「伊達君」
どこからか名を呼ばれて政宗は辺りを見回す。
くすくすと笑う声があって、上だよ、と付け加えられた。校舎の二階のベランダに立つ制服姿の声の主を、剣道の防具を中途半端に着たままの政宗が見上げる。
「何してんだ、」
「部活に決まってる。吹奏楽だ」
ほら、と彼女が掲げて見せたのはシルバーの楽器だった。大事そうに抱えた楽器は大きすぎず小さくもなく、政宗が判る楽器ではなかった。
「なんだそれ」
「ユーフォニアムという。中低音のメロディーを預かる大切な楽器だ。知らないだろうね、私も君の技や防具の名前は一切知らない」
「Ha! なら聞かせてみせろ」
「偉そうに。聴き終わったら拍手を忘れるなよ」
椅子に座った彼女の姿は見えなくなった。代わりに不思議と柔らかな音色がメロディーを奏でていく。
だが、選曲はどうかと政宗は眉を寄せた。『夕焼けこやけ』はないだろう。クラシックを期待した自分が莫迦らしくなって水場の縁に腰を預けて目を閉じた。
政宗がと知り合ったのは高校二年の一学期だった。
転校生として来た彼女は、初めから舞台に立っているかのように「男」を演じていた。例えるならば歌舞伎の女形、宝塚の男役。だが、少女特有の未成熟な性が彼女を性別のない生き物のように見せていた。
その振る舞いから最初は女子の友人がいたようだったが、時と共に彼女は一人でいることが多くなっていった。話しかけられればきちんと返すし、笑い合っていることもあったが、それもそのうちに目に見えて減っていった。
嫌われているわけではないようなのに彼女が独りを選ぶ理由を、政宗は偶然に知ってしまった。
体調がすぐれないと言って保健室で転寝をしていた時に、慌てて保険医が生徒を引っ張って来て手当をし始めたのだ。
不可解なほどの保険医の取り乱しぶりにそっとカーテンの隙間から覗いた先に座っていたのは、だった。上半身を晒して傷の手当を受けている、その制服で隠れる部分には火傷や打撲、裂傷が生々しく残り、真新しいものもあった。女であるというのに一切柔らかさのない体は男のものと言われても疑問は感じなかった。
保険医の話を聞いたところによると、は母親との二人暮らし。母親の機嫌次第で娘は虐待と言える扱いを受けている。彼女は必要とされていない娘。母親に求められていたのは息子――彼女の兄だった。
だから男に振る舞い、体の傷を知られて友人に気遣いをさせないよう、ゆっくりと遠ざけていっていたのだった。
正常ならば女へと変容していくものが、強烈に抑圧された精神によって阻まれて身体の成長を異常にさせてしまったのだと保険医はを諭していたが、彼女は何も言わずにいた。手当を受け終えて礼を言った後で自嘲するよう、女になってしまえば殺されると判っていて女になれますか、と普段より一段と低い声で呟いた。
加えて、こうも言った。――そういうことだ、伊達君。
別に同情したわけでもなければ特別な感情を持っているわけでもない。
家庭環境の難しさゆえに政宗も独りを選びがちだった。時々サボりに行った先に先客がいると思えばだったり、放課後に政宗が資料室で眠っていたところに彼女がふらりと現れたりしたものの、お互いに独りのまま同じ空間にいるだけだった。それが、いつからか二人きりになった時はぽつりぽつりと話をするようになり、妙な同族感を覚えるようになった。
ある時、トントンと己の右目を指しながらは政宗に訊ねた。
「目玉はどうした? 食べたのか」
「What’s? なんでそんなことしなきゃなんねェ」
「三国時代、魏の武将夏侯惇の逸話があるじゃないか」
「Ah, get’. 残念ながら病気で失くしたんでな」
「そうか。目玉一つしか持っていかれなかったとは強いな、君の体は」
「充分だぜ。コイツのせいで酷い目にあってきたんだからな」
「それは失礼した」
「ま、どっちもどっちだろ。You see?」
「そうだね」
持っていかれた、との言い方をは好んだ。失くした、とは意地でも言いたくないようだった。人であれ物であれ、どこかに持っていかれたようだ、とケロリとして言いのける。最たるものが彼女の兄と、母親の心だった。
「半袖の制服はあまり好きではないな。腕が出てしまう」
「下に長袖のシャツ着てるじゃねェか」
「当然だ。見て気持ちのいいものではないだろ」
「――自傷は一つもないんだな」
「考えたこともないよ。これ以上持っていかれてはたまらない」
「アンタ、強ェな」
「まさか。強ければこうなる前に止められていた」
「終わっちまったことだろ」
「だから、これ以上持っていかれないようにしなければと思うんだ」
彼女が笑うことさえ少なくなってきたのはいつだっただろうか。その言葉を聞いた時にはもう笑顔も強張っていたように思えた。
その日を、政宗は忘れることができない。九月に入ってもまだ暑かった朝、けたたましいサイレンと共にパトカーが何台もどこかへ向かっていた。遅れてテレビ局の中継車、上空にはヘリコプターが飛び、何やら不穏な雰囲気を感じずにはいられなかった。
登校した学校は騒然としていた。職員室では会議が行われており、生徒は自習をして決して校舎から出ないようにときつく言われた。徐々に増えてくる校外のマスコミ関係者に学校関係で何かがあったのだと判らない者はいなかった。そしてそこに、の姿がなかった。
二時間目が始まる時刻になって全校生徒が体育館に集められた。そこで校長が口にしたのは、生徒の一人が殺人を犯して逮捕されたということだった。名前は言われなかったものの、誰であるかは明白だった。脚色されたストーリーをマスコミから伝えられないうちに事実だけを知らせた学校側の判断はある意味正しかったかも知れない。その事件の異常性が低ければ、の話だが。
彼女の言葉を借りれば、彼女はとうとう「自分の心を持っていかれて」しまったのだろうか。それとも心は無事だったのだろうか。――もう、知ることはかなわないが。
政宗は彼女の境遇を知っていた。何もできなかったのか、逆に何かできることはあったのかと自問を繰り返すばかりだった。
それを言えばきっと彼女は「無駄だよ、伊達君」と一蹴するだろう。それで終わり。思考を手放した。
連日新聞やテレビをにぎわせる女子高生の親殺しの報道のせいで、いつの間にか同じクラスの生徒でさえあることないこと言うようになった。上下級生や近隣住民の反応はもっとひどい。憐みから悪意まで、二人とその周囲に向けられる感情はさまざまだった。
バラエティのような報道は彼女が犯行に至るまでをストーリーに仕上げ、それが同情的なものであったために今度は母親についても語りはじめる。そして最後はお決まりの社会と政治の批判に終わる。事件から日にちが経つにつれて関心は薄れていき、大きなニュースが入って彼女のことはあっという間に忘れ去られた。いずれ誰の記憶からもすっぽり落ちて、一年後に突然「痛ましい事件がありました」と特集を組むのだろう。
日常に戻った。
が消えたことを除いて。学校には見事なくらいにが在籍していたことが痕跡一つ残っていなかった。
政宗は彼女にとって友人ではない。二人で話したのもたわいのないことばかりで、それを誰かに見られたり話したこともない。「彼女のクラスメートのうちの一人」でありつづけた。一部の彼女を慕っていた女子グループや正義感の強い男子組は署名活動だなんだと騒がしくしているが、政宗の周りは静かなものだった。きっと彼らもしばらくすれば自分たちの無力さに気付いて大人しくなるだろう。
放課後の人気が消えた教室で、数週間前は机があったはずの床を見下ろす。ワックスの剥げかけた板張りの床があるだけだ。
「後味悪ィな……」
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2009/11/23
2011/06/04 訂正
色気もないし誰にも救いもない話。
よしわたり