この時期、は朝晩の家から駅までの道をいつもと変える。ちょっと遠回りになってしまうけれど、桜のきれいな公園を通り抜けていく。日ごと日ごとに咲いていくのが判って、春だなあと思えるのが幸せだ。朝のまだ冷たい空気の中で桜を見ると一日頑張ろうと思えるし、夜のライトアップされた桜を見ると幻想的で疲れも癒される。
 最近は公園のベンチで温かいお茶を飲みつつぼんやり桜を眺めてから、家に帰るようにしている。佐助といる時間がなんだか気まずくなってしまって、少しでも短くしたいから公園で一息ついてから帰って、ご飯を食べたらすぐに部屋に入って雑誌を読んだり、たまに仕事の残りをしたり。見たいテレビ番組がある時くらいしかリビングに残らない。そういう時でも佐助はが見るテレビはあまり興味がないから会話は少ない。
 佐助が、何か言いたそうなのは気付いていた。は、無駄な足掻きと判っていて逃げているだけ。いつかは向き合わなくちゃいけない。


、少し話をしようか」
 言葉少なに二人で取った夕食の後、部屋へと引っ込もうとしたを声を掛けるだけで捕まえて、微苦笑を浮かべた佐助はそう言った。
「話?」
「うん、ちょっと大事なお話」
 小さく眉を寄せたのを見逃さずに、佐助が言い募る。ちょっと、よりも、大事な、に重点を置いて。
「判った」
 軽く笑う。
 ――鬼ごっこは今日でおしまい。
 佐助の目が、それを物語っていた。




「とは言ったものの、何から話そうかねー……」
 いつものように、ソファの両端にと佐助。佐助は背もたれにもたれかかって浅く座り、足を投げ出している。一方のは膝を抱えて、互いに視線は合わさないまま。テレビは消して、携帯の電源も切った。ガリガリと頭をかく音がして、重い溜息が聞こえた。佐助はよく溜息を吐く。以前、溜息を吐くと幸せが逃げるんだよ、と言った事があった。その時は、息を吸うのと一緒に幸せも拾ってるから大丈夫、と見当違いにへらりと笑われた。またその変な持論が聞きたくて、ちらりと佐助を見た。
「溜息を吐くとね、」
「幸せ逃げてばっかりだわ、ホントやんなっちゃう俺様」
 が言葉を続けるより先に佐助がくたびれたように笑った。目を丸くしていると、だからこれ以上逃がさないようにしないと、と何事か呟いた佐助が神妙な表情をした。
。俺の話、笑わないで聞いてくれる?」
「……うん」
「人呼んで猿飛佐助、――俺様実は忍なの」
「シノビ?」
 深刻そうに告げられた言葉をは反芻する。シノビってなんだっけ、と思いだすために。
「そ。忍。草とか素波とか……、忍者って言った方が判りやすいかな」
「……忍者?」
 夕方のアニメでやっていたり、ほっぺたにのの字を書いていたりするお子様が頭を掠める。のしかめた顔を予想していたかのように佐助は苦笑した。
「あー、思った通りの反応」
「だって、いきなり忍者だって言われても……。どういうこと? 今のバイトでスタントとかやってるの?」
 首を振った佐助は苦笑したまま、人差し指で自分の胸元をトントン、と叩いてそれを中空へ向けた。
「今、向こうで眠っている猿飛佐助の事。向こうは戦の世でね、そこで俺様は忍なわけ。これでもかなり有名なんだぜ」
「向こう」
 悪戯っぽく笑う隣の男は、の知っている佐助だろうか。僅かに目を見開く。
 ――自分の身の上を明かそうとしている。


 は喉許にざわついたものを感じ始める。これまであえてが避けてきたものを、佐助はとうとう話題に出した。互いの過去。幼い頃の話になると、なんとなく逃げて済ませていた。――二人ともが。それに、こちらで佐助に見せない春の姿、向こうで生きている「忍」の佐助。最後の抵抗のつもりではそのラインは越えなかったのに、佐助は越えようとしている。
 だけど、本当はいつかこうなるのだろうと思っていた。佐助になら話してもいいとも思っていた。ただ、頑なに孤独な鎧の内側に引っ込もうとする自分を止める術をは知らなかったのだ。そんなの心も一緒に引き留めて、佐助は自らの内へと異邦人のをいざなう。――話してしまえばどうなるか、判らないほどバカじゃないはずなのに。
 にんまりと笑う佐助は、の内心などお見通しなのかもしれない。の口から言葉が出てくるのを今か今かと待っている。その瞳には子供のように楽しげな色が乗っていた。
「忍者って、じゃあ忍術使える?」
 少し考えて問い掛けた言葉に、佐助は吹き出した。としては真剣に訊いたつもりなのだが。む、と視線を少しだけ逸らせれば、ゴメンと謝る声がするけど、笑ったままだ。
「いきなりそれ? 向こうでは使えるけど残念ながらこっちでは使えない」
「使えるんだ! 隠れ身の術とか分身の術、とか?」
 こっちで使えなくても、向こうでは使えてるというなら気になるもの。ぱっと思い浮かんだものを挙げてみると、佐助の表情が悪戯っぽさを増す。
、ワクワクしてるでしょ」
「だって! 忍者って! すごい!」
「へへー、俺様大感激、ってな。どっちもお任せあれ。空蝉に雲隠もできるぜ」
「なにそのすごそうな名前!」
「空蝉は自分の居場所をとっさに入れ替える術、雲隠は短い間だけど人の目から逃れる術、ってなとこかな」
「へえ!」
 向こうの佐助は本当にマンガのようなことができるらしい。心の底から驚いた。それに気を良くした佐助が他にも他にも、と語って聞かせてくれる。これまで核心に触れる事がなかった、向こうでの「猿飛佐助」。しばらく、嘘のような真の話に聞き入っていた。


「……で、まあ俺様は真田の旦那、ひいては武田の大将に仕えてるってことになる」
「サナダの旦那? タケダの大将?」
 旦那や大将は普段から佐助が向こうの仲間を呼ぶ時に使っているから多少は判る。それに人の名前がついたのは初めてだ。佐助も、をちゃんと見ていた。
「知ってる? 真田幸村、武田信玄」
「え?」
「知らないわけないよね、有名人なんだから」
 どこかおかしげに問うてくる佐助に、歴史の教科書だか資料集だかの肖像画を思い出そうとして、失敗した。苦々しく思い出されたのは、真田幸村と武田信玄という、漢字。漢字は散々書いて覚えた記憶がある。
「知ってるけど……。それが佐助とどういう?」
「だから、俺様の雇い主。俺が命を懸けてでも守り、仕えなければならない人達。――そのためには、人だって殺す」
 すっと佐助の声が低くなった。ぞわりと悪寒がして佐助から体ごと顔を背ける。気付かないはずがなかろうに、佐助はそのまま続ける。
「戦の世って言ってもは判んないだろうね。こっちじゃ人一人死ぬだけで大事だ。外国では戦争やってるっていうけど、余所事だろ。俺がいるところは違う。人と人が刃を交えて戦って、殺し合う。敵をより多く殺した者が名を上げる、そんな世だ」
 両腕をかき抱いて、身を固くしてから佐助を見た。そこに恐れていたものはなく、誇らしげなのに悲しそうに眉尻を下げた、青年がいただけだった。
「武田の大将も真田の旦那も、この俺も。己の腕だけじゃなく人の腕まで使ってより多くの敵を殺してきた。大将の上洛っていう悲願のためには旦那も俺もそんなことを気に病んだことはない。これからもそうであり続ける。――けど、ご大層な事掲げてても、やってることは人殺しに変わりない。忍だからそのあたり麻痺してると思ってたんだけど、」
 そう言って一度言葉を切る。ちらりと盗み見た佐助の視線は、部屋の隅の大きな籠に向けられていた。が中を見たことはない。向こうでの「猿飛佐助」をこちらではそこへ押し込めているのだろう。
「人、殺してんだ。俺」
 へらりとなんでもないように言った声は明るいのに、その顔には絶望がありありと浮かんでいた。




 佐助の世界の話に理解が追いつかない、がいつもそうなのを見越して口早に言ったのだと思う。なぜか、その時のはひどく頭が冴えていて、佐助の言うことを一度で理解した。
 同時に、がすべきことも、理解していた。
「それが、向こうの『猿飛佐助』なんだ。話してくれて、ありがとう」
 いつもどおりに笑えたかどうかは判らない。
 ――私は、佐助の身の上を背負い込む。
 ぐっとお腹に力を入れるようにして、佐助に向き直る。の覚悟はきっと佐助には筒抜けだろう。それでよかった。ほんの少しだけ、間抜けな顔をした佐助が緩く苦く笑っていた。


 改めて、佐助から出された名前を確かめてみる。
「武田信玄って信玄堤とか上杉謙信とか、その武田信玄?」
 が訊くと、さっきとは比にならないくらいの間抜け面が長いこと佐助の顔に座り込んだままだった。
「……え、ええ? 治水の堤と最大の敵を同列に扱うの?」
 それから、もう慣れてしまった呆れ顔。歴史の教科書の同じページに書かれているような事が、佐助的にはものすごい格差があるらしい。本当は信玄餅も言うつもりだったけど、言わなくて正解だった。この時ばかりはやたらと冴えていた頭に感謝した。
「私の中ではそれくらいしか印象になくて……」
「うーわ、こっちじゃ大将、いや、大将じゃねーか、あー、武田信玄公ってそれなりに有名でしょ? なのに出てくんのってそれ?」
 世界が違うから、人も違う。佐助のように同一の時間に二つの世界に存在していない限り。佐助は呆れてものも言えないといったふうで、額に手をやって考え込んでいた。そうして、は自分の頭が全く冴えていなかったことに気付く。気付けただけマシなのかもしれない。
 歴史の教科書。佐助が出した名前は、歴史上の人物の名前だ。武田信玄、真田幸村、上杉謙信。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、関ヶ原の戦い、江戸時代。教科書では見開き2ページになるかならないかの中に、佐助が向こうで仕えているという人物の一生涯が無造作に詰め込まれている。それも一人だけではなく、何人もの、何十人もの、そしてその時代を生きたすべての人々の。
 が生きているのは、膨大な歴史の上だ。その生涯は1ページにも一文字にも残りはしない。ぞっとした。
 ――佐助は、判ってる……? 自分がこの世界では過去の人なこと。それは、もしかすると同じかもしれないけど、おそらく別の人なこと。人を殺してでも、命を懸けて守る、仕える、って言った人達が歴史の中に埋もれていること。……なにより、自分の一生が、歴史にたやすく飲み込まれてかき消されてしまったことを。
 の恐怖には思い至らない様子で、どこかげんなりした佐助が訊いてきた。
「じゃ、真田幸村は?」
 は慌てて頭の中で教科書のページをめくるイメージを浮かべる。
「……大坂の陣」
「……それだけ?」
 ぎりぎり出てきた単語は合っていたらしい。佐助は片眉を上げるだけで大した反応はしなかった。これ以上待ってもから他の語が出ないと諦めてか、溜息を落とした。がごめん、と言う前に、佐助が力ない笑みをみせた。
「そーすると、絶対、は俺様の名前なんて聞いたことなかったんだねー」
 無駄に緊張しちゃった、とわざとらしい溜息をこぼした佐助の言葉が引っ掛かる。
「佐助の名前?」
「猿飛、佐助。聞き覚えない? 俺様以外で」
 念押しは忘れずに。多少イラッとして佐助を睨む。すい、と上下させられた肩が余計に腹立たしい。絶対に聞いたことがあるはずだ。思い出せ、思い出せ。マンガやアニメの子供の顔や、時代劇のいかにも忍者な役の名前を一つ一つ確かめていく。時間がかかっても、確実に思い出さなければ。必死に記憶と戦うに向けられた、ほんの一瞬、戸惑い。それの意味するところ。
 ――佐助は、別人かもしれない自分が歴史にどう残ってるのか、知ってる。知ってて、怖がってる。一つの未来を、見てしまった……。
 ああ、とは頭を振った。
 今はその話をするべきじゃない、そのくらい判る。判るけれど、ドクドクと上がる脈を押さえることはできなかったし、悲痛になっていく表情を止められなかったし、こみ上げる嗚咽をこらえることもできなかった。


「猿飛、佐助!」
 口が先に、言葉を発した。
 唐突に思い出した。ハットリくんでもなく、乱太郎でもなく、随分と古いけど、なぜか知っているフレーズ。さすがの猿飛。
「……ある、んだ。の中に」
 ひどく、ゆっくりと、佐助がごくごく薄く微笑んだ。微かなそれははっきりとしないけれど、見ているさえ微笑ませる、心の底からの喜びだと判った。
「覚えてる、猿飛佐助。すごい忍者で、何がすごかったか覚えてないけど、すごくて、さすがの、さすがの猿飛って」
「うん、……うん、全く意味が判んないし何にも覚えてないんだ。それなのに、ちゃんと、あるんだ……」
 一生懸命伝えようとすればするほどもどかしくなって、こんがらがる。それでも佐助は判ってくれた。ぼろり、と涙が溢れてきた。
「いたよ、ちゃんと。私の中にも」
「……うん」
 佐助が、それだけ言っての頭をぎゅうと抱きかかえた。痛いくらいの力に抗おうとして、早鐘を打つのは自分の心臓だけではないことを感じた。込められた力もに、というよりは佐助自身が強張っている。
 ――私と同じように、佐助も、怖いんだ。生きてるから。
 世界が違う、だけでは済まないかもしれない。ズレてしまった当の本人かもしれない。時系列や関係が微妙に違うのは長い時の間で何かが忘れられたせいかもしれない。佐助のこれまでの言動からして、炎を体から燃え上がらせたり雷を降らせたりする人はこちらにはいないから、違う世界だと信じたい、が。
 同じ名前を過去の時代に見つけて、その生涯の、特に死に際を知って、さらに先を見てしまうのは、どんな恐ろしさだろう。その名前が当たり前のように飛び交っている状況で、佐助はよくもここまで精神が保てたと驚く。自分の身に降りかかってくることは到底考えられなくて、には想像しようもない。
 だから、黙って背中を抱きしめた。怖い思いを少しでも和らげられるように。佐助は完全無欠な人間なんかじゃなかった。と同じ事を怯えるくらいには生身の人だった。それをようやく理解したこと、一歩踏み出して向こうの佐助の話をしてくれたことへの労わりを、両腕に託した。細く見えていた体は思っていたよりしっかりしていて、夏の日を思い出した。手のひらに、ささいな疑問を持った七夕の夜。


 ――戦う、人。戦う、体。戦う、忍。これが、猿飛佐助。
 すとんと心におさまるのを待ってから、は顔を上げた。もう、二人の怯えも怖れも消え去っていた。お互いの体温が心地よいと思えるほどには落ち着いた。
「私の話を、聞いてくれる?」
 が一つ、できの悪い微笑を浮かべた。









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2010/04/03
2010/04/10 訂正
また古いネタを出してと思われるかもしれません。設定の都合上、主人公は最近のマンガは読まない人です。猿飛佐助モチーフのキャラはもちろん、講談とか小説に出てくるのもうろ覚え。
『さすがの猿飛』が出てきたのはたまたま。しかも猿飛佐助だと思っているけど佐助じゃないんだよっていう……。
途中で名前を出した忍者とその卵達は幼い私の身近にいてくれました。彼らに感謝を。
よしわたり



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