――いつまで経っても終わらない苦しみを、報われないことを、賽の河原とはよくいったものだ。


 ざざ、と黄金色(こがねのいろ)に染まりきり、穂先をうつむかせた稲の海に風が打ち寄せた。鼻腔を通り抜けたそれは多分に稲の香りを含んでいて、大きく呼吸する。下ろしていた(まぶた)をゆっくりと開けば、まず視界に入ったのは黒々と聳える山脈。一つ一つ、名も知らぬ峰を辿っていく。
 そうして最後に目に入る――富士の山。日の本で最も高く、最も美しく、最も名の知れた、畏怖すべき神の火の山。薄雲(うすぐも)に陰る三日月の弱い光を受けて、山頂付近に残った真ッ白の万年雪が輝いている。
 ――ああ、かわらない。
 にこり、いびつな笑みを浮かべた。
 ――かわらない? どうしてわかる?
 何故かは解らないが、はある時より以前の記憶が一切ない。だが、かの山のことだけは脳裡(のうり)の隅に残っていたらしく、見た瞬間に安堵した。しかし、その思いはどこから来たものなのか、はっきりしない。自然、笑もうとして仕損じる。
「……変わらないな」
 すぐ傍で聞こえた静かな男の声にひくりと喉が引きつる。――富士の山の他は何もかも、この人でさえも覚えていない。それを男が(とが)めたことはない。いつも。


 は人というものであるらしい。姿形は他人を見、鏡で己を見れば解る。
 人とは何かと問われても答えることができない。一応の知恵はあるから記憶をなくす前までは平凡に生きていた人なのだろうと思う。なのに、何をしていたのか、どうやって生きていたのか、何者なのか、そういったことは全て忘れていた。それが徹底しているから、ある時突然ぽつんとこの世に放り出されたのではないかとさえ訝しんでしまう。
 右も左もわからずに文字通り突っ立っていたを救ってくれたのは猿飛佐助という男だった。身上(みのうえ)を訊き、それから何も言わずにどこかの(やかた)の下の方に置いている。とはいっても、仕事はない、客でもない、幽囚でもない。食事をし、排泄し、睡眠するだけの、置物(おきもの)――人ではなく、物。
 不平不満はない。一体何ができるというだろう、富士の山だけを覚えているに。佐助はそれを理解していた。
。いつまで外に出ているつもり」
 低く、固い声にはっとする。振り返れば陰に溶け込むように立つ忍の姿。その身に似つかわしくない燃えるような髪の色と、月光を反射している両目だけが赤々として見えて、ぶるりと身を震わせる。
「す、みません、猿飛、さん」
「謝罪はいい。早く部屋へ戻るよ」
「はい……」
 仮面のように――いや、まだ面の方が表情豊かかもしれない、その忍は言う。いつも忍らしからぬほどに饒舌(じょうぜつ)で人間臭い忍は、独りの前ではこうしてきっちりとした忍を演じる。
 の存在をのみ、佐助は拒む。それはあたかも記憶をなくす前のという存在をただ一人知っているかのように。
 ――わたしは、わたしの、……ああ、わからない。
 沈黙は金なり。天窓一つのみの半地下の部屋へと戻るべく、足を踏み出した。






 ――。いつになったら俺がわかる?
 心の中でどれほど叫んだところで格子戸の向こうに座した女には伝わらない。今すぐにでもよく日の当たる表座敷に引きずり出して穏やかに話をしていたあの頃を思い出させたい。だが、その都度可笑(おか)しなことに気付くのだ。
 ――あの頃とはいつだ? とは初見ではないのか? ならばこの、ありありと思い描ける記憶はなんだ? それは、真実か? それとも、巧妙に丁寧に刷り込まれた偽りか? ……ああ、わからない。
 怯えるのを知っていながら、外し損ねた仮面のような表情をしてを見る。わざとらしく特別扱いをして佐助の存在を露骨に印象付けるのは、が不定期に記憶をなくすからだ。もしかすると一番最初はも普通の女で、佐助のことを慕っていて、佐助ものことを想い、馬鹿らしいほど人のように共に過ごしていたのかもしれない。もはや確かめようがないが。が記憶をなくすのと時を同じくして、――世界がそのまま時を(さかのぼ)る。いつも佐助だけが取り残される。
 気がついたらそうなっていた。佐助の記憶が上書きされ、の記憶は消され。それ以外は何も変化しない。どうして気を違えないのかとたまに思い、こうであるからだと納得する。何を納得しているのか不明だが、何故か納得している。


 は自らの意思で何かをしようとすることはほとんどない。なくした記憶を思い出そうとするでもなく、ただぽつねんとそこに在るだけ。
「……猿飛さん」
 不意にが顔を上げた。天窓を仰いで星が出ているのを確認するとは必ず佐助を呼ぶ。その時は無言で錠を開けて部屋から出してやって、大鴉を呼び寄せるとを抱えていつもの草っぱらへと飛んでいく。記憶をなくしたと触れあうのはこの時のみ。
 誰よりも何よりも傍にいるはずの佐助を忘れても、決して忘れないものがたった一つだけある。富士の山。どうしてかはわからない。いつも、それだけは覚えている。目にするたび、悲しそうに微笑んでしまう。だから見せたくはないのだが、そうしなければは段々と気を塞いでいって病に(かか)って死ぬ。――ついには、また佐助にだけ記憶を残して時が遡っていく。
 いつまで経っても終わらない能を見せられているようだ。(いや)になって主のことも捨て置いて自ら首を掻き切ってみたことがある。目を覚ましたらが柔らかな声で佐助と口にして楽しそうに笑っていた。忍の癖に居眠りをしていたのを見つけて喜んでいたらしい。
 ――記憶をなくしていないを、そういえばいつも知っている。
 少し離れた所に立っているの後ろ姿を見ながら記憶を揺り起こす。
は、富士の山が好きだね」
 硬質な声は今更だ。の怯えてか細い声も。
「好き、というより……。これしか、わたしは記憶にありません」
 ――それが、俺様だったらよかったと思う?
 声に出さずに(わら)った。ではなく、己を。






「――――、でしょ?」
 明るい男の声に驚いて辺りを見回す。
 ――ここはどこだろう。何をしていたのだろう。目の前の、……見知らぬ男は誰だろう。
「……は、い?」
 一気に押し寄せてきた恐怖で気を失ってしまいそうになるのをぐっとこらえて返事をした。数度瞬いた男は、目を閉じて眉を寄せると、気持ちの悪い片笑みをした。
「アンタ、記憶がないんじゃない?」
 言い当てられてばくばくと鼓動が暴れている。逃げ出そうにも腰が抜けてしまっていた。ぐっと屈んでと目線を合わせた男はさっきの笑みが嘘のように人懐(ひとなつ)こく笑う。
「そう怖がんなって。俺様は猿飛佐助! あるところで忍をやっててね、アンタがどうにも怪しいってんで見張ってたんだけど、なーんか様子が可笑しいから忍んでないで出てきたわけ。それで、どう?」
 あまりの言葉に正直に話すことにした。本当に困っている今、この男の言うことを信じるならば少なからず助けにはなる。藁にも縋る思いで頷いた。
「そう、だと思います……。なんだか頭が真っ白で、今何をしていたのかもわからなくて……。わたし、何かしていましたか?」
「あーらら、当たりなのね。じゃ、手許見てもわからない?」
 そちらから言ってきた癖にどこか困ったように肩を竦めた男を不思議に思いながら視線を落とす。何に使うのかさっぱり見当もつかない道具がいくつもある。触りたくもなくてそっと手を離すと音を立ててそれらが土の上に広がった。
「……そっか。名はわかるんだっけ?」
 最終確認のような問い掛け。何も考えたくなくて、早く楽になりたくて、ならば眠ってしまえばいいのだと思い付くやいなや、瞼が重くなる。
、です」
「……助けてやるよ、
 ――ありがとう、ございます……。
 男への礼はきちんと声になっただろうか。記憶をなくすなんて可笑しなこともあるものだと考えながら眠りに落ちた。


 今度こそ、と思っていた。
 佐助が手を変え品を変えて置物だったのを人にしてやって、は色々な物事を覚えていった。佐助と話す時間も少しずつ増えて、――富士の山以外のものを記憶にとどめて日を月を年を重ねた。は館の女中となって佐助の子を産んだ。忍ごときが人並みの幸せな生に(あずか)っていた。戦は止まず信玄の上洛もまだ果たされず日の本は落ち着かずにいたけれど、雨上がりの地面のようにゆっくりと固まっていく(きざ)しはあった。そのために今一度力を揮おうと武田軍が決意を新たにしたところだった。
 ざっと大きな音を立てて世界が歪んだ。すぐに時が遡ったのだと解っても溜息を吐く気にもならなかった。記憶にあって記憶にない、その場の状況を適当に流した。もう、が何をしていたのかもそこがどこなのかも、どうでもよかった。
 記憶をなくしたにまずしてやれるのは拾ってやることだ。初めは引き摺っていた思いも次の瞬間には隠して、世界の中で孤立しているのは佐助の方だと理解させてやる。この世はのために存在しているのだと、納得させてやる。常人と異なるはそれをしてようやく産声(うぶごえ)を上げる――にとっては二度目で、佐助にとっては耳を塞ぎたいもの。
 ――ああ、かわらない。
 幾度めになるか知らない言葉を飲み込む。
 ――解って欲しい。変わって欲しい。俺を、なくしてくれるな。
 呪詛(じゅそ)も唱えた。






 月明かりの差し込む明るい夜。山を知っているか、と脈絡もなく佐助に訊かれて、一つだけ心当たりがあったから(うなず)いた。
「いきなりどうしてですか?」
「長く住んでいた(ところ)(あた)りをつけるのに役立つ。どういう山だった?」
「富士の、山です」
「記憶違いは」
「あり、ません」
 畳みかけるような問い掛けに()されながら答える。しばし無表情にを見ていた佐助は、牢格子の錠を落として顎で出てこいと指図した。
「……ここから少し行ったところに富士の山がよく見える場所がある。そこまで連れて行ってやるからいいと言うまで目を閉じてな」
「はい……」
 目を(つぶ)り、手探りで歩こうとする。が、一息に抱えられて体が強張った。
「この方が早い」
 ごく当たり前のことだ。相手は忍、抵抗すればどうなるか解ったものではない。なされるがままにしておく。
 思っていたより鄭重(ていちょう)な扱いを受けている、と気がついた。荷物のように乱雑に扱われても()むなしと思っていたのだが、佐助はひどく優しくに触れる。
 ――いつも、こうしてくれる。
 微かに笑みが浮かんで、はたと呼吸(いき)が止まった。
 ――いつももなにも、この人に触れることはあっただろうか? 記憶をなくしたわたしを拾ったくせに、冷たい目で見ているだけのこの忍。


「目、開けていいぜ」
 眼前には刈り入れ時の水田がどこまでも、山の()まで続いていた。点在する小さな灯りは農家のものか。辺りを見渡すと夜空に切り取られた山並みがあり、頭一つ抜けた富士の山を望める。
「ここ……。この眺めです、わたしの覚えている景色」
 記憶にある光景がそこにはあった。脈がうるさいのに、心は落ち着いている。興奮と安気(あんき)を往ったり来たりしているようだ。
「また来たくなったら言えばいい。連れ出してやるよ」
 を見ず、富士の山へ睨むがごとく視線を投げている佐助が小さくそう言った。
 ――この人はどうしてここを知っていた? ……わからない。
「……お願いします」
 ――わかりたくない。


 漫然(まんぜん)と日々を過ごしていた。春が来て、夏へ(めぐ)り、秋は通り、冬を()る。
 佐助がいて、晴れた夜にはいつもの場所へと連れて行ってもらうが、そうでなければ一日中何をするでもなく部屋にいる。色々のものを持ち込まれても、そのどれにも手が出ない。佐助は解っているかの様子で、次から次に持ち込むものを変えてくる。しかしやはり、の興味はどれにもなかった。
 ――富士の山だけが唯一記憶に残っているもので、その他(ほか)は、……どうだっていい。
 格子戸の向こうに立つ佐助の仮面はいつの間にか落ちていた。暗い中で瞬いた両の(まなこ)は、だけを見ている。ひたすら真ッ直ぐに。
 何かが、はじけた。
 ――違う!
「猿飛さん」
 声を掛けた途端、冷ややかで無感動な忍が現れる。
「なに」
 怖じ気づく我が身を叱咤して、細く小さく、震えそうになる声を振り絞って、訴える。
「生きるための(すべ)を教えてください。わたしは物じゃない、人です」
「……だから? 不自由なく生きてるだろ」
 が意志を持ったのが気に食わないのか、佐助は嘲り笑う。
「戻らない記憶ははじめからなかったのかもしれない……。今までもこうやって生きていたのかと考えたら、とてもこうしてはいられない気がして」
?」
 軽蔑が消えた。
「それに」
 ――いつもわたしの傍に在ったのは、覚えていたのは、富士の山ではなかった。
「猿飛さんのことも、解りたい」
 その時にほんの僅かだけ見えた佐助の表情は、これまでに一度として目にしたことのない、くしゃりとした泣き笑いに近いものだった。






 が、変わった。もうずっとなくしていた記憶の底から、佐助を見つけ出してくれた。それでもまだ、いつ時が遡ってしまうのか解らないのが怖ろしい。三日月に照らされていつもの場所へを連れて飛んで行く。空から見る景色はいつも変わらない。地に降り立って土を踏ませると、は瞼を上げる。
 稲刈りを終えて等間隔に株だけが並ぶ平野が広がっている。夜も赤い花が畦道を示すように列をなして咲いていた。すぐそばにある一群れに二人で近付く。色褪せかけた多くの花に交じった、まだ新しいものを手折(たお)ってやろうとして指先が花に触れた時、見ていたがくすぐったそうに声を上げて、――笑った。
 ――ああ、おわる。
 目と鼻の先に優美な稜線の中ほどまでを白くさせた富士の山があった。この冬はきっと厳しくても温かいだろう。









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2010/10/10
2010/10/11, 2011/01/29 訂正
タイトルと話中に使っておいてなんですが、……禅とは何ぞや。俗人の私には到底理解不能です。
切なく、だけどほんのりと光明が見えれば、とのことでしたので、それっぽく締めました。どういうこと? と思われたら辞書を引いてみてください。
よしわたり

簡単なメモ



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