候は回復しなかった。お茶をいただいた後、テレビの天気予報で回復が見込めないと知ったは会社に午後半休の連絡を入れ、元就の家で一日を過ごしたのだった。霙なら雨よりは濡れません、と言って強引に帰ろうとしたをひと睨みで黙らせた元就に逆らえるほど、は強くないのである。
書斎へ執筆に戻った元就に居間を借りて編集作業を行っていたところ、さっさとそれを片付けよ、と言われて疑問を抱いているうちに昼食を振る舞われ、断れば怖ろしいと知ったは大人しく手料理をいただいた。男の料理というものではなく、素朴な家庭の味という方が適していて、おいしいと思わず呟いた言葉にほんのわずかだけ目を細めた元就が意外だった。
お茶を飲み、食事をし、毎日こうして一人で生活しているのかと、毛利元就という人間のことを初めて知ったようだった。書斎での作家姿しか見たことがなかったは、元就は実はロボットなのではないかと――ほんのちょっぴりだが、思っていた。
さすがに夕食までごちそうになるわけにはいかないから、とタクシーを呼んで帰る旨を伝えると、案外あっさり元就は頷いた。その頃には昼よりもいくぶんか小降りになってきていたのもあるだろう。
玄関まで送りに来た元就の目の前で原稿をしっかりと確認して、は深々と頭を下げた。
「今日は長々とお邪魔をしてしまい、申し訳ありません。本当にお世話になりました。ありがとうございました」
「よい。今日を指定したのはこちらだ。それに天候は如何ともできぬ。……気苦労をかけてしまったであろう、すまない」
思わぬ言葉に顔を上げれば、懐手で目を逸らした元就。は微笑んで首を振った。
「いいえ、元就さんのいろんな面を知ることができて、よい一日でした。よろしければまた、お茶をご一緒させて下さいね」
「我の好みを少しは判っているようだからな、――次は練り切りを」
最後は聞こえるか聞こえないかだったけれど、ばっちり聞き取った。
「わかりました」
クスクスと笑うとまた、不機嫌そうないつもの表情。
「それでは。お邪魔しました、失礼しますね」
無言の元就に一礼してから、は家を出た。
タクシーの待つ門までの短い距離、傘を差して原稿を入れたカバンをしっかりと抱え込む。
「よし!」
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2010/03/11
春の天気は移ろいやすくっていうけれど、こりゃないぜと思った先日の嵐。
よしわたり