体に馴染む鉄の防具。ずしりとした重みがある大型手裏剣は両腰に。朔の夜、林の中。冷えた風が佐助の頬を撫でる。
――夢か……? それにしては生々しいな。
辺りを窺って敵のないことを確認する。何の任務に就いているかも覚えていない状態で、林の只中に立っているはずがない。なのに、飛びまわる羽虫、もぞもぞと地を這う生物、触った木々の表皮から踏んだ土の感触、葉の一枚一枚まで鮮明なのだ。夢と判断するには違和を覚える。こちらでつい、居眠りをしてしまったのかもしれない。直前の状況や任務を思い出してみようと試みるが、記憶の糸がぷつりと途切れていて失敗に終わった。
――俺様も疲れてんのかね……。
ごきりと首を鳴らして周囲を見回す。城の近く、よく忍隊の鍛錬に使う林だ。ひとまず城へ戻ろうと、地を蹴る直前。
「佐助……?」
聞こえてはならない声がした。
動揺をひた隠して佐助は声の方へ向く。そこには、――異邦人がいた。
「……どうして、ここに」
どれだけ修錬を積んだ忍でも、不測の事態に直面して全く動じずにいることなど不可能だ。佐助でなければ気が動転して相手を害しているか、おのれの醜態を晒しているだろう。声が震えなかったことが驚きだった。
「佐助こそ、なにしてるの? その格好、どうしたの?」
僅かにひそめられた眉、いつもと変わらない口調が不気味だった。まるでついさっきまで居間で佐助と話をしていたかのような。
「怯えた顔して、なにかいるの?」
おのれの背後を振り返って身を縮こめる姿はあまりにもこの場には不似合いすぎて、背をつうと冷たいものが流れる。
「佐助? なにか言ってよ」
おっかなびっくり近寄ってくるその人に対して、忘れていた言葉を思い出すかのごとく思考をし、ひとつ呼吸をしてから名を呼んだ。
「……」
わんわんと頭の中をかき回すような痛み、焦点の合わない視界、早鐘を打つ鼓動。すぐ傍まで寄ってきたに、躊躇いもせず武器を向けていた。小さな悲鳴を上げては後ずさりした。
「佐助!?」
――頭が痛い。吐き気がする。耳鳴りがひどい。めまいで前も見えない。息が上がる。ああ、天地が逆さまになる。
はっ、と体がはねて目を開けた。白い天井が真っ先に視界に入り、「どちら」であるかを知る。整わない呼吸のまま記憶を辿っていく。
――「こちら」で昨日は休みだったから家事をして、走って、本を読んで、買い物へ行って、帰ってきたと先月の家計を算出して。「あちら」の戦場で仮眠から目覚めて、大将と旦那のいつものを見てから、出陣する旦那に従って、勝ちを収めてまた殴り合いはじめたのを止めて、帰途の二人を三日不眠不休で警護に当たって、無事に帰りついてから旦那に休みをもらって床に就いた。そして今、「こちら」は朝。一日しか経っていない。
一つ一つ思い返していくたびに握り込んだ拳に力が入り、爪が手のひらに食い込んでいく。さほど暑くもないのにべっとりと掻いた汗で気持ちが悪い。脈が速いのは抑えられないが、呼吸は制して平静を装う。
――さっきのは、夢だ。が「あちら」にいることは絶対にない。
固く目を瞑っておのれに言い聞かせる。そうでもしなければ気が狂ってしまいそうなほどに恐ろしかった。忍が恐ろしいとは笑い話だと思うが、本当に胆を潰したのだ。佐助の中でそれはあってはならないことなのだ。
二つの世界に同時に存在しながら、時間の流れは異なっている。
寝る暇も惜しい「忍」の生活に物差しを当てるような「人」の暮らし。肉体は異なっていても精神は同じである。こちらへ落ちてすぐはそれに慣れなかったが、と暮らしはじめて規則的な生活をするようになってある種の安定感を覚えていた。時折こちらでもうたた寝したり、夜半に目が覚めたりすることはあっても、きちんとした周期ができていた。あちらでは朝も夜も関係なく眠るし、何日も眠らないことも度々ある。そうせざるを得ない。
こちらの生を捨てようとしたこともあった。だが、と暮らすうち、息を安らぐ暇なしにささくれていた佐助の心が穏やかに静まっていった。理由は色々あるだろう。けれどやはり、の存在が一番大きい。死に瀕していた佐助を救い上げ、適度な距離を置いたまま――これはの事情もあるが、二心なく、決まった関係を強要しない。どれか一つでも欠けていたら今の佐助も、もいなかったに違いない。
――本当に恵まれた、と改めて思う。だからこそ、の幸せを何よりも願う。
すっかり気が静まって、佐助はがりがりと頭をかく。いつもの起床より少し早い時間だった。
決まった時間に寝起きするのがこちらで最初の難関だった。目や耳、鼻に感じる刺激はあちらより大きく、慣れないものばかりで休みたくても休めない状態だった。こちらの者にしてみればなんてことはない生活音が、佐助には騒音である。常に浅い眠りのまま、微かな物音一つで目を覚ましてしまう。
一度、苦難の末ようやく泥のように眠りかけていたところでの携帯が鳴り、寝ぼけてを手にかけようとしたことがあった。はっとした時にはが息も絶え絶えで、しばらく大変だった。は佐助に恐怖心を抱いて不用意に近寄ろうとしなくなったが、これは佐助の自業自得である。
それから厳しい睡眠特訓が始まった。光の変化にもある程度大きな音にもおかしな匂いにも過敏に反応せずに眠ったままでいられるようになるまで、小瓶に入った変な味のドリンク剤やら効果の不確かな錠剤やら怪しげな香やら、試せるものは片っ端から試していった。
起きているのか眠っているのか立っているのか浮いているのか判らなくなるほどの限界まで来て、ふと目覚めるとすっきりとしていた。その時の達成感は、あちらでも中々味わえないだろう。コツを掴めば早かった。なにせ佐助の体は忍である。幾度か繰り返して覚え込ませることであっさりと適応した。
より少し早く寝て、起きる。
ところが、それがここのところ崩れてきている。日中、仕事の最中や本を読んでいる時、といる時でさえも、抗いきれない眠気に襲われて十分前後眠ってしまう事が増えた。疲れからくる寝不足かと思ったが、体をほぐして睡眠を多めにとっても眠気がなくなることはない。特に気を張った後が眠ってしまいやすく、瞼を下ろすとすぐに眠れるような気さえする。
そして、この数日。頻繁にどちらの世界でもない「夢」を見るのだ。
元々あちらだけの時ははっきりした夢を見ることが滅多になかったし、こちらとあちらを眠ることで行き来するようになってからはぱったりと夢を見なくなっていた。何故今になって夢を見るようになったのか判らない。
今朝に至ってはひどく鮮明で、生々しいものだった。思い返すのも気持ちが悪い。水を浴びればすっきりするだろうか。
――さっさと忘れたい。
佐助は追い立てられるように風呂場へ向かった。
ひんやりとした風、ささめく木の葉、木立ちの下からはちらりとしか見えないが、満天の星々。独り、突っ立っていた。
――また、同じ。
首を巡らせて溜息を落とす。ごきごきと肩を鳴らしたところで背後から声を掛けられた。
「佐助?」
気配はなかった。いや、今もない。ただの人であるが土の上を足音を立てずに歩くことができるはずがない。なのに、重さを感じさせない足取りでは佐助に近付いてくる。
――これは、夢だ。
おのれに言い聞かせて、へらりと笑うとに向き直った。
「、どうしたの?」
「どうしたのって、私のセリフ。佐助こそ忍者の格好して何するつもり?」
やはり少し困惑した表情を浮かべたはいつもどおりで、場違いなのはどちらか判らなくなってくる。
「……ここがどこか判ってる?」
「さあ。近所じゃないことは確かみたい」
へたくそな微笑は佐助を案じてか、現状を打開する術を持たないからか。その笑みが佐助に行動を起こさせた。手甲を外して、の手を取る。
「は『こっち』にいちゃダメなんだ。戻らなきゃ」
――あたたかい。
触れ合った手は確かに存在する人のものだった。それにほっと息を吐いたところで意識がおぼろになった。
――朝か。
覚醒しきらないまま半身を起し、まだ夢の中での感触が残っている手をぼうっと見下ろしていた。
「……佐助?」
何十分か判らないが、かなりの時間そうしていたらしい。低かった朝日が窓から差し込んでいて、起きてきたに戸惑いがちの声を掛けられ、佐助はゆるりと首を向けた。
「……おはよう、」
「おはよう。どうしたの? 佐助がぼんやりしてるなんて珍しいね」
「……なんでもない。ちょっと夢見が悪かったんだ」
「そう……」
へら、といつものように軽い笑みを浮かべようとしたが、出来なかった。目聡くそれを察したは微かに眉間に皺寄せる。
「ここのとこ、しょっちゅう居眠りしてるみたいだけど、大丈夫? 私が近くにいても寝入ってることあるし。少ししたら目を覚ますけど、時々うなされてるよ」
の言葉で一気に意識がはっきりとする。
――あれらは全て夢。惑わされるな。向こうには呆けている忍ももいない。
目を閉じ、深く、息をする。開いた視界に映った手には、もう何の感触も残っていなかった。心配そうにしているを見上げて佐助は苦笑した。
「疲れが溜まってるみたい。ごめん、心配かけて。まだしばらくこのままかもしれないけど、うなされてたら叩き起こしてくんない?」
はちくりと瞬いたの顔が渋いものになる。
「叩き起こしたらいつかみたいに命に危険が及びそうだからイヤ」
「もう二度としないって!」
「死ぬほど怖かったからイヤ」
「そこをなんとか!」
むくれるにパン、と両手を合わせて頭を下げてみせれば、ふっと笑う気配がした。
「いいよ。佐助が悪夢に苦しんでたら助けてあげる」
すこし芝居がかった調子で言うの笑顔は、とてもきれいだった。
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2010/06/06
佐助の変調。設定段階で佐助の背景に睡眠覚醒障害を置くことは決めていました。
ひとつ気をつけておきたいのは、佐助達、話中の人物は世界の構造を知らないということです。それについては全てが終わってから。
よしわたり