小さい頃は毎日がキラキラしていていつも新しかった。

 ピーター・パンの物語を愛読していた時は、星が綺麗な夜にこんな夜空を飛べたらって思っていた。ティンカー・ベルが妖精の粉を振りかけてウェンディの踏み出した足がふわりと宙に浮いたように。メアリー・ポピンズを読めば、東風に吹かれてやってきて、西風に乗って去っていく不思議な力を持ったメアリーに憧れて階段の手すりを滑ってみた。オズの魔法使いを読んだら、竜巻に巻き込まれて別世界に飛ばされないだろうかなんて考えながら押し入れで毛布にくるまって眠った。はてしない物語にのめり込んだら、フッフールに乗って雲の上に出るとなににも邪魔されない星々がきらきらとバスチアンを照らしているのを想像しては溜息を吐いた。たくさんの物語を読んで、たくさんの世界を想像した。――なんて素敵!


 だけど、大人になるってことはそういった空想をひとつずつ置いていくことだった。
 いつの間にか読まなくなって、色褪せた絵本や児童書たちがたくさんあった。それでも捨てられずにいるのは、――どうしてなんだろう。








 一人暮らしは楽じゃない。
 親からの仕送りは極力抑えたい。家賃の安いところを探していたら必然的に郊外になってしまって、しかも駅から遠い。駅の近くには24時間営業のスーパーや高層マンションがあるのに、私が住んでいるのは改装されたとはいえ、築二十年の安アパート。いいところといえば、外見からは想像のつかない快適さ。内装は全てリフォーム済み。バス・トイレ別で湯沸かし全自動にウォッシュレット。洗濯機は屋内に置けて残り湯を使えるし、キッチンも若い女の子向けに使いやすさを考えられてる。ベランダは広くて日当たりがいいし、運のいいことに角部屋がちょうど空いていてすぐに入ることができた。毎朝自転車を全力で漕いで駅に向かうのも慣れたから、特に不満はない。コンビニは徒歩10分。ちょっとかかる。

 もともと私は人を集めて賑やかにするのが好きだから、あっちで飲み、こっちで食べ、家に友達を呼んだり、誰かの家でパーティしたり。その日も確か、友達の誕生日パーティをサプライズで企画して、知り合いのやってる小さなバーを貸し切って大騒ぎしたんだった。
 満員でぎゅうぎゅうだったのがだんだん少なくなっていく終電に揺られて、自転車に乗ろうにも最近厳しくなった飲酒運転の摘発で捕まりたくなかったからトボトボと自転車を押して帰って、誰もいない家に入るなり陽気にただいまー! なんて言ってみた。返事はあるはずもないんだけど。
 キチンとまとめていた髪をほどいてぶんぶんと頭を振る。自然と緩くウェーブのかかった毛先が視界に入ってちょっと笑えた。お気に入りのジャケットを脱いでハンガーにかけ、今日のためにおろした流行りの柄のワンピースを洗濯カゴに入れた。明日洗えばいいや。ストッキングも脱いで残り湯で足を洗う。そのまま湯船を洗い流して、いつもの温度、湯量でセット。30分もあれば入れるようになるから、その間に酔いをさまそう。

 キッチンに戻って冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出しながらラフな部屋着に着替える。部屋の空気がちょっとこもってるからベランダに出た方がいいかなとカラリと戸を引いて、――飲もうとした水をこぼした。
「こーんばんは!」
 すらりと背の高い男が、ベランダの手すりにもたれかかってニコニコと笑いかけてきた。
「……誰? っていうか、不審者」
「ひっど! ヒドイ!」
「だって、ねぇ……。人の家のベランダに勝手に上がられて不審者じゃないなんて言い訳無用。今警察呼ぶから大人しくお縄をちょうだいしなさい」
「ヤだ、なんかカッコいい言い方するねー! アハ、だけどダーメ」
 ケータイを取り出して110番。のつもりが、不審者の手によってケータイを取り上げられた。取り返そうにも腕を高く上げられてしまって届かない。なんだコイツ。
「そんな顔で睨まないでよ」
 困ったような苦笑いを浮かべて肩を竦めた男は、昔々に読んだ絵本の、中世の騎士のような格好で私の前にひざまずいた。
「俺様は猿飛佐助。――君の夢を叶えに来ました、ちゃん」


 暗いからはっきりしないけど赤茶色っぽい髪の毛に、両頬と鼻頭にフェイスペイント。整った顔なのにもったいないことをするなあと思ったけど、そういった知り合いはいるから気にならなかった。だいたい、そんな知り合いはちょっとぶっ飛んだ人が多いけど。
 それよりも迷彩柄の服を着てるからレンジャー部隊なのかとも思ったけど、迷彩服じゃない部分は細いけど重そうな防具? を付けてるからよくわからない。普通、警官とか自衛官ってしっかりした体型してるんじゃないっけ。この人、すごく細身。そういう職種じゃないのかな。
「……ちゃん?」
「……それ、誰のこと?」
「え、俺様の記憶違いじゃなかったらちゃんで間違いないよね!? カッコつけといてまさかの失態!?」
 ぎょっとして、俺様恥ずかしいー! なんてうずくまったからクスリと笑って少しだけ不審者に付き合ってあげることにした。コクリと一口水を飲んで、笑う。
「間違いないよ。で、その猿飛さんはなんで私のこと知ってるの? どうして家のベランダにいたの? 返答次第では本気で警察沙汰にするからね」
 情けない顔を上げた猿飛という男はヘラリとそれは困るなあと言った。スッと差し出された両手のひらへ小さく首を傾げた私に、彼は微笑んだ。
「えーと、説明がめんどくさいからハショるけど。それは置いて、お手をどうぞ?」
「……はしょりすぎ。50文字以内でまとめて」
「厳し! キビシイ!」
 酔いのさめきらない身にはこのテンションはうっとうしい。部屋に上がろうとして顔だけで振り向く。
「……なんかもう疲れたから私、アナタの相手するの止めてもいい?」
「すいません、ちゃんと説明するのでどうかお話を聞いてください」

 猿飛の話は、バカバカしくて信じられなかった。
 私が小さい頃に夢見た、星がきらめく夜空を飛べるんだって言う。空から私の住んでいる町を、世界を見せるんだって言う。
「いいから、ついてきて」
 その時の私はどうかしてたに違いない。猿飛の真剣な目が、優しい笑顔が、耳に心地いい声が酔わせたんだ。クーラーの室外機にミネラルウォーターのペットボトルを置くと猿飛の手を取った。
「30分だけね」
「はいよ、っと!」
 重力なんてものともしないといった感じで私を抱き上げた猿飛は、コホンとひとつ咳払い。
「それでは、まいりましょうか!」




 どこから呼んだのか、大きな黒い鳥の足を掴んだ猿飛に抱きかかえられた私は、寒さも風も感じなかった。かなりの高度だし、勢いがあるはずなのに。本当に夢みたい。チラッと盗み見た猿飛の横顔はとても綺麗だった。それがちょっと恥ずかしくて、星空を見上げたり、色とりどりの明かりが灯る地上を見下ろしたりした。

 私の住んでいる国なんてあっという間に過ぎ去って、きらびやかな明かりの眩しい大都市、家の明かりはすっかり落ちてポツポツと寂しげに街灯があるだけの田舎町の上を過ぎていった。それだけじゃない。真っ暗な森林や万年雪の残る高山地帯、強い日差しが照りつけて延々と続いているかのような砂漠。野生の動物が走っているような草原。
 一生のうちに旅をするよりもたくさんの場所をめぐった。地図の上に引かれている境界線なんて、実際にはなかった。途中で雨に降られたり、地表スレスレで足が付くようなマネをした猿飛に怒ると、ゴメンゴメンと言いながらも猿飛は嬉しそうに笑っていた。なんだか毒気を抜かれてしまって、――それにここで置いていかれたら私には帰る手段がないし、頬をつねるだけにしておいた。それでも猿飛はヘラリとしただけだったけど。
「……目を閉じて」
 猿飛に、静かに優しく言われて、大人しく言われるままにした。もういいよって言われて目を開けて驚いた。


 宇宙? ってところから、二人で大きな大きな地球を見下ろしていた。もうなにが起きても驚かないつもりだったけど、さすがにこれはびっくりして猿飛にしがみついた。いつの間にか、大きな鳥はいなくなってた。落ち着いてって言いながら私を抱きかかえ直した猿飛だけが頼りだけど、落ち着けるわけないでしょ!
 大きすぎて見切れてて、映画とかでよく見るような球体には見えなかった。息ができない! って焦る私に大丈夫だよと笑う猿飛がスーハーってして見せてくれて、それを真似すると確かに息ができた。世の中には私の知らない不思議がたくさんあるみたい。

 あそこがちゃんの住んでるところだよって猿飛に指差されても小さすぎてわからない。そう言ったらそれもそっかって猿飛はヘラリ笑った。
 しばらく、無言で地球を眺めてた。ゆっくりだけど地球って本当に自転してるんだ。地軸ってナナメなんだ。太陽に照らされた部分と、そうでない部分の違いがはっきりしてて、すごく綺麗。――地球の大きさと、世界の広さと、自分の小ささになんだか泣きそうで目を逸らそうとした。
 そっと頬に添えられた猿飛の手。鋭利な刃物みたいな指先で私を傷をつけちゃわないように、とっても気を付けているのがわかった。誘われるままに猿飛が見せたい世界へ向き直る。ささやく声がすぐそばから聞こえた。
「これがちゃんの住んでいる世界。……太陽の光、周回する月、青くて広い海、大陸に島々、そして人々の営み。美しいところも、汚れているところも。ありのままの世界を見て?」
 猿飛の言葉に、愛おしげに地球を見ているその横顔へ問いかけた。
「……どうして私だったわけ?」
「最初で最後だからね。俺様のことを一番に愛してくれた人の願いを叶えたいと思うのは、おかしい?」
 悪戯っぽい顔をして、くつくつと楽しげに喉で笑う猿飛にイラッとした。
「悪いけど。愛するもなにも、私は貴方に会うのは今日が初めてなんだけど?」
「ま、この姿になれるのも今日だけだから勘弁してよ。……ずっとこうしてちゃんに触れたいと思ってた。君の小さな手がページをめくって、高い声が幸せそうに夢を語るのが、俺様、ホントに好きだったんだ。――だから、30分だけちゃんの時間を許してもらったんだ」
 すうっと目を細めた猿飛が、額の髪をかき上げて音もなく唇を落とした。とたんに重くなる目蓋。ぼんやりする視界。
「猿飛……、貴方、誰……?」

ちゃん。朝になって目を覚ましたら、全部忘れてるから安心して――?」
 優しくて低い、猿飛の声が気持ちよかった。




 夜なのに涼しくもないベランダでペットボトル片手にだらりとしていた。
 せめてケータイ持ってくればよかったと思ったけど、電池が切れたから充電してるんだったと思い直してよけいにだらけた。喉に流し込むミネラルウォーターだけがひんやりとして酔いざましにぴったりだった。
「……夢、だったのかな」
 呟いて部屋の中を見たら時計はきっかり30分進んでいただけで、お風呂のお湯が入ったよーってランプが点滅していた。まさかたった30分の間に猿飛に連れられて夜空を飛んできたなんて、誰も信じないだろうし、そもそも私が信じられない。
「風呂入って寝よ……」

 ひとりごちて部屋に戻ってびっくりした。本棚の一段がきれいさっぱり一冊もなくなっていた。――もう、埃をかぶるだけだった絵本たち。慌ててベランダに飛び出しても誰もいるはずはない。
「猿飛! 猿飛!」
 呼んだって返事があるはずはない。ニコリと笑った顔はついさっき見ていたのに。
「また、読むから! お願い、いなくならないで……!」
 泣いて泣いて、メイクが涙で落ちてしまうくらいに泣いて、そのまま眠ってしまったみたいだった。あんまり覚えてない。








「……痛い」
 フローリングの床の上でギシギシと痛む体に目を覚ました。昨日は疲れて帰ってきて、メイクも落とさないまま風呂にも入らないでそのまま寝ちゃったらしい。毛布をかぶってたのはえらいと思う。
 だけどなんでピーター・パンの本を読みかけてるのかわかんない。たぶん、帰りに見上げた夜空を飛びたいなんて考えちゃったんだろう。酔った勢いで本棚から引っ張り出して読んでるうちに眠っちゃった、と。
「頭も痛いー」
 ごろりと転がりながら今日が休みでよかったと心の底から思った。そうじゃなきゃあんな大騒ぎになるメンバーで飲んだりしないけど。ベタベタするのが気持ち悪い。風呂を沸かし直してゆっくりしよう。――それからおいしいパンを買ってきて、あったかい紅茶をいれて、この本でも読みながら。


 クスリと笑って子供向けの本をパラパラとめくるに、昨夜、猿飛佐助と過ごした目まぐるしいほどに輝いていた30分の記憶はない。
 だけど、部屋中には大事にしていた絵本と児童書が散らかっていた。










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2010/05/16
2010/05/22 訂正
これも坂本真綾ちゃんの「30minutes night flight」を聴きながら。ちょっと大人なピーター・パン佐助、いかがでしょう?
歌詞そのままの話を書くなんて物書きとして最低の行いだとはわかっています。
ネタはいくらでもあるのですが、今一つ話になるまでに至らない。……これがスランプなのでしょうか。
よしわたり



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