佐助は一日の大半を眠って過ごすようになった。起きていることができないのだ。
と話をしていても、テレビを見ていても、本を読んでいても、買い物に行っても、バイトをしていても、ひたすらに眠くなってしまうのだと言っていた時からそれほど時間は経っていない。何かの病気にしても進行が早すぎる。病院に掛かることを勧めたけれど、特に異常はないと判断されたらしい。念のためにと処方された薬も効果がないようだった。
が気付いてからの佐助の調子は悪くなる一方で、理由の判らない眠りに飲み込まれてしまわないよう耐える姿を見るのはつらかった。見るからに食事の回数も量も減って、起き上がるのも一苦労になって、日に日に弱っていく。もう、疲れているからだとは到底思えなかった。
もっと早くに異変に気付いていれば、と後悔しても、佐助がに隠していたのだから見破ることは簡単ではなかっただろうし、うまく言い訳を取り繕ってはぐらかされてしまうのが関の山だったのだろう。
――ちょっと前まで、何の問題もなく暮らしていけると思ってたのに。
訳の分からない感情に、無性に泣きたくなった。
「ただいま」
今となっては当たり前の帰宅の挨拶。独り暮らしを始めてからはしなくなっていたのが、佐助と暮らすようになってから身の安全のために口にしていた。そうしてほしい、そうでなければを傷付けてしまうかもしれない、と佐助が言ってきたから。それが、たった一言口にするだけで落ち着くのだと知ったのは随分前だった。返事がないことに溜息を落とし、バッグと買い物袋を置く。
「おかえり」の一言が当たり前になっていて、ないと判っていても期待してしまう自分が嫌で、は乱暴にパンプスを脱ぐと洗面所に駆け込んだ。涙でメイクが落ちてしまう前に。
一輪のピンク色っぽいアジサイを買ってきた。
もっと色のはっきりしたものを買おうとしたけど、一枚一枚が外から中にかけてグラデーションになっているのがきれいで目を引かれた。外へ出られなくなってしまった佐助の目をほんのわずかでも楽しませられたらいいと思う。花瓶はないからコップに生けようとしたけれど、どれもこれもいまいちだった。もったいないとは思いつつ、ワイングラスに挿してみるとピッタリで嬉しくなる。
リビングのローテーブルにそれを置いて、布団に横になって目を閉じている佐助を呼んだ。
「佐助、起きてる?」
佐助は眠たそうに何度か瞬きながらの方を見て薄く笑った。
「ばたばた音がしたから起きた。おかえり、」
「ただいま。バタバタしてたのはこれ」
頭を振って起き上がった佐助にアジサイを指差してみせる。佐助は手を伸ばして葉っぱを触り、指はグラスをたどる。
「……これ」
「ピッタリでしょ?」
佐助の悪戯っぽい笑みにもくすりと笑い返す。花の上に軽く手をかざし、形を確かめるようにする佐助は楽しそうだった。
「こっちのあじさいは鞠みたいに丸くなっておもしろいよね」
「向こうのはそうじゃないの?」
「うん。縁の花だけが咲いて、内側の花はつぼみのまま」
なんとなく佐助の言いたいものが判って、は口を挟む。
「それ多分、種類が違うんじゃない? 私も見たことあるよ」
「そう?」
「そっちの方が花が少ないからそれを品種改良して、この種類ができたんじゃないかな。色も、これみたいにグラデーションなのって小さい時はあんまり見なかったような気がするし」
「言われてみれば不思議な色……、桃の花みたいだ」
「桃の花って言われた方が判んない」
二人してアジサイを見つめながら、ああでもないこうでもない、と言い合った。
それにしても、と佐助は息を吐く。
「もう長雨の季節なんだ。ずっと寝てると判らないね」
へらりと笑う横顔が少し悲しげにみえた。
こちらでは一日のほとんどを寝て過ごしているけれど、あちらではこれまで通りの生活ができているらしい。その分、こちらで何もできなくなっているのをどう思っているかを、あまり佐助は口にしなかった。言ったところでどうしようもないと判っているからなのか、愚痴になってしまうから避けているのかも、に言うことはなかった。
夕食の支度をしなければならないのに、は立ち上がるのが惜しかった。佐助が起きている、話ができる。それが残りわずかなものだとどこかで悟っていたのかもしれない。
「毎日雨ならうっとうしいなあ、で終わるけど、時々晴れて蒸し暑いからイヤになっちゃう」
「暑くなってきたねー。俺様、汗かいて目が覚めちまう」
「ちゃんと拭かないと風邪引くよ。寝てばっかりなんだから布団もカビ生えちゃうよ」
「アハ、そういうのっていつも言う側だから言われるのってなんか新鮮! 気をつけまーす」
ちゃめっ気を含んで答える佐助に、はこらえられずに笑みこぼす。肩を震わせて笑っていると、呆れ顔をしていた佐助が眉尻を下げ、俯き加減に頭をかいた。雰囲気が変わった佐助に笑みを引く。
「俺様の事で悩ませてごめん。……きっとよくなる、努力する」
口約束だと判っていても、それ以上のことを望むのは不可能に近い。
「……うん」
「あんまりには気に病んでほしくない、って言ったらわがままだけど。せめての不安そうな顔や困った表情は見たくない。折角きれいな笑顔するようになったのに」
「え?」
声色が変わったのに顔を上げると佐助はニヤニヤとを見ていた。
「あれ、気付いてない? ここんとこ、すっげーきれいに笑ってる。俺様くらりときちゃうくらい」
「う、嘘だ……」
「ホント。あ、照れてる?」
「照れてない! 夕飯作ってくる!」
アハー、と笑う声を背中に聞きながら、は赤くなった顔を押さえて慌ててキッチンに向かう。俺様ご飯大盛りね、との言葉に、ぺったぺたに固めた大盛りにしてやろうと誓った。
皿洗いを終えた佐助が戻ってきて、さも名案のように言った。
「そうだ、また七夕に笹を買ってきてよ。短冊は用意するからさ、願い事書いて飾ろう」
「いいけど、まだ早いよ」
「いいからいいから。忘れちまわないように、ね」
「そういえば去年、何書いたの?」
の問いに首を傾げた佐助はにんまりと笑う。そうしてまた、いつものセリフで答えるのだろう。の願いはもう決まっていた。
――この暮らしが、続きますように。
戻る
2010/06/22
まんまるいアジサイはセイヨウアジサイといって、日本原産のガクアジサイを改良したものだそうです。あと、花びらだと思っていた部分は実は萼だという事実……。
食事のシーンが入れられず、残念です。
よしわたり