佐助はに、向こうの「忍」である「猿飛佐助」の事を話した。
 こちらで生きていくためにはこのままではいけないと、ようやく決断を下した。これまであちらの事をはっきりと話さなかったツケを清算しなければならない時期が来たと思ったし、年始からがよそよそしくなったのも一因だ。佐助が話す事でに態度を軟化してもらいたかった。こちらの、警戒心もないただの女一人に随分と絆されたものだと自嘲したくもなるが、といる時間は優しくて、幸福で、あちらでも――こちらでさえ、得難いものだ。また二人、穏やかに過ごせるようになりたかった。それだけでよかった。

 そうして、多くの事を話した。戦をしている事、忍である事、こちらでは過去の偉人となってしまっている主の事、――おのれの手で人を殺している事。こちらでは人を殺すことは大罪だ。拒絶される覚悟を決めて告げたというのに、はあっさりと下手くそないつものではなく、きれいで柔らかな微笑みをして、応えた。
 話してくれてありがとう。の、そのたった一言が、佐助にとってなにより嬉しかった。はっと視界が開けて、との間にあると思っていた千尋の谷は佐助がおのれに見せていた幻に過ぎなかったと知った。の伸ばした手を取ることが恐ろしくて、おのれに暗示をかけていたのだ。


 この世界はおのれの世界とは確実に違っている。見知った名前は歴史上のもので、作りものとして語られているおのれの事も知ってしまった。向こうの世界で互いに競い合っている者達は異郷では生きた時代が少しずつ違っていた。こちらで日ノ本を治めた三人の名はあちらで嫌というほど耳にしているし、遠目にその姿を見たことだってあるし、戦をした者もいる。
 それよりも、己が主達の生涯に頭が真っ白になってしまった。文字が読めるようになってから、に知られないように少しずつ「真田幸村」「武田信玄」に関する書籍を集めて読み耽った。そのたびに所詮は同姓同名の他人の物語、この猿飛佐助がいる限り同じ轍は踏ませぬ、と強く心に誓ったのだ。それでも不安は日毎に増していく。あちらで鍛錬に励む主をぼんやりと眺めていて怒られもした。殴り合っている二人の姿を見るのが苦痛になりもした。どうかしたのかと問われるたびにへらりと笑ってごまかしたけれど、なんのかんので聡い主の事だ、薄々勘付いているかもしれない。訊かずにいるのは主なりの気遣いか、はたまた本当に気付いていないのか、佐助には推し量りかねる。

 そんな佐助の不安を、は判ってくれたのだ。
 同一ではないと口では言えるのに、頭は理解をし切れない、その矛盾を、恐怖を。涙しながら異邦人のおのれではない「猿飛佐助」の存在を思い出してくれたの言う事は全く意味をなしていなくて、本当にそれが「猿飛佐助」だったのかどうかさえ怪しいけれど、佐助にとっては充分だった。話しているうちに、の答えを待つうちに、力が入ってしまっていた佐助の体。それをほぐすように、正体のない怯えを宥めるように背に回された、の細い腕、小さな手のひらが愛おしかった。
 これまで一度たりともに色情を抱いたことがないといえば嘘になる。けれど今は、それ以上に温かな感情を覚えるのだ。主に対してのものでも、同郷の女忍に対してのものでもない。元々が忍らしからぬ感情の豊かさをしている、と自認はしていたが、このはっきりしない感情の名は知らない。
 ――知らなかったもの……。家族の情、か?
 ふと思いついたそれがおかしくて、佐助は瞼を伏せる。呆れと共に。




 この異郷、特にこの国は平穏のぬるま湯に浸り切っているようにしか見えない。事実、佐助がこちらへ落とされてから苦しんだのはと出会うまでの期間だけで、しかも衣食住に困窮する事はほとんどなかったと言ってもいい。報道を見ていれば他の国々では戦があり天災があるが、をはじめ、佐助の周囲の人間はそれを気に掛ける素振りすらなかった。仕事が、金が、休みが、衣服が、遊びが。口を開けばそのような事ばかり。だからも平凡なこちらの人間だと思っていた。
 ところが、佐助が思っていたよりも遥かにの過去は壮絶だった。天災に遭い、親を亡くし、幼くして異郷に落とされ、一度死に、死んだ事さえ判らずにこちらへ戻り、祖父と二人暮らしてきたという。その祖父とも五年前に死別したと。こちらでは男女問わずある程度の年齢になると京や大坂、ここのような大きな街に独り暮らしをする者が地方から出てくるのだ。もその一人なのだが、わざわざ遠くに出てきた理由までは知らない。
 一つ言えることは、がこの街にいなければ、佐助はあの時に死んでいた。

 の話によって、今は向こうのおのれに影響はないと言い切れるが、その時はどうなるか全く判らなかったから死んでしまえば戻れるかもしれないと考える一方、こんな異郷で野垂れ死んでたまるかとも思っていた。
 だから、が差し伸べた手を取って、この世界を観察する事にした。元が忍の体である。佐助はすぐに快復した。しかし、体が快復したところで、異郷で生きていくには佐助は無知もいいところだった。術は使えずとも、忍として鍛えた目と耳、少ない情報でより多くの物事を理解するための知恵がある。巧く言葉を弄して、佐助が異邦人で何も判らないのだと言えば、は疑りながらもひとつひとつ物の仕組みを説明していった。
 ところが、佐助は物の根本が判らないと言っているのに、はそれを理解できていなかった。それにまた、よく言葉に詰まる。佐助がいらつけばも段々と機嫌を損ねていく。二人の間にはいつも刺々しい空気が流れていた。
 ――判らないって言ってるんだけど。
 ――ごめんなさい、私もこれ以上は説明できない。
 家の造りを見て、どこで何が起きてもすぐに対処できる居間の座椅子の右端を定位置に決めた。そこで立て膝をし苛立ちを露骨に頭を掻きながら言い捨てる佐助と、相対するように板の間に座ったが悔しげに眉を寄せて俯きながら呟く。
 一事が万事、この調子だった。


 基本的な衣食住の事を佐助が何とか覚えた頃、が疲労に倒れた。佐助がこちらで生きるためにはまだの存在が不可欠だったから、これくらいで倒れるなんてどれだけ柔なのだと呆れながら面倒を見た。三日もすればなんともなかったように起き上がり、はひどく申し訳なさそうに礼を述べたのだった。
 が眠っている間、周囲を探った。何か裏がなければ見ず知らずの男にこうまでしない。それは、どちらの世界でも当然だろう。なのに、いくら探っても何も出なかった。いや、出る事には出たのだ。
 。独り身の若い女。親許を離れて暮らしている。ここへ来たのは三年ほど前。月のほとんどを仕事に行っていて、朝晩しか家には帰ってこない。休日は出掛けたり家にいたりと、こちらの平民として特筆すべき点はなし。近隣の住人からの評判は悪くない。
 出たとはいうものの、何も出なかったに等しい。それによって尚更混乱する事になった。
 ――何故助けた。何故不審者として警邏に突き出さない。何故。何故。

 今考えれば、佐助が一通りの事を覚えるまで、は仕事に行っていなかった。ずっと家に居てくれたのだ。毎日、佐助が一人になる時間も欲しいと思って、と言いながら外へ出て、帰ってきた時には本屋の袋を提げていた。それを寝る間も惜しんで読んでは勉強し、どうすれば判りやすく伝えられるか一生懸命に考えてくれていたのだ。
 少し冷静になってみれば判ることだったのだが、その時はおのれの身に降りかかってきた不可解な災いに気を取られ過ぎていてそこまで考えが及ばなかった。それに、利用価値の有無だけでを見ていた。「人」として見ていなかった。
 気付くのが遅すぎたが、取り返しがつかないわけではない。後悔はした。時間はいくらでもあるのだから、これから挽回できる。へしてしまった非礼を詫びるにはどうすればよいか考えた。稼ぎを増やしてこれまで佐助に費やしたであろう諸経費をまずは返す。同時に少しずつ積み立ててこの家を出ていく。いつまでもここを間借りしているわけにはいかない。少し寂しくはあるが、未婚の女が男と同居しているのはよく思われないというのは向こうもこちらも同じだ。
 は変わった。きっとこれからいい人と出会うだろう。その時に、佐助の存在は邪魔になる。――佐助ではを幸せにしてやれない事くらい、判っている。の幸福を願う強い思いの前ではおのれの恋情など風前の塵とも同然だ。
 「猿飛佐助」という「人」として、いつか一人でもこの世界で生きていけるようになる。それまで、と過ごす時間は大切にしようと心に決めた。のおかげで今はとても満たされている。居心地のいい毎日。一日一日がとても貴いものだと知った。

 こちらで充足した生活を送っていることで、あちらでも心に余裕が生じてきていた。だが、真田忍隊の隊長として、甲斐武田の天下の為に昼夜を問わずして飛びまわっている忍の身にや異邦の事に思いを馳せるだけの暇はない。少しばかり考えが柔軟になった、という程度だろうか。物事を多角的に見る、仕組みの判る簡単で便利な物は作る、甲斐信濃近隣の地理・地形をできるだけ覚えて利用する。
 人でありながら忍でもある。この多重性は実際にそうである佐助以外の誰も理解できまい。そしてその苦しみも――。




 煙草は止めた。浴びるほど酒を飲むのも止めた。なのに最近、たまに時間もところも構わずどうにも眠くなるのだ。つい先日まで、あちらで浅く短い眠りを何日続けたところでこちらで深く眠るような事は一度としてなかった。逆も然りだったのにもかかわらず。
 との穏やかな生活に慣れ過ぎて、体がなまったのかとちらりと思ったが、肉体労働のバイトでは以前となんら変わらない仕事ができている。にまで疲れているのだろうと心配される始末。このような姿、忍としては絶対にあり得ないと苦笑しつつも、それが心地よい。
 主従ではなく、師弟でもなく、夫婦でもなく。ソファの両端、間に人一人分空けて座る佐助と、二人の関係。その間は埋まらないままでもいい。

 寝入り端に本を読むのが習慣になっていた。時事や政治、経済を判りやすく読み説く本が流行しているのは佐助にとって都合がよかった。辞書を傍らにそれらの本を読んでいく。明かりがなくても読めると言ったのだが、目が悪くなるからとは飾り気のない小さな置き照明をくれた。よさそうだと思って買ったけれど使わなくなっていたものだという。はそういうものが多い。そういって揶揄すると反論できないと顔を逸らせて、いらないなら捨てると言いだしたから慌てて使うと答えた。
 使ってみると便利なものだった。枕許だけを照らして、色味も眩しすぎない。寝る前に少し、という時に重宝している。


 その日も一日を終えて、疲れたけれど少しだけでも、と本を開いていた。だが、じわりと寄せてくる眠気に頭がゆらゆらと揺れる。眠い目をこすりつつ、佐助は目覚ましに顔を洗おうと布団から出た。はまだ起きている。ガリ、と頭を掻く。
 ――も新しく何かを始めたようだし、たかが疲れくらいにこの猿飛佐助がやられるかよ。
 時計を見上げた。午前一時。

 ふっと、意識が持って行かれるような感覚がして、――目を覚ました。

 大きな物音に驚いて様子を見に来、昏々と眠る人の名を必死に呼ぶの事を、覚醒した忍は知らない。









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2010/05/09
2010/05/24 訂正
麦秋とは麦の穂が黄金色になる、初夏の頃のこと。季節はこれから夏だというのに、言葉は秋という不思議なところが好きな語です。小麦の栽培が盛んな土地柄だからかもしれません。
異邦人も忍の佐助ですので、冷静に状況把握・分析をして、現在採るべき最善の策を瞬時に下せる有能です。私見といってしまえばそれまでですけれども。お願いだから給料上げてやってくれ真田。
よしわたり



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