春霞の去った宵の空、明星の輝きを曇らせてしまうかのように照らす望月。人も獣も、木々でさえも、月明かりに影を黒々と落としている。つねには雄々しい波の打ち寄せる土佐の浜も今宵は静かに眠りに就いていた。
 海を眺める日当たりのよい丘の中腹に、長曾我部に所縁のある家々の墓所があった。その端に一本の山桜が枝を伸ばし、満開の花を咲かせている。傍には、小さな石塔が一つ。そこに、幼い少女が一人腰掛けていた。ほっそりとした足をぷらぷらとさせ、ふくよかな頬は月に照らされて白く。桜も石塔も黒い影を落としているというのに、少女の影は形もなかった。
 さっと吹いた風に桜の花びらが舞う。差し出した手をすり抜けたそれを見て、少女は頬を膨らませる。

、か?」
 不意に男の声がした。夜に墓参りをするような恐れ知らずは驚かしてやろうと、少女がそちらを見て――声を出した。
「若様?」
 銀糸の髪に左目の眼帯、海色の瞳は間違えようもない。数本の花を差した手桶を左手に、右手には煙の上がる線香の束。少女の表情が曇る。
「なにしにきたの?」
「何って、……どう見ても墓参りだろうがよ」
「誰の?」
「さて、誰だかな」
 少女の問いをはぐらかし、元親は墓石の間を抜けて行く。どかりと腰を下ろしたのは、少女が乗っている石塔の前。
「ほら、水遣るからどけ」
「退けって、好きな場所にいるんだから若様に退かされたくない」
 元親はそっぽを向いた少女に溜息を落として、隣の桜を見上げる。
 この木は元親が望んで植えた。少女の代わりに育ってくれとの願いを込めて。桜は望み通り、少女が失った歳月を生きて、十二年になった。少年は青年になり、時を止めたままの少女と相対している。今日は少女の、十三回忌だった。
「なんで、いるんだ」
「……若様が、望んだから」

  軽やかに桜の枝に移ったは眼下の海を眺める。元親は石塔に水を遣り、茶碗を洗って水を注ぎ、線香を立てて、――花を活ける筒はなかったので花は寝かせて置いた。それから無言で手を合わせ、を見上げた。
「もう、十二年だぞ。なんでまだいるんだ」
 同じことを訊く。十二年前の幼い姿のまま、は海を見つめる。
「若様が望んでいるから」




 十二年前。
 長曾我部家の家臣の子であるの年の離れた姉はもう嫁に行っていて、父も母も男兄弟にばかり目を掛けるものだから、も兄弟に交じって男の子のようにして育った。それを咎めるのは乳母くらいのもので、父母はむしろ喜んでいた。女だてらに戦に出る者はある、手柄を立てて名を挙げてみせよ、と煽るのだった。
 数えて十になるかならないかの元親と年が近かったため、彼と共に学を修め武を磨き、いずれ長じた主君の有能な手足とならんとする少年達の中で、も同じように志高く文武に励んでいた。若様若様と、は元親を呼び慕い、元親もをよく可愛がった。厳しい修練にもべそ一つかかず泣き言一つ漏らさないは、きっと功名を成してみせると、誰にも思わせるところがあった。
 ただ一つ、水泳だけがの苦手とするところだった。馬の少ない四国で陸路を伝って他国を攻めるのは難しい。海からならばいくらでも攻めようがある。もちろん、河野に村上、塩飽といった強力な水軍はいたし、阿波の三好も讃岐の細川も易々と海路を使わせるはずはない。だが、長曾我部が土佐を押さえて外へ打って出るには水軍なしではあり得ないと言えた。
 だから、が泳げないのは長曾我部軍の将兵になるのが困難だということになる。それは嫌だとては泳ぎの訓練を積んだけれども、できぬものはできぬ。塩水を飲んで溺れているところを何度兄弟や元親に助けられたか知れない。その度に諦めろと言われては首を横にする。その繰り返しだった。

 ある春の朝、いい凪だから武芸の時間に抜け出して沖で釣りでもしようということになった。反対する者はなく、それぞれ釣り竿に餌、魚籠を持って船着き場へ集まった。ももちろんついてきて、大きな鯛を若様に釣ってしんぜるのだと意気込んでいた。
 だが、船に女を乗せるのは縁起が悪いと誰かがこぼし、それは滴を水面に落としたように少年達の間に広まった。の兄弟でさえ、それには反論しなかった。ならば一人で船に乗るとて、は小舟を漕ぎ出してさっさと潮に乗ってしまった。残りの者共は顔を見合わせ、仕方なしに舟を出した。
 釣果はまずまずだった。一刻ばかりで夕の膳が豪華になるほどには釣れた。さて陸へ戻ろうかとなった時、まだ若様の大きな鯛を釣っていないと糸を垂らしていたの竿がぐっとしなった。これは大きいと誰もが喜び、やれ引けそれ引けと皆でを応援し、も船縁に足を掛けて釣り上げるのに必死だった。だから、船が傾くのに気付くのが遅れた。

! 危ねえ!」
 元親が叫んだのと、がはっとしたのと、船がひっくり返ったのは、あっという間のことだった。
!」
 とっさに飛び込もうとした元親も、の兄弟も、それぞれの船に乗っていた他の者が抑えて言った。
「潮の流れが速い! 今飛び込むのは危険だ!」
! 船に掴まれ! !」
 ばしゃばしゃと、船底を見せている小舟のすぐそばで溺れているには言葉が届かない。潮が引き始めて少し経っていた。沖の流れは大きい。小舟もも流されて離れていく。櫓を漕いで櫂を伸ばし、を救おうとしてもはそれに掴まる余裕がない。
 元親の乗った船がなんとか流れをつかみ、元親がの手を引き上げたのは、――力を失ったが海中へと沈んでいく直前だった。

 全速力で陸へ戻る最中にも、陸へ上がってからも、水を吐き出させたり声を掛けたり、の意識を取り戻そうと元親は尽くせる手を尽くした。だが、無情にもの顔は既に白くなって、息は止まったまま呼吸を再開することはなかった。
 やっぱり船には女を乗せちゃいけなかったんだ、と呟いた少年を元親は殴り、の兄弟は自分達がを止めておくべきだったと泣いた。元親も、吹いていないはずの潮風を舐めた。




 さあっと、山から海へと少し強い風が吹き下ろした。の腰掛けている山桜が花を舞わせて、風に目を細めた元親はひとひらを摘まんだ。線香が灰を飛ばす。
「人が望むから、あたしはあたしの姿のままなの」
 髪の毛一本風にさらわれなかったが言う。元親を見下ろして。
「若様はまだ、あたしが死んだ事を悔んでいるでしょう? こうして墓参りにくるくらいには」
「あの時、何が何でも止めとくべきだった。迷信に惑わされずに俺の船に乗せとくべきだった。飛び込んで助けるべきだった。慕ってくれてるてめえの部下一人助けられなくて何が大将だ。……悔んでるなんてもんじゃねえ」
 語気が強くなる元親の指の先で、白い花びらは潰れる。はまた視線を海に転じて静かに言い放つ。
「あたしはもう死んだし、若様が悔やんだところで生き返ることなんかないのに」
「そんなことは判ってる! 俺の不甲斐無さが情けねえだけだ!」
 声を荒げた元親。は木からふわりと降り立つと元親の脇に控えてぐっと顔を歪めた。
「じゃあそんなことにあたしを関わらせないで! 若様が悩むたびにあたしはまどろみから覚めてるの! ああまた若様が悔やんでる、悩んでる、でもあたしには何もできない!」

 元親が目を瞠ってに向かう。十二年前のままの姿をした少女は、涙を流していた。
「若様は人の上に立つお方だからたくさん悩んでるのも知ってる。戦をするたびに部下を失って悔んでるのも知ってる。そのたびにあたしのことも思い出してるのも、知ってる」
「どうして……」
「あたしがここにいるのは、若様が望んでるから。そう言ったでしょう」
 呆然とする元親に無理やり作った笑顔では言う。
「このままだといつまで経ってもあたしはここにいなきゃいけない。死んだのに、休めない。とこしえの眠りに就くためには若様にふっ切ってもらわなきゃ」
「俺が、をこの世に縛り付けてたのか……」
「縛られてると思ったことはないよ。若様が苦しんでるのがあたしも苦しかっただけ」
 元親の言葉に慌てて首を振って困ったように笑う。そこに今と何一つ変わらない部下との関係を見て、元親は胸を潰されるような思いがした。
「すまねえな……」

 線香が燃え尽きて、満ちた月は影をほんのわずか動かしていた。がふと立ち上がった。己の代わりによく生きている桜の幹をいとおしげに撫でて言った。
「桜の根元には死体が埋まっていると言うでしょう? その血を吸い上げて赤くなるんだって」
 元親は苦笑しながらを見る。
「そうだな」
 にこりと笑ったは手の届く枝を揺らそうとして、――手は空を切った。呆れた元親が立ち上がって、大きめの枝を揺らす。白い花びらが二人を包むように舞い落ちる。
「あたしは違うと思う。夜に昼に、白く浮かぶは心残りのない証」
 深々と頭を下げたの、足許が薄くなってきていた。
「若様の、ご武運を――」

 花びらが全て地に落ちた時、そこには元親一人しかいなかった。桜の花を散らせた小さな石塔にもう一度手を合わせ、元親は目を閉じた。
「長いこと留めちまって悪かったな、。もう大丈夫だ。ゆっくり眠ってくれ」
 静かに寄せては返す浜を見下ろして、元親は手桶を片手に帰路につく。









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2010/04/05
桜の季節になりました。
よしわたり



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