「来ないな」
「来ないね。あー俺様幸せだわ」
「何を言うか。もし何かあったのだとしたらどうする」
「んなわけないでしょ。に限って」
「だが……」
「なーに旦那そんなに心配なら一人で様子見てきてよ」
「な、なな、何故俺一人が行かねばならぬのだ! ええい、考えても仕方ない! 行くぞ佐助ッ!」
「はいはーい時間切れ。チャイム鳴ったよ旦那」
「くっ、この幸村此度は不覚を取ったが次はこうはいかぬぞ!」
「やれやれ……」
高校に入って初めて平和な休み時間が過ごせた。クラスのあちこちから不思議そうな視線を向けられたが、これが普通だと叫びたいのをこらえる。こうしてだらだらと過ごすのが高校生の休み時間の正しいあり方だ。一時間前とは大違いの平穏に授業が始まっても頬は緩んだまま。
ぼうっと机に肘をついて締め切ったガラス窓から外を見る。体育の授業で走らされているクラスがいたが、何故か教師が交じって先頭を走っている。
――あ、最後尾で死にそうなやつ抜きやがった。おいおい倒れたぜ、そいつ。
くあ、とあくびをして数式の並ぶ黒板に目を向けた。背後でガリガリと書いてはゴシゴシと消しを繰り返す友人に後でノートを見せてやらなければ。見せてやるから、さすけぇ、と情けない声を出さないでほしい。先ほどの威勢のよさはどこへいってしまったのだ。了解、片手を小さく振ってペンを握り直した。
数学の授業が進むにつれてすっかり静かになっていた後ろの席。チャイムが鳴れば昼休みで、鳴り終わると同時にガタン、と立ち上がる音がした。
「よし! 昼飯にするぞ!」
「……旦那、俺様少し呆れてもいい?」
振り返ってみれば机の上のノートはよだれに湿り、額には真一文字の教科書の跡。赤い鉢巻をしなくても凛々しく見えるよ、と内心で嘆きながら大げさに溜息を吐いた。
「その前に先輩の教室を訪れるのだ、佐助。俺もついて行ってやるから謝ってこい」
「え、何、俺様が悪いことになってんの?」
「先輩が悪いはずがなかろう。きっとお前が何か機嫌を損ねるような事をしてしまったのだ。思い当たる節はないのか」
「ありすぎて困っちゃうんだけど」
物心ついてからこのカタ、あの鬱陶しいほどに弟ラブを公言して止まない姉が今さら何をしたところで怒るとは考えられない。押してダメなら引いてみろ、を実践しているに一票。実際に幸村が佐助の腕を抜けそうな勢いで引っつかんで教室を出てしまったのだから。
「ねー、俺様腹減ったから後でいいんじゃね」
「駄目だ。兄姉に気遣いの一つもできずしてどうする。無事であればそれでよし、何事かあったならば、」
「はいはい、もういいですって。旦那はお兄さんだからそう思うんだって。てかさ、はっきり言っちゃえば? に」
暑苦しく拳を握って力説するのに口を挟んで止めさせた。ずんずん廊下を歩く幸村の一歩後ろをだらだらついていく。好きです先輩、と幸村の声真似をした途端に瞬きをする暇もないほどの速度で振り返った幸村から握り拳が飛んできた。
「ッぶねー!」
「何を言うか佐助ェ!!」
間一髪避けられたがひやりとした。実は鼓動が乱れてもいるけど悟られたくないから、真っ赤になった幸村にニヤニヤと笑う。
「違うの? 早くしないと誰かに取られちゃうぜ。今は俺様に構ってきてるけど、恋したらそっちに行くもんだろ。フツー」
「せ、先輩に限って佐助以外の男に心を砕くなどありえぬ!」
「旦那ァ、それ自分も含まれるって気付いてないでしょ」
思いっきり溜息を吐いたところで目的地に到達してしまった。いつの間に階段上ったっけ。昼休みということで教室はざわめいている。開いている教室前方の扉から幸村がきょろきょろと中を覗いているが、よく目立つ明るい飴色がない。
――あ、マズイ。
「旦那、ま……」
「失礼いたす! 猿飛先輩はいらっしゃいますか!」
佐助が止めるより幸村が声を張る方が早かった。教室から廊下までの視線を一身に浴びて、姿が消せるもんなら消してしまいたいと思った。静かになった教室で、の友人の一人が手を振って佐助くんと真田くんだっけ、と笑顔で入口に歩いてきた。類は友を呼ぶというから、この状況下で平気な顔をしている可愛い部類に入るこの人もと同じかと考えると泣きたくなる。佐助の葛藤など余所に、幸村は彼女に向って礼儀正しくお辞儀をしていた。
「わざわざのご足労感謝いたします。それで、猿飛先輩がいらっしゃらないようですが」
「あの子ねー、体育の授業で張り切りすぎて今保健室なの。バドだったんだけどねー、すっごいの。シャトル見えなかったんだよー。それオデコに受けちゃって」
「ま、まことにございますか!」
「え、あの姉がそんなヘマしたんですか」
幸村は見事に取り乱し、佐助は心底驚いた。運動神経の良さは姉弟揃ってかなりのものだ。
小学校低学年のある日の放課後。ドッヂボールで遊んだ。三十分で敵味方がと佐助だけになり、さらに一時間、幸村を除く全員が帰ってしまって二時間、結局決着はつかなかった。ドッヂは内野だけでするものではない、と幸村が仲間に入れずにふて腐れていた。それからもと佐助は色々と常人離れしたことをしまくったのだが、それは置いておく。
びっくりしちゃったよー、と全くビックリしていない声で先輩は続ける。
「私たちだっておっどろいちゃった。はジャージの袖でぐいって血を拭って、勝負ついてないからまだやるって言ってたんだけど、血が止まらなかったからすぐ保健室送りになったよー」
「……バカな姉でホントすいません」
――なんで俺様が頭下げてんの! 全部のバカのせいだろ!
そうは思っても一応姉弟、それはそれこれはこれ、だ。ふと目に入った幸村の握った拳に力が入りつつある。今度こそ恥をかく前に退散退散っと。
「どーもありがとうございました。んじゃ保健室見てきます」
「みんな心配してるから無理しないでって言っておいてねー」
「はーい」
がっと幸村の頭を押さえつけて彼女に礼をしてから、くるりと踵を返した。向かうは保健室。教室に帰って昼飯を食べられるのはまだまだ先になりそうだ。
「俺が言った通りだったではないか」
「そーですねー」
「先輩のお顔に傷が残ったらどうするのだ。すぐに病院に行かれるように言え」
「旦那が言いなよ。『脳に大事あるやもしれませぬ! 某が病院にお連れいたします!』って。そんで脳みそ揺れてたりしてて、弟偏愛が治ってくれてたらもーバンバンザイ。親身になって看病してやってね」
くつくつと笑えば幸村ははっきりと怒りを顕わにして立ち止まった。移動教室に使われる教室が多い、保健室がある棟は昼休みになると人がほとんどいなくなる。今も廊下には二人以外の誰もいなかった。突き当りに保健室、の表示が見えた。
ぴりり、空気が震える。
「本心からそう思っているのか」
静かな声音に幸村が本気で怒っていることを知る。だから、へらりと口端を上げて笑ってみせた。
「思ってますよ。実は俺様、アイツとは縁切りたいと思ってんの。いっつもケンカしてるから仲がいいとでも? あっちはどうか知んないけど、こっちは本気で迷惑してるんだ。この年になってアレだぜ、姉と弟でデキちゃってるんじゃねーの、って陰で言われてるの旦那は知らないだろ。この際はっきり言うぜ。俺はが大っ嫌いだ」
胸ぐらを掴まれて、燃えるような幸村の瞳が近くなる。内面を射抜かれるような幸村の鋭い眼差しがどうしても苦手だった。さりげなく視線を外してリノリウムの床を見つめた。
「……ッ!! どれほど先輩がお前を心配しておられるか知らぬからそのような事を言えるのだ! この世のどこを探しても殿ほど佐助を案じている者はおらぬ! お前の言い分は殿に対する最低の冒涜と知れ!」
「――だってさ、『お姉ちゃん』」
幸村を通り越して、保健室の方へと視線を遣ってへらりと笑む。
開いた扉にもたれかかって一部始終を見ていた趣味の悪い姉は、くるりと大きな瞳を細めて佐助とよく似た笑顔を返してきた。ぎょっとなって佐助を放り出し、振り返った幸村は顔面蒼白になってぱくぱくと口を開閉させていた。かなりの見物だ。
は額に包帯を巻いた間抜けな姿で少し赤くなった頬に両手を当て、きゃあとわざとらしく喜んでいるけれど、多分本気で照れている。こっちだって十七年を無駄に過ごしてきたわけじゃない。
「幸村君がそんなに思ってくれているなんて! どうしよう佐助お姉ちゃん幸村君に恋しちゃいそう!」
「したらいいんじゃない? 俺様応援するぜ」
「本当!? 佐助がそう言ってくれるんなら頑張っちゃおうかな!」
ケガ人とは思えない元気良さで二人の許へ走ってきたが、これまで佐助に向けていたご自慢の笑顔を幸村に向ける。ぼんっと音が出るほどに真っ赤になった幸村はひどくどもりながらバタバタと両手を激しく振っている。首も取れるんじゃないの、コレ。
「せ、先輩、何を仰るのですか、お、俺、某、などお気になさら、ず……」
「どうして? 幸村君わたしのこと嫌い?」
「まま、まさか! そのようなことは決してありえませぬ!!」
「よかったー!」
「そ、それより先輩、お怪我は! ご友人が心配なさっておられました!」
「ん? どうってことないよ。体は丈夫だから。みんな心配しすぎなんだよ」
「しかし、万が一ということもありますし、」
幸村の隙をついてチラッと佐助に寄越されたの悪戯っぽい視線。くっと笑いたくなるのを必死でこらえて神妙な顔をして幸村の肩を叩いた。
「こう言ってるけど、旦那も知ってのとおりだから。早退届出しといてやっから病院連れてってくんない? なんかあったらさすがに俺様だって心が痛むしさ」
「さ、佐助、お前、謀ったな……!」
幸村の悔しそうな表情といったら。嬉しいのだろうが困惑しているし現状は理解できていそうにないし、いっそ泣いてしまいたいとでも言わんばかりの絶妙さだった。ニンマリと笑って幸村をの方へと突き出した。
「なーに言ってんの、念願叶ったりでしょ? むしろ感謝してほしいね」
「これから覚悟しててね幸村君! 佐助、お姉ちゃんのサポートしっかりね!」
「はいはーい。んじゃねー」
片手でしっかりと幸村の腕を握ったとハイタッチして、佐助は駆け出した。もう昼休みは十分しか残っていないから、早くしないと昼飯を食い逃す。背後から情けない、せんぱいぃさすけぇ、との声が聞こえたが無視無視。むしろの声の方がうるさい。
――これで俺様に平穏が訪れる……、わけないよなー。二人に挟まれて今まで以上に鬱陶しい事になりそー。
毎日の疲労と溜息を落とす癖は、もう一生治らないような気がした。
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2009/04/15
初めに謝らせていただきます。すいませんでした!!
もう言うことも何もございません……。華焼さまの素敵なお話の、IFということでお許しください。
2011/01/27
いつのだよ! という言葉は胸にしまっておいてください。どうして昔の話って意味もなく恥ずかしいのはなぜなんだぜ。
よしわたり