と幸村とは旧い仲だった。
 の家は京から下ってきた呉服の大店で、真田の者は随分と世話になっていた。幸村も例外なく、店主が城へ上がってくる時だとか、父について町へ下りる時だとかに挨拶をさせられていた。しかし男子である幸村が並べられた色鮮やかな反物や広げられた上等な着物、高価な小物に興味を持つはずもなく、挨拶もそこそこに逃げ出すこともしばしばだった。
 ある時――城でだったか店でだったか定かではないが、逃げ出した先に年の近い子供がいた。袴姿に高く結わえた黒髪。棒切れを手に守役と打ち合っていた。幸村に気付いたその子供はにこりと笑って、一緒に遊ぼう、と誘った。クタクタになるまで遊んで、どちらかが帰る時分になって互いの素情を初めて知った。上田城主の嫡男と、呉服屋の娘。ついさっきまで一緒に遊んでいた相手が女子だと知った幸村は「はれんち!」と叫んで隠れてしまった。
 しばらくはに近寄りもしなかった幸村だったが、は部屋の中で遊ぶより男子のような格好で外で遊ぶ方が多く、そのうちまた一緒に遊ぶようになっていた。


 幸村が信玄の許で学ぶために上田を離れることになった時、は泣かずに笑って送り出してくれた。強く立派になって帰ってきてね、と。幸村の方が泣きそうになってしまったのはあまり知られたくない二人の秘密だ。
 それから、十年以上の歳月が過ぎた。
 十七になった幸村は戦で名を上げ、信玄にも認められて、新たな城主として上田に帰城することとなった。これは、その後の幸村との話である。






 往来のど真ん中、一軒の店の前で仁王立ちする青年が一人。すうはあ、と深呼吸を繰り返して気を鎮めようとしているのだろうが、ちっとも効果はないようだった。辺りをウロウロしていた男が呆れたようにその後ろ姿に呼び掛けた。
「なぁ旦那、いい加減中入ろうよ。いつまでもここで突っ立ってたって始まらないんだし。どのみち顔合わせることになるんだったら今日じゃなくてもよくなーい?」
「ならぬ! 某はこのように立派に成長して戻って参りましたと殿に早くお伝えしたいのだ!」
「でもそう意気込んで城を出た割にはさっきから一歩も進めてないじゃない」
「わ、忘れていたのだ、殿も成長なさっていることを! きっと美しい女子になっておられるに違いない。そう考えるとどうしてもこの一歩が踏み出せぬ……!」
 呆れたような物言いの男は根が生えたように動かなくなった青年の、冷や汗を垂らす顔を覗き込んで溜息を吐いた。
「……はー、初心にも程があるよ。挨拶だけして帰りゃいいんだろ? ほら」
 トン、と男が青年の背を押す。それまで頑として地面を踏みしめるだけだった両足がぎこちなく店へと向かう。青年は大慌てで足を止めようとするものの、まるで言うことを聞かないようだった。
「佐助ェ! なにをした!」
「文句は帰ってから聞きますよ。はい、いってらっしゃーい」
 ヘラリ、気の抜けた笑みを浮かべた佐助が手を振るのを恨みがましくねめつけながら、青年は呉服屋の暖簾をくぐったのだった。


「いらっしゃいませ。初めてのお客様ですね、どのようなご用件でございましょう?」
 店に入った途端、初老の番頭がにこやかに訊ねてきて、うっと言葉に詰まった青年は思わず声を張り上げてしまう。
「某は真田源次郎幸村と申しまする。こちらの娘御、殿に幼少の時分は世話になり……、この度は上田に戻ったご挨拶に伺った次第で、その、」
 段々と支離滅裂になっていく幸村の言葉、焦りが明らかな表情。微苦笑する番頭が近くにいた下女に何かを言伝、女は会釈をすると奥へと消えた。
「お久しゅうございます、真田様。随分とご立派になられまして。旦那様は京へと買い付けに向かわれて留守ですが、お嬢様はおいでになられます。どうぞ、奥へお上がりになってくださいまし」
 お嬢様もさぞお喜びになられましょう、と勧められるままに幸村は店から母屋へと上げられていた。先ほどの使女が先導して屋敷を抜けた先に、開けた中庭があった。
 赤紅の唐織りを襷掛けし、黒の袴で薙刀の鍛錬をしている女――結えられた黒く長い髪が体を動かすたびにパサリパサリと揺れる、振り返ったその人はまだ少女のあどけなさが残っているのに、幸村よりもずっと大人びて見える。美しいとも可愛らしいとも思える女に、幸村の口からは何故だか破廉恥の言葉は出てこなかった。
 案内の者がお嬢様、と声を掛けた。
「こちらのお客様、どなたかお判りに?」
 幸村達の方に向いたその人は切れ長の目を瞬いて、すぐに破顔する。
「ええ、判りますとも。お久しぶりです、源次郎様」
「……覚えておいででしたか、殿」
 緩む頬も赤らむ目許も隠しきれず、幸村はそれだけ言うので精一杯だった。


 客間に移った幸村とだが、なんともぎこちない沈黙が下りていた。幸村は何を話せばいいのか戸惑っていたし、から口火を切る様子はみられない。茶と菓子を使女が持ってきて、少し空気が和らいだ。
「源次郎様、今でもお団子がお好きでいらっしゃいますか?」
 茶請けに出された団子をじっと見ている幸村にくすりとが微笑みかける。視線を落として幸村はもごもごと答えた。
「は、恥ずかしながら」
「そのようなことは。こちら、幼い頃に源次郎様が家に来られた際、よく召し上がられていたものです。味は変わっていないと思いますよ」
 そう言いながら串を摘まんではぱくりと一つ食べる。思わず顔を上げてそれを見送った幸村。はたとと目が合って真っ赤になった。
「も、申し訳ござらぬ!」
 また柔らかに笑ったはどうぞ、と皿を勧める。目の前に出された好物にこくりと幸村の喉が鳴る。我慢するのも勿体ない、勧められて断るのも――そのつもりはちっともなかったが――、悪い。ほんの数瞬の逡巡の後、いただきまする、と幸村は団子に手を伸ばした。
「……うむ、懐かしい味でござる」
 いい塩梅に焼き目のついた白い団子に、甘辛いタレを多すぎず少なすぎず。固めの食感がもちもちとタレをからませて口によく残る。記憶にある味と寸分違わぬそれにほろりと笑みがこぼれる。
「そうでしょう? どんどん食べてくださいね」
 嬉しそうに目を細めたは茶碗を手に、次の串を取る幸村へ掛ける必要もない言葉を掛けた。


 幸村が団子を平らげる頃には思い出話も語りつくして、は幸村に信玄のことや甲斐のことをいろいろと訊ねていた。信玄のことになると途端にぱっと顔を輝かせ、戦のこととなると好敵手がいるのだと楽しそうに言う。幸村はすっかり緊張もほぐれたようで、初めにあったぎこちなさはいつの間にか消えていた。
 時間を忘れて話し込んでいたところ、障子の外に人が控え、お嬢様、とを呼んだ。失礼いたします、と幸村に断りを入れては外へ出る。二言、三言交わして戻ってきた。
「源次郎様、表にお迎えの方がいらっしゃったそうです。久方ぶりにお会いできた嬉しさに長く引き止めてしまい、申し訳ございませんでした」
「いや、某がまだ未熟ゆえ、供の者が過保護でなりませぬ。こちらこそ長居をしてご迷惑をおかけしました」
 ぺこぺこと頭を下げあって、二人で苦笑する。の後をついて母屋から店へと戻れば、やはり佐助がいた。幸村に向かって軽く片手を上げる。
「迎えにきましたよー、旦那」
「幸村様と以前親しくさせていただいておりました、と申します。積もる話が止まず、お時間をいただきまして」
「真田の旦那から話はきいてるよ。世話になったね」
 膝をついたがきちりと礼をする。それを見て、幸村はこっそり首を傾げた。さっき幸村と出会った時、これほど丁寧に挨拶をしただろうか――していない。少し、佐助に対して落ち着かない心持ちがした。
「あの、殿! また城へ来られるだろうか?」
 口をついて出た言葉は思ってもいなかったもので佐助が目を丸くしていたが、幸村自身も驚いていた。
「……いえ、私は店の方におります。お城へは父が上がります」
「では、時々こちらへ訪れてもよろしいでしょうか……?」
 ふわ、とは微笑む。
「ええ、ぜひおいで下さいませ。お待ちしておりますね」
 さらりとの肩を流れ落ちた黒髪が艶やかで、赤面した幸村は会釈をするとすぐに店を出た。慌てたふうな佐助の声が追ってくる。
 喜び、楽しみ、嬉しさ、懐かしさ、――いろんな感情が混ざり合って今すぐにでも叫び出したい気持ちを抑えるために、幸村は全力で城まで走って帰った。


 その夜、自室でぼんやりとしていた幸村の背後、天井裏から佐助が現れ、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「真田の旦那ァ? なーにニヤニヤしちゃってんの?」
 じとりと視線を遣った幸村は鼻を鳴らしてすげなく応じる。
「お前には言わぬ」
「ええ? 俺様のお陰であのちゃんって子といい感じになってたじゃない。俺様聞く権利あると思うんだけどー?」
「どうせ全て見聞きしておったのだろうが。上田に戻ってまだ日が浅い。某はいつ何時たりとも気を抜くなとお館様にも厳しく仰せ付かっておる身。それを承知で独りにさせるほど、お前は甘くはなかろう」
 全幅の信頼を寄せている、と言外に匂わせる幸村に、まいったなぁと苦笑した佐助はストンと床に控えると軽い口調で話を切り出した。
「あーらら、バレてるのね。――そんじゃ、一応報告。あの店の者に怪しい奴はいなかった。昔馴染みの奴らは言うに及ばす、かね。旦那が上田を空けている間に入った下男下女も経歴ははっきりしている者ばかりだ。店主は見る目があるねぇ。それと、あー、これは言いにくいんだけど……」
 言葉を濁して視線を宙に泳がせる佐助。幸村は首を傾げる。
「言いにくかろうと報告すべきであるなら躊躇せずともよい」
「あの店、跡取りがいないだろ? 京の同業の者を婿に取るんだってさ。……だから、あんまり入れ込むんじゃないよ」
 抑揚なくそれだけ言うと、佐助はするりと姿を消した。
「……そうか」
 昼間の興奮が一気に褪めていくようで、ぐっと両目を瞑る。
 幸村とは、かつてのように親しくすることはできないのだ。城主と町娘という身分の違い、男と女というどうしようもない壁。それでもは幸村の来訪を断らなかった。ならば婿が入って会えなくなってしまうまでは今日のように話ができればいい。――そう思うのはが旧友だからなのか、成長した姿に少なからず心惹かれたからなのか、はっきりとはしない。
「某はまだまだ未熟だ……」
 ぼそりと独りごち、幸村は思考を遮断するように寝床にもぐり込んだ。






 十日と間を空けず、団子や餅を手土産に幸村はの呉服屋を訪れていた。名目上は城下町の視察である。甘味処巡りが含まれているのは公然の秘密だが。
 あまり城を空けてくれるな、と佐助が口喧しく言うものだから最初は数日おきだったものを控えたのだが、それでも佐助は不服のようだった。家臣の様子を伺ってみれば、城下を知るのはよいことだと概ね肯定しているのだからこれ以上間隔を置く気にはならなかった。書面と向き合う政務も、内政も、対外交渉も、補佐役がついて拙いながらも滞りなく行えている。
 町へ下りるたびに新たな城主のよい噂が広まっていくのは気恥ずかしくもあり、誇らしくもあるものだ。初めの頃は若さゆえの不安と戦でしか能を発揮できない将であろうと人々は口にしていた。それが、少しずつ変わっていった。
 顔も知らない城主を親しげに、誇らしげに語って聞かせる住人に、幸村はいつもはにかむことで応じる。よい城主殿でござるな、と。頷く彼らの顔が、幸村にとってなによりの形ある治政の証しにみえるから、城を下りるのは好きだった。


 餅屋の店先で蒸したてだったちまきを買って店を訪ない、と一服している時にその話をした。切れ長の目を嬉しそうに細めるは懐かしそうに言う。
「源次郎様はご立派になられましたね。戦場でのご活躍といい、本当に。……源次郎様が甲斐へ行かれる前に、強くご立派になられてお帰りくださいね、とお見送りした日を思い出しました」
 ちまきを頬張ってから、幸村は眉を寄せた。まだ幼かった己は涙ぐんだのではなかったかと思い返し、忘れられているようでほっとする。山菜と塩だけのおこわが噛み締めるたびに味を増す。旨い。
「そのような堅苦しい言い方ではなかったでござる」
「そうでしたね。生まれ育った土地を離れ親兄弟とも別れる寂しさに、泣き出しそうになっていた源次郎様を慰めたような覚えがあります」
 まだ湯気の立つちまきを冷ますがさらりと言ってのけて、幸村は口の中のものを慌てて飲み込んだ。はしっかり覚えていたらしい。気恥ずかしさに無言でちまきを食べることにした。


 上田に帰ったとはいえ、甲斐の信玄の許で長期滞在することや、戦へ出陣することもあり、幸村は上田を留守にすることがしばしばあった。
 時には奥州の独眼竜・伊達政宗が上田に攻め込んできたり、加賀の風来坊・前田慶次がふらりと乗り込んできたりと城下を巻き込んでの大騒動を起こしてくれることもある。伊達政宗は一国の主なりに諸国の状況や好敵手の居所を知っているのか、幸村不在の上田へわざわざ来はしない。
 問題は風来坊である。上田を訪れるとまず城へ顔を出し、幸村がいれば止めようと集まってきた兵士を木の葉のように巻きあげて一戦交えるだの、いなければ町へ下りてどこにそんな金があるのかというくらい羽振りよく遊んでからふらりと去っていくだの、派手な振る舞いをしている。
 そういったことをに愚痴った幸村は、その日やっと居座りそうになっていた慶次を追い出してきたところだった。草臥れてしまって鍛錬にも精が出ず執務にも身が入らずで、城主や武士の何もかもをほったらかしてきたと言った。
「まあ……、お疲れ様でございました。そのお方、私はお姿を拝見したことはございませんが、父や店の者からいろいろと噂を耳にしたことが。ですが源次郎様の今のお話ではただの迷惑な客だとしか思えませんね」
 丁子茶の小紋に黒紅の袴を着たはなんとも言えないような顔をする。が言うには、この店のようにそれなりの呉服屋といえど困った客はいるそうだ。
「全くでござる……。つい先だってはまつ殿――前田家当主利家殿の妻で慶次殿が恐れるお方であるが、そのまつ殿が上田まで慶次殿を追いかけてこられて、城の中で捕り物をされ。人も建物も多少の被害を被ってしまいました。その場で謝っていただき、後日修繕費やお詫びの品を山と送ってこられたものの、某はなぜそうなる前に止められなかったのかと情けのうございます」
 充分しなびているのに、その時の状況を思い出してか更にげんなりする幸村。ほんのり甘い団子に楊枝を刺したまま、口に運ぶことさえしない。
 幸村が手土産に持ってきたその団子は佐助に作らせたものだ。本来男子禁制のはずの廚に真田忍隊隊長がいて、しかも甘味を作るというのは、上田以外では決してお目に掛かれない光景だ。城の者は初めの頃こそ驚き慌てたものの、もはや動じることもない。武田から幸村に従っていた者は言わずもがな。しかし、はそれを知らずにとてもおいしいと喜んで食べている。
「いっそ嵐と思ってやり過ごすしかなさそうですね」
「嵐の方がまだましにござる」
 深々と溜息を落とした幸村はふとを見、見る間に顔を赤くした。団子を頬張って誤魔化そうとするものの、は目敏かった。なまじ幼少の時分を知っているがために、幸村の反応が何に由来しているのかわかっていて問うてきた。
「どうかなさいました?」
「ど、どうもしませぬ」
「てっきり破廉恥とおっしゃるものだとばかり」
「……」
 愉快そうに目を細めるにますます赤くなって言葉を失くす幸村。観念したと言わんばかりに眉尻を下げて重たげに口を開いた。
「慶次殿が、その、こ、恋はしておらぬのかだの、いい人はいないのかだの、恋はいいものだだの……」
 俯き、次第に小さくなっていく声は最後に破廉恥、と呟いて消えた。くすくすと柔らかに笑うのに幸村はちらりと視線を上げる。
「源次郎様は変わりませんね」
 はからかう気配も馬鹿にする様子もなく、どこか懐かしげな風だった。
殿?」
「私は、人を好きになるのはよいことだと思います。毎日が色付いて、些細なことでも嬉しくなりますから」
 ほんわりと笑んだ顔は幸せそうなのに、一瞬だけ陰りがみえた。それからすぐにが話題を変えてその話はそれっきりになってしまった。


 武田信玄が好敵手、上杉謙信との戦に参ずるために半年ばかり城を空けることとなった。いつもより長くなるが、留守を任せる家臣はしっかりした者ばかりで憂慮はない。
 に会い一言告げてと思えども暇がなく、文を送るだけになってしまった。返信はすぐに届き、武運長久を祈ると簡潔に書かれていた。美辞麗句を長々と連ねられるよりも幸村にとっては余程好感が持てるし、それをわかった上での文がらしい。
「まーたニヤニヤしちゃって。ホント、旦那はあの娘のこと好きだよねぇ」
 天井板をずらして垂れ下がっている佐助に、だらしがないのはお前の顔だ、と言いかけて止めた。好き、と口の中で言葉を転がす。
「旦那?」
「某はお館様を敬愛しておる。佐助を信頼している。城の者に感謝をしている。民を思っている。それらは全て、形は違えど好意によるものだ。……ならば恋もそう破廉恥なものではないのやもしれぬ」
 ドサリと音を立てて佐助が落ちた。
「ど、ど、どうしちゃったの旦那……!?」
「此度の戦を終えて帰ってきたら、殿に某の思いを伝える。昔馴染みのままではおられぬ。某は、殿が好きだ。恋を、しているのだ」
 拳を握り締め、自らに言い聞かせるように声に出した幸村はすっきりしたように力強い笑顔を浮かべていた。慌てたのは佐助である。
「旦那それ死亡旗! じゃなくて! あの子旦那には何も言ってないみたいだけど、もう縁談まとまりかけてんの! 旦那が戻る頃には結納も結婚も済んでるから! 人妻を奪うってのは――俺様は燃えるけど、旦那の心証が悪くなるからダメ!」
 早口に捲し立てる佐助を薄気味悪そうに横目で見、筆を取ると机に向かう。
「そこで佐助。お前の出番だ。よろしく仲を取り持ってくれ」
「それって俺様に戦場と甲斐と上田を飛び回れってこと? アハー、まさかね……」
「特別手当つきだ!」
 ずい、と突き出された文と有無を言わさぬ笑顔、そしてなにより懐に訴えてくる言葉。
「……いってきます」
 佐助は恭しく文を受け取ると羽を散らして姿を消した。


 武田が猛将であり上田の城主たる幸村の姿や数々の戦で名を上げた騎馬隊を一目見んと、出陣の日には大通りを埋め尽くさんばかりの人々が駆け付けた。真田の赤備えが粛々と進軍する様に囁きを洩らすのさえ憚られるようで、見物人は多かれども、人馬の足音はもちろん、甲冑が擦れ合う音さえも大きく聞こえそうだった。
 呉服屋の前に差し掛かった時、幸村がわずかの期待を含んで目を遣っても姿は見えず。諦めに前を向き直した視界の隅、通りに面した二階の窓からは小さく手を振っていた。幸村が気付いたのに眦を下げて、いってらっしゃいまし、と声なく告げていた。
 たったそれだけのことで、幸村は信玄に鼓舞された時のように力が内から漲ってくるように思えた。


 時は数日前に戻る。佐助は幸村から託された文を手に家へ忍び込み、が独りになる機会を窺っていた。京紫に唐草文の小袖、黒髪はゆったりと流して毛先で一つに結っている。幸村の前に出ない時のは、袴も穿かず髪を結い上げもしない、どこにでもいる町娘だった。商家の娘だからか身なりは整えられていて、所作も上品だ。
 女子が苦手で、ちょっとのことでもはれんちはれんちと口にする旧友を慮って、は幸村といる時には衣服にも言動にもことさら気を配っていたとすれば、幸村の恋路も不毛に終わってしまうこともないかもしれない。顔も知らない男と主君である幸村、佐助がどちらを応援するかについては愚問だ。
 が自室へ入ったのを見計らって佐助は影となって部屋に潜り込んだ。はっと佐助の方に顔を向けたに勘は悪くないと口端を引いた。
「どーも、真田の旦那の使いの者でーす。旦那が文通をしたいそうなので文をお届けにあがりました!」
 ピッと佐助が差し出した文を受け取ると、驚いてはいるものの騒ぎ立てることもなく冷静には頭を下げる。
「あなたは確か幸村様をお迎えにいらっしゃった方ですね。先日お返事はいたしたはずですが?」
「あ、覚えててくれたんだ。俺様大感激! それがねぇ……。うーん、俺様の口から言うのもどうかと思うから、文を遣り取りしてみてよ。三日後、返答を取りにくるから。んじゃねー!」
 目まぐるしく百面相をして言うだけ言うと佐助は消えた。
 しばらくポカンと佐助がいたところを見詰めていただったが、文を開いて書かれてある内容にゆるゆると頬を染めていく。
「……嬉しい」
 それから、何かを決意したように髪を高く結い、きりりと表情を引き締めると部屋を出ていった。






 上杉軍との戦は長引き、熾烈なものとなった。
 自称無敵の――なんといったか、一撃で吹き飛んでいった武将は別として、ちょうど上杉に居候していた前田慶次が力試しだなんだと割り込み、隙があればすぐ信玄の首を狙おうとする忍のかすがは懲りず、果てには伊達軍まで乱入してきた。
 三つ巴もいいところの混戦の中にあって、信玄と謙信だけは他の者など眼中になく、心から好敵手との命を懸けた一騎打ちを楽しんでいた。それを見るだに、幸村はまだまだこの境地にまでは至れていないと己を恥じ入り、いつかこうなれるようにと熱く燃え滾るのだ。
 幸村の心に呼応して炎が上がると、それを目掛けて雷と共に政宗が降ってくる。軽口を叩きながらも六爪を抜いて向かってくる政宗に全力で応えていれば、いずこからともなく桜の花びらが舞って慶次が現れる。謙信の戦いを邪魔できないと判断したかすがは標的を幸村と政宗に変え、それを追って佐助が加わる。そうすれば政宗の背を守る小十郎も参じないはずはなく、ほぼ毎日のように乱戦が続いた。
 夕刻になればどちらからともなく兵を引き、無駄な消耗を避ける。夜には軍議とは名ばかりの殴り合いをしたり、時々まともに布陣を練ったり、交戦中であるというのに酒樽を持って武田の本陣に顔を出した謙信と信玄が飲み交わしたり、そのせいで翌日は休戦することになったり、――わざと戦を長引かせてこの二人は楽しんでいるのではないかと、表立っては口にしないが、多くの者が思っていた。


 夜、一人になってから幸村はへの文を書く。と文を遣り取りし始めて、面と向かってはあまり話せなかったことや、小さな悩み、素朴な疑問、率直な心の内を綴るようになっていった。何度も話をしてわかったつもりでいたのことを案外何もわかっていなかったことが新鮮に思えて、数日おきに届く文が待ち遠しくてならない。最初の頃は規則だからと内容を検めていた佐助も、少しすると俺様耐えられないとぼやいて読んだふりで終わらせてしまうようになった。
 幕舎で寝転がっていたところにわずかに表情を硬くした佐助が現れた。携えているのは一通の文。どうした、と起き上がると佐助は無言で首を振って文を差し出した。
「読めば判るよ」
 幸村にそれを渡すと、佐助はあっという間にいなくなった。その態度に疑問を浮かべながらも文を広げる。
「……源次郎様、これまで黙っておりましたが私は近々婿を迎える予定でした。お家の為と思えばお会いしたことのない方とも夫婦になれると思っていました。ですが、心を偽るのはまだ見ぬ夫となるべき人に対して最低の行為になりましょう。ですから、はっきりとお断りいたしました。父と話をして、先方とも話し合いを重ね、婿としてではなく養子として当方へ来ていただくことになりました。……私には心から好いた人がいます。成就しない思いをその方に伝えることはしませんが、その方を思うと心が満たされるような気がします。今はそれだけで充分です。源次郎様にも近い将来、大切に思える相手が現れますことを願っております。……これから忙しくなるので文を書けるのもこれが最後になるでしょう。また、上田でお会いできる日を楽しみにしております」
 は縁談を断った。自惚れでなければが思っているのは幸村だろう。頭の中が真っ白になるようだった。
「あの子はこれ以上旦那と関わるつもりはないようだ。俺様も露骨に避けられてる。上田に帰ったところでなんのかんのと言い訳されて会えないだろうね」
 静かな佐助の声が耳に痛い。
「鈍い旦那に恋心を自覚させてくれたのは感謝して、忘れちまいな。どうせ身分違いだ、一緒になんてなれないよ」
「佐助ッ!」
 幸村の怒号に渋々現れて控えた佐助は、戦場で見るような笑みを佩いた幸村の様子に顔を引きつらせる。
「お館様に事の次第をお話しする。某は諦めはせぬ!」
 お館様ー、と叫んで飛び出していった幸村に溜息を吐いて、佐助は後を追った。
「やれやれ……」


 顔をパンパンに腫れ上がらせ、全身に痛々しげな打撲の痕をつけながらも、喜色満面といったふうで馬を駆る幸村。並走する佐助はできる限りその姿を視界に入れないようにしていた。
 意気込んで臨んだにもかかわらず、信玄と幸村の会話は二言三言で終わってしまい、その後はひたすらに殴り合っていた。いつもより力が入っていたのは幸村の成長を喜んでなのか、励ましのつもりなのか。何にせよ、信玄は幸村の決意を受け止めてその背を押し、戦場を去らせた。ただし五日で戻ることが条件である。
「で? どうすんの?」
「正面突破だ!」
「はぁ!?」
 佐助は戦について訊いたのではない。頓珍漢な答えに佐助が首を傾げても、幸村は自信ありげに笑うだけ。
「某の思いをただ伝えるのみ。殿は判ってくださる」
 馬足を速める。道を辿った遥か先、上田の城が見えてきていた。


 店の前で砂埃を上げて馬から飛び降りる。長い鉢巻をなびかせ、一房結った髪が揺れる。赤を基調にした戦装束に背に負うた二槍は平穏な町の中で異端にみえた。チャリ、と首に下げた六文銭が音を立て、幸村は腹の底から息を吸った。
「たのもー! 真田源次郎幸村、殿にお伝えしたいことがあって馳せ参じた!」
 空気がビリビリと震えるほどの大声に、辺りの人々が耳を塞いだり顔をしかめたり。店の奥の方でなにやら騒がしくなったと思ったらが血相を変えて表に出てきた。長い髪は振り乱して、緋色の小袖は市松模様で袴は穿いていない。滅多に見られないの焦った姿に知らず頬が緩む。
「どうなさいました、源次郎様!」
殿! 某の、奥になってくだされ!」
 沈黙の支配する通りに、うわあ、と裏返った佐助の声が空しく響いた。
「……お断りします」
 たっぷりと間を置いて、は深く頭を下げる。まるで予期していなかった返事に幸村は目を見開いた。
「何故!? 縁組は解消なされたはず!」
「ええ。ですが、源次郎様、いえ、幸村様はご城主であられます。一介の町娘を娶るわけにはまいりませんでしょう」
「某は殿に恋をしておりまする! 某が大切に思うは殿、そなたをおいて他にありはせぬ!」
「叶わぬ思いもあるのです、どうかご理解くださいませ」
 落ち着いてきたは辛そうに唇を噛みながら、幸村の言葉を拒み続ける。揺れる瞳に、そのような顔をさせるために来たのではないと幸村は眉を寄せる。
「……ならば、殿が好いておられる方をお教えくだされ。そうすれば某も諦めがつきまする」
「言え、ません」
「どうしてもでござるか」
「……はい」
 とうとう俯いて目を逸らしてしまったに、これ以上言葉を重ねても無駄だと悟って、幸村は苦く笑むと真っ直ぐにを見詰めた。
「それでは、某は殿を思い続けましょう。殿がいつか、某に心を寄せてくださる時まで」
「何を……!」
 はっと顔を上げたに、幸村の顔はどう見えただろうか。
「止めても聞きませぬ。――これから五日、お覚悟めされよ」
「五日!?」
 絶句したに会釈をすると幸村は馬を引いて城へと向かった。残されたを囲む野次馬は喧々囂々と好き勝手に盛り上がっている。誰にも聞こえないように、はくすりと微笑んだ。
「ずっと心に秘めておこうと思っていたのに……。強く立派になったあなたに討ち取られるなら本望です」









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2010/09/30
2010/10/09 訂正
町娘といい仲になっておきながら縁談がきて、とのリクエストだったのですが、何を間違ったのか最初から設定を無視してしまいました……。すいません……。
ギャグにするつもりも佐助を出張らせるつもりもなかったんですおかしいな……。
よしわたり



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