四月に入って仕事が少し忙しくなった。人事の入れ替わりがあったし、新人も入ってきたしで三月までとは違う仕事を任されるようになった。それなのに以前より仕事が捗るように思えるのは、の心に大きな転機があったからだろう。
佐助に、これまで誰にも言わなかった過去を打ち明けた。被災した事、親がいない事は調べればわかる事だし、大っぴらには言わなかったけど隠すほどではなかったから訊かれれば遠回しに答えていた。でも、異世界へ落ちてそこで死んだ、なんていうのは夢だと思っていたから口にした事も、思い出した事もなかった。佐助が自分の事を話してくれて、ようやく思い出したくらいの事だけど、もしかするとそれがと佐助を繋いでいたのかもしれなかった。だから、話してよかったと思っている。
そんなこんなでいつもより忙しいけれど、視界がクリアになったようで考えもすっきりしているし、何か充実して感じる。現金かもしれない。でもそれは、忘れていたと思っていても、頭の奥では覚えていた一番の悩みが軽くなったのだから当たり前だろう。何人かに、彼氏でもできた?、と訊かれたけど、重い悩み事が減っただけ、と笑って返した。なぜだかみんな不思議そうな顔をして、それから、よかったね、と言ってくれた。
お昼休み、ランチへ行こうと何人かで話をして、出掛けに携帯を見ると佐助からの着信履歴があった。履歴の時間はついさっきだから、の昼休みの時間を考えて掛けてくれたのだと思う。ちょっと電話してくるから先に店へ行ってて、と頼んで、ビルを出たところで掛け直した。
「……も、しもし?」
佐助は電話に出るのがあんまり得意じゃない。いつもつっかえつっかえになってしまう。それがおかしくてちょっと笑った。
「もしもし、佐助? 何か用があった?」
「……、笑わないでくれって言ってるだろ。苦手なんだよ俺様……」
肩を落とした情けない姿が目の前に見えるようだ。相手に見えないのをいいことに、電話口でにんまりしている変な人になりそうだった。
「それだけ?」
「んなわけないでしょーが。今日、早く帰ってこれそう?」
「いつもと同じくらいだと思うけど」
「じゃ、花見に行こうよ。弁当作って駅に迎えに行くからさ、近くの公園で。さっき見に行ったらちょうど満開で散り始めってところだったから」
「行く!」
佐助の提案に一も二もなく頷いた。佐助が言っているのもが朝晩寄り道している公園で合っていると思う。自宅のある駅周辺だとそこが一番桜の本数も多いし、名所になっているから。
「判った。……でも、いいの?」
「なにが?」
「俺様と二人で夜桜、なんて見られたら噂が立っちまうよ」
くつくつと悪戯っぽく笑っている佐助を、ふふん、と鼻で笑う。
「アルコール入れて、春の陽気に浮かされたのかも、って笑ってれば多分大丈夫! 友達とかが気付いたってそっちも花見に来てるんだろうし、酒飲んでるだろうから。そっかーははは、で終わるよ」
「……そんなもん?」
「うん」
ここ毎日通ってるから大体の顔はもう見た気がする。週に二回も三回も同じところへ行くのは顔ぶれが変わってもあんまり気が進まないんじゃないだろうか。私なら嫌だ、とは自分の判断を信じてきっぱり言い切った。
「がそういうならそういうことにしとく。んじゃ、また帰りに電話してよ」
「はーい。また後でね。お弁当期待してる!」
「まーかせとけ!」
自信満々の佐助の口ぶりからして、きっと手の込んだお弁当が食べられる。今日は何が何でも定時に帰るぞ、と意気込んでパチンと閉じた携帯の音も景気よく、はランチの店へと歩いていった。
「……終わったー!」
こっそり呟いて時計を見る。終業時間5分前。残っている雑務を急いで片付けていたら5分なんてあっという間だった。今日はミスもないし、残業もない。おまけにこれから美味しいお弁当を食べながら夜桜を楽しめる。浮かれていたのが外に出てしまっていたのか、隣の子に苦笑いされた。
「、機嫌いいね。これからどうするの?」
「美味しいお弁当持って、お花見に行くの。近所の公園がちょうど見頃でね」
「いいなー! 私もいきたーい!」
「ダメ、お弁当に余裕がないから」
「……どこの料亭の高級弁当予約したの?」
「秘密。また今度の休み、桜が散っちゃわないうちにランチ行こうよ。桜並木が見えるお店、冬の間に見つけといたから」
「わ、いいねー!」
「でしょ? じゃ、お疲れ。また明日ね!」
「お疲れ!」
雑談をしながら帰り支度を済ませて、フロアを出る。お疲れさまです、と他の人達にも声を掛けて、はエレベータホールへ向かった。同じようにこれから飲みに行くのだと言う同僚と話したり誘いを断ったり、ビルから駅までずっと話をしていた。いつもの路線のホームへ下りて、少し息を吐く。携帯を取り出して猿飛佐助、の文字を押した。
「もし、もし」
「あ、普通っぽい」
「開口一番それー?」
呆れ加減の佐助の声にごめん、と笑う。実はの楽しみだったりする。普通の人とちょっと違う、佐助の部分。それを探すのは楽しい。
「今から電車に乗ります。いつもよりちょっと早いよ」
「そうだね、お疲れ。んじゃ、俺様も仕上げといきますか。改札の前で待ってる」
「うん」
軽快なメロディが鳴ってホームに電車が入る事を知らせる。それじゃね、と言って電話を切った。ホームへ滑り込んできた電車は満員。ホームに並んでいる人も多い。携帯をバッグに入れて、は心を決めて電車に乗った。
改札を出てすぐ、、と声を掛けられた。そちらを見ればにこりと笑う佐助が立っている。大きめのトートバッグを肩から提げて、へらりと片手を上げて。何も持たずに黙って立っていればそこだけファッション誌を切り取ったように絵になるのに、どうしてそうならないのか。くすりと笑って駆け寄った。
「ただいま」
「おかえり。来る途中公園通ってきたら、焼き鳥だの焼きそばだのの店が出ててさ。昼間より人も多くて驚いた」
「最近毎日やってるよ。毎年桜の季節になると賑わうの」
「そうなんだ。向こうに祭りがやたら好きなお気楽男がいてさ、よく俺様の仕える所にも殴り込んで来て迷惑してるんだけど――、そいつが見たら喜びそうだ」
公園に近付くにつれ人も多くなって浮ついた雰囲気がしてくる。この時期、車は入ってこれないようになっているから飲食店も外へ座席を出していて、美味しそうな匂い、楽しげな笑い声があちこちからしてくる。見ているだけでも楽しい気分になってきて、きょろきょろとしていると、店員さんがジョッキの生ビールを外の席へ持って出てきた。
「あ、ビール飲みたい」
ぽろっと口にしたらいてもたってもいられなくなってしまう。苦笑している佐助にちょっと待っててと言い置いて、近くのコンビニで500mlのを四本買ってきた。
「、そんなに飲むの?」
おどけてそう言われたのでビニール袋から一本取り出して見せる。四本のうち三本が同じイエローの缶。
「私そんなに飲兵衛じゃないよ。これ好きでしょ、佐助。お弁当のお礼」
この程度ではお礼にもならないだろうけど、佐助がへらへらと嬉しそうにしだしたので、まあいいか、と小さく肩を竦めた。
桜の木が多い広場は学生が陣取って大騒ぎをしている。ところどころに社会人の集団もいて、同じようにはしゃいでいる。ベンチにはカップルや親子連れがちんまりと座って桜を見上げながら食事をしているのが微笑ましい。塾帰りか部活帰りの高校生なんかもいたりして、つまり、ざっと見渡して空いている場所がない。
「……どうしよう」
帰りに通る分には困らなかったけど、お弁当を広げるとなると困る。佐助を見上げると呆れたように笑われた。
「そんなことだろうと思った」
こっち、と言いながら歩いていく。公園をぐるりと一周できる遊歩道は実は一本ではない。がいつも使うのは広場沿いの最短ルートだからあまり他の道を通ったことがない。佐助はすいすいと階段を上ったり下りたり、木立の中へ分けいったり。ちょっと待って、と言おうとしたところで佐助が立ち止まった。
「はい、到着。どう?」
賑やかなところからは少し離れて、広場の桜を見下ろすような位置になる。すぐ近くに桜はないけれど、どこからともなくひらひらと花びらが降ってくる。見上げれば公園の裏手の民家の庭に植えられた桜が目に入った。
「……よくこんなところ見つけたね」
「アハー、俺様忍だから」
「意味わかんない」
軽く笑った佐助がビニールシートを広げた。これも確か、一回使ったきりで仕舞いこんであったと思う。より佐助の方が、家のどこに何があるのか詳しいような気がしてきた。なんだか情けなくなってくる。
「ほら、座って座って」
「はーい……」
大人しくパンプスを脱いでバッグを置いた。桜がよく見えるように座って、佐助がお弁当を取り出すのを待つ。
「へへー、俺様渾身の一作!」
おせちにも使った二段の重箱を、佐助は自信満々に広げる。下の段にはわかめとシソの俵型のおにぎりが交互に並んでいる。汁が染みないように仕切りをして、隣にはタケノコとニンジン、さやえんどうの煮物。それをさらに斜めに仕切った横には春キャベツとキュウリの酢の物と枝豆。緑が鮮やかだ。上の段は海老フライが半分を占めている。作ってから時間がたっているだろうに、しんなりしていなくて美味しそう。横は三つに区切って、それぞれダシ巻き卵、ブリの照り焼き、ニンジンとえんどうの肉巻きがきれいに並んでいる。
これは店で売っていてもいいレベルだと思う。反応のないにどこか不安げな佐助が、取り皿と箸を出してオロオロとの様子を窺っている。
「ちょっと、何か言ってよ」
「ううん、感心してた。料理の才能あるよね……」
「あ、呆れたわけじゃないんだ、よかった。まーね、これくらいできて当然!」
「忍者ってなんでもできないとダメなの?」
「そういうわけじゃないんだけど……。もういいや、食べよう! 俺様お腹空いちゃってさ!」
佐助は難しい顔をしたと思ったらあからさまに話をはぐらかそうとする。まずい事でもあるのだろうか。だけど、のお腹もきゅう、と鳴ったのでこれ以上の詮索は止めた。ビールを出して佐助に渡す。カツン、と缶を合わせた。
「いただきます」
全部きれいに食べ終わると、重箱を片付けた佐助はタッパーと水筒を出した。が訊く前にフタを開けたそこには白く丸い団子が入っていた。
「こっちは団子を作るのも楽でいいよね。しかも餡の種類もいろいろできるし。旦那なら大喜びしてただろうな」
紙コップに水筒からお茶を注ぎながら、佐助は思いを馳せるように言う。旦那は確か、真田幸村。戦場では二本の槍で敵が恐れるほどの活躍を見せるのに、武田信玄と建物を壊すほど殴り合うことがよくあって、団子がなにより好きな17歳の少年。そして、佐助の主人。
「旦那さんがいたら佐助はもっと大変だっただろうね」
ありがと、とお茶を受け取って団子を一つ頬張る。もっちり甘すぎないのが美味しい。も学生の時はお菓子作りにはまったことがあるけれど、こんなに上手に作れたことはないような気がすると思いながらもう一つ食べる。餡子の味が違う。桜餡。料理は佐助の天職なんじゃないだろうか。
「、『旦那さん』は止めて」
思いのほか真剣な顔で言われてしまって、むせた。慌ててお茶で流し込む。咳が治まって、お茶のおかわりをもらいながらは口を尖らせる。
「佐助がそう呼んでるからじゃない! なんて言えばいいの? 真田さん? 幸村さん?」
「名はよくないよな……。かといって姓でも……」
団子をつまみながらぶつぶつと思い悩む佐助。悩んでいる姿はカッコいいのに、悩んでいる事はどうでもいい事なのが佐助らしい。
「あ、源次郎」
「ゲンジロウ?」
「うん、俺様も源次郎って言うようにするから。旦那さんって言うのだけは止めて。変な気分になる」
すまねえ旦那、とどこへともなく謝って、佐助は顔をしかめた。男と話をしているのに話題が「旦那さん」なのはもどうかと思っていたので苦笑しつつ頷いた。そういえばもう一人、佐助の話によく出てくる人がいた。
「じゃあ大将さんは?」
「大将は大将でいいよ」
あっさりそう言われてしまった。そっか、と頷いて団子を食べる。今度は柚子餡。一体何種類あるんだろう。
「はさ」
団子もなくなって、お茶片手に二人で散りゆく桜を眺めていたら、佐助が不意に声を掛けてきた。
「なに?」
佐助を見る。の方は向かずに、広場の桜の方を見ていた。同じように視線を戻して次の言葉を待つ。言い淀んでいるような、躊躇っているような雰囲気からして、の過去の事を訊きたいのだろう。
「……親を亡くして、今までどうやって生きてきた?」
佐助になら、隠さずに言える。目を閉じて思い出す。
「おじいちゃんが私を引き取って育ててくれたの。お父さんの方のおじいちゃんとおばあちゃん、お母さんの方のおばあちゃんは震災で亡くなっちゃったし、おじいちゃんの孫は私一人だったから。病院で目が覚めたら、すぐそばにおじいちゃんがいてくれて、、って呼ばれたから返事したらおじいちゃん大泣きしはじめちゃって。地震があってから一月経っていること、瓦礫の下から救い出された私だけが無事だったこと、怪我は酷くなかったけどずっと昏睡状態だったこと、友達も親戚もたくさんいなくなっちゃってること、おじいちゃんが私を引き取って暮らす様になったこと、全部ゆっくり話してくれて。それで、向こうの事はただの怖い夢だったんだってどうでもよくなって、生きてて良かったっておじいちゃんと一緒にいっぱい泣いた。……厳しくて怖かったけど、とってもおもしろくて優しくて、私の事すごく大切で自慢にしてくれた、カッコいい人」
地震の時の事、両親の事は今思い出してもまだ苦しい。多分一生苦しいままだと思うし、それでいいと思っている。でも、両親の声はもうほとんど思い出せないのが悲しい。だけどそれ以上にたくさんの思い出を祖父はくれた。親を亡くしてが悲しい思いをしないようにと働きながらもといる時間をめいっぱいとって、参観や運動会、文化祭のたびに来てくれた。反抗期になったが鬱陶しがったら雷を落とすような人で、大ゲンカになったことも何回かある。どうやってもは祖父に勝てなかった。最後まで。
少し、目頭が熱くなって上を向いた。桜の花びらがふわりと落ちてきていた。
「おじいさん、今は?」
「五年前にね。それでこっちに就職してきたから、実家に帰るのは一月と、おじいちゃんの命日くらい」
そういえば佐助と初めて会ったのは、去年長めの休暇をもらって法事や家の片付けをして戻ってきてた時だったような気がする。二月に入ってすぐの寒い雨の中、そのまま放っておけば死んでしまうだろうにぼんやりしているのを見て、とっさに怒ってしまった。自分から、しかもの目の前で死のうとするなんて、にとっては一番許せないことだ。だから半ば強引に助けた。佐助はそれを感謝していると言うけれど、の自己満足だと知られたらどう思うだろうか。それが少し、怖かった。
「……悪い」
「気にしないで。の花嫁姿を見れんのだけが残念だ、って笑ってたからおじいちゃんも満足してたんだと思う」
病気もせず、怪我もせず、老衰で静かに亡くなった。戦中に生まれ育ち、戦後の苦しい時代を生き抜いて、孫ができたと喜んだのもつかの間、震災で嫁も子も娘婿もなくして、余生にも楽をせず孫と二人たくましく駆け抜けた人。花嫁姿が見たいと言っていたくせに、がどんな男の人を連れていっても絶対認めなかっただろう。お前のような若造にはくれてやらん、と大騒ぎして。祖父の事を思い返すと、胸がほうっと温かくなる。それだけ祖父はの中で大きく、優しい部分になってくれているのだ。
「……、すごく幸せそうな顔してる。いい人だったんだ、おじいさん」
「うん!」
佐助の言葉に即答した。自分でも判るくらい明るい笑顔になっていたから、一瞬キョトンとした佐助が声を上げて笑いはじめるまで、そうかからなかった。たくさんあるおじいちゃんの武勇伝の中でも選りすぐりのものをいくつか話してやろうと、は佐助を見て――目が合ってどきりとした。
遠くで賑やかに騒いでいる学生たちの声も聞こえない。近くの遊歩道を散歩する人の姿もない。ここだけ切り取られたかのようだった。ライトアップされた桜がこれが見納めとばかりにいっぱいに花を咲かせて、頭上からはひらりはらりと踊るように落ちていく花びら。
佐助の目はを捉えて離さない。視線を逸らせない。
「俺は、この世界で生きていく。さえよければこのまま一緒にいさせてもら、――いや、一緒にいよう?」
そう言って、穏やかに微笑んだ佐助の言葉をは噛み締める。
――佐助が、自分の意思でと生きる事を選んだ。
「もちろん。……こちらこそ、改めてよろしくね」
ほろほろと零れてきた涙は、おじいちゃんの思い出と、佐助の優しさから。何も言わずにハンドタオルを差し出してくれた佐助に感謝して、冷めてしまったお茶を飲み干した。
「桜、またここへ見に来たいね」
「俺様、今度はのお弁当が食べたい」
「佐助の方が上手だから嫌だよ」
「いいからいいから」
たわいもない話をする時間が、いつもよりずっと幸せに感じられた。
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2010/04/10
2010/04/18, 2010/04/19 訂正
日常に戻ってきました。
二人が夜桜を見に行った公園は井の頭公園を思い浮かべながら書きました。多少の脚色はしてありますが、公園へ行くまでの道にいろんなお店があったり、出店があったり、大学生がらんちき騒ぎしてたり。かと思えば少し離れると静かに桜を見ながらゆっくりできる、そんな不思議な場所です。
話としては、ようやくここまできたかという感じです。後は緩やかに下っていくだけですが、詰め込みたいものは大量にあるのではてさてどうなることやら。
よしわたり