もう、佐助は一人で起き上がることさえできなくなっていた。朝晩はが面倒を看ることができるけど、昼間は仕事に行っているが付きっきりでいるわけにもいかない。それに、佐助がそれを頑なに拒んだ。これ以上の手を煩わせたくはないから、と。
 本当は、ずっと佐助の傍にいたかった。だけどそれは佐助の望みではない。ただの、の我が儘だ。だから佐助といる時はきれいだと言ってくれた笑顔でいるように心掛けた。佐助も事あるごとに、ありがとう、ごめんね、を口にしていたのが段々と減っていった。そしての心を見透かしたように、疲労をおして微笑んでいた。――終わりは、近かった。




 五日の夜。佐助が望んだから笹の一枝を買ってきた。
 が帰った時にはテーブルには色とりどりの折り紙が散らばっていて、器用に作られた七夕飾りがいくつも出来上がっていた。が驚いていれば、佐助は嬉しそうに笑って一冊の本を見せてきた。折り紙を使った飾りの作り方が載っている、少し難しいレベルの本だった。それを難なく作り上げてしまうのはすごいと純粋に思った。
「すごいね」
「へへー。俺様手先は器用だからさ」
「笹、ちゃんと買ってきたよ。でもせっかく佐助が作ってくれた飾り、全部飾れるかな……」
「大丈夫大丈夫。俺様に任せときなって。――悪いけど、夕飯頼むわ。しっかり起きてられそうにないんだ」
 へらりと困ったように笑う佐助。この飾りを作るのでさえ一日かかったのだろう。眠ったり起きたりを繰り返しながら。重苦しい空気にならないように、は努めて明るく笑った。
「じゃ、笹の方は任せるね。今日は暑かったからそうめんと焼きナスのお浸し、冷しゃぶでーす」
「うん、楽しみにしてる」
 佐助に笹を手渡して、キッチンへと向かったはシンクに俯いてぎゅうと唇を噛む。の願いは叶いそうにない。


「はい、も書いてよ」
 渡されたのは淡い黄色に月や星の型を抜いた短冊だった。バランス良く、折り目もない。本当に器用なんだと矯めつ眇めつ、嘆息した。
「すごいね……」
「お褒めにあずかり恐悦至極、ってな。俺様はもう書いたから」
 佐助が持ち上げた笹には五色の飾りが下げられていた。その一番高い枝にはきれいにトンボと草を切り抜いた深めのグリーンの短冊が一つ。書かれてある字を読もうとすると、佐助はひらりと笹を揺らしてにんまりと笑う。
「お互い当日まで見ないでおこうぜ。その方が楽しいだろ?」
「私が結ぶ時に佐助の見ちゃうかもしれないよ?」
「ひっくり返しておけばいいんじゃない?」
「……見ないって判ってるんでしょ」
「まーね。さ、書いちゃって」
 くすくすと二人で笑い合って、佐助が後ろを向いている間には短冊にマジックで願い事を書く。
 ――これくらい、許されるよね……。
 ぐっと一度目を瞑り、書けたよ、と佐助に呼び掛けた。振り返った佐助は裏返しにしたの短冊を見ないように枝に結ぶと、ベランダに向かう。去年と同じように物干し竿に固定して、を見た。
「どう?」
「うん、バッチリ!」
「アハー、とーぜん!」
 ケラケラと声を上げて笑う佐助の顔がとても幸せそうにみえる。この瞬間がいつまでも続けばいいのに、と子供のようには思う一方で、忘れてしまわないようにとしっかり記憶に刻んでいた。




 七日は梅雨もどこへやら、カンカンに照る太陽が眩しく、暑い日だった。日が暮れても蒸し暑さが残り、それでも夜空はほとんど雲がなく快晴だった。
 少し残業をしたは帰りの道を急いでいた。低いとはいえヒールのある靴を履いてくるんじゃなかった、と思っても遅い。道行く人が走るを何事かと見ている。そんなものは気にならない。
 ――佐助!
 一心にそれだけを考えて家へ走った。仕事中、携帯に何度かの着信と、一件の留守電が入っていた。
 ――今日は、できれば早めに帰ってきてほしい。……もちろん、無理にとは言わないけどさ。それじゃ。
 まるで最後の挨拶のようなその言葉に嫌な考えが脳裡をよぎって仕方がなかった。ぐちゃぐちゃと整理のつかない頭では仕事の能率も下がる。必然的に残業をする羽目になって、帰宅が遅れてしまった。
 慌てて家に駆け込んで、佐助、と呼ぶ。返事はない。リビングのドアを開けて枕許へそっと近寄った。
「……佐助」
……?」
 瞼を閉じたまま、しっかりした声で佐助が呼んだ。最近、意識があまりはっきりしていない時はうわ言のように話すことが多かったせいで、思わずは大きな声を出してしまった。しまった、と気付いた時はもう遅い。
「いる、いるよ、佐助」
「はは……、おバカさん。そんな大きな声で言わなくても、聞こえてるよ」
 かすかに、佐助が笑う。力を振り絞っているようで、ローソクの火が燃え尽きる直前に少しだけ強くなるようで、悲しかった。けれど、決して表情には出さないでいた。ごめん、と苦笑いを浮かべる。
「あのさ、すっげー言いにくいんだけど、俺がこれから言うことを、何も言わずに聞いてくれる?」
「もったいぶらなくていいから。なに?」
 ちょっと起こして、と力の入らない指先を少しだけ動かした佐助の背に手を差し入れる。布団から上半身を起こして、すぐ傍の、佐助がいつも座っていたソファの右端に背中をもたれさせるようにした。それだけだと、またぐでんと倒れてくるからが隣に座って体を支えている。老人介護もこういうものなのかな、とちょっと思った。
 すごく重たいものでも持ち上げるような動作で目を開けた佐助は、はっきりとを見た。
 ――そこに、佐助の瞳に、見たくないものが見えているのに、目が離せない。
 はちくりとが一度瞬くのを待っていたかのように、佐助が話しだす。
「さすがの猿飛佐助も、ここまでみたい。短い間だったけど、本当にありがとう。のおかげで、俺はこの異邦でここまで生きられた。幸せだったよ」
 佐助の顔には穏やかな微笑がのっているだけ。
「だから、最期の我が儘を聞いてもらいたいんだ」
「私、だから?」
「そう。だから。に、助けてもらって、生き延びさせてもらって、幸せにしてもらって、その上我が儘まで。俺様、欲深いからさ」
 そこまで言って、くつりと弱々しく喉を鳴らす。欲深いくらいなら、意地汚く生きてほしいと思う。しかし、それはの望みで、佐助の我が儘ではない。
「俺をさ、の家族にしてよ」
「え?」
 ぽかんと問い返したに、アハー、と佐助が笑った。
「忘れちゃってる? 初めて会った時に言ってくれただろ。――身内にしてくれるって」
 ついでに葬式出してくれるって。悪戯っぽく微笑む佐助は、元気だった頃そのまま。弱っているのは演技なんじゃないかと、今になって思いたくなる。
「そんな前のこと、覚えてない……。私、そんなこと言った?」
「うん。二言はないよね」
 佐助の声が、表情が、体が、目前に迫った死に瀕して生気を取り戻していた。に支えられずにしゃんと座って、背を伸ばしている。
 ――ああ、佐助だ。




 涙が頬を転がった。
 の好きな、好きになった、異邦人ではあるけれども、人である猿飛佐助という男は今ここに確かに存在している。それだけでもう、なにもかもが心の底にストンと落ちた。
「わかった」
 ぐしゃぐしゃの泣き顔で、精一杯笑って頷く。
「ホントに?」
 ひんやりした佐助の両手がの頬を包む。
 ――忍の手。でも、人の手。
「本当に。佐助はもう、私の家族だよ」
 の言葉を聞いた佐助は嬉しそうに目を細めて、を抱きしめる。ぎゅう、との体がここにあることを確かめるようにしてから、佐助は深く呼吸した。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 いつの間にか当たり前になった、二人のやりとり。とくん、と心臓の音が重なったような気がした。


 眠ってしまった佐助の体をそうっと横たえて、は涙に声を詰まらせながら言う。
「ありがと、って言うのは私でしょ? 佐助」
 静かに眠る佐助からの返事はない。髪を整え、浴衣を直し、布団を掛け直して、――少し迷って口付けた。の涙が落ちて佐助も泣いたように見えるようになってしまった。
「佐助が泣く姿を見たのは家族の私だけね」




 ふと、立ち上がってベランダへの戸を開ける。カーテンがふわりと風に舞った。ぬるい夜風が笹の葉を、短冊を、折り紙細工を、さらさらと鳴らして吹いていた。
 ベランダへ下りて笹の枝をしならせて、短冊を見る。天に最も近いところに結ばれた二枚のうち、グリーンの短冊には一言だけが書かれていた。
 ――どうかが幸せであるように。


 空には夏の星が、天の川が、明るい地上の光を気にすることなく静かに輝いていた。









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2010/07/04
2010/07/16 訂正
これにて異邦人は完結となります。
読んでくださる方のおかげでこの話は形をなし、一年かけて終わることができました。本当にありがとうございます。
よしわたり



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