「好きです」と「死んでください」はセットなのだと、は二十年にも満たない人生で悟った。
というのも、今まさにそれを体験してきたからである。
――お腹、痛い……!
小さな折り畳みナイフだったとはいえ、とっさに避けて幸運にも真ん中を深々とではなかったとはいえ、腹部を刺されたのだ。初めはしくしくと痛むだけだったのが、その部分だけ高熱をもったようになり、心臓が動くたびにずきりずきりと鈍痛を訴えてくるようになった。あまりのことに気が動転し、ひたすら走り続けてどれくらい経ったのかも判らない。切れ切れになった呼吸、走ったせいだけではない汗、時々立ち止まっては身を潜めて辺りを窺う。
――どうして私がこんな目に……!
泣くよりも、腹部の傷さえなかったら大声で理不尽と喚いていただろうとは歯噛みして、ずるりずるりと道路に崩れていった。
を刺した相手は同じバイト先の年上の先輩。がひそかに好意を寄せていた人だった。
何回かバイト仲間で飲みに行ったりして、彼ともだいぶ打ち解けていた。二人きりで会おうよ、と今日呼び出されて浮かれながら待ち合わせ場所に行ったのだ。一通りデートを楽しんで、学生らしくチェーンの居酒屋で飲んで、それから、ちょっと歩こうか、とお決まりのデートスポットである丘の上の公園までとろとろと歩いて登っていった。他愛もない会話が楽しかった。酔っているのもあって少しテンションが上がっていたかもしれない。
見慣れた街の明かりも、彼と一緒に見ているといつもよりきれいに見えた。ふと視線を移した横顔もきれいで、慌てて街へ目を戻したりもした。そうやって少しして、真摯な瞳の彼と目が合った。
「、さん。――好きです」
ほんの少しはにかんだ彼の表情は初めて見るものだった。ほわ、と顔が赤くなってしまったは街灯の下だと判っていてもそんな姿を見られるのが恥ずかしくて俯いた。そしてそこで、不穏な光り物を目にすることになった。背を嫌な汗が伝う。そうと悟られないように、できる限り穏やかに微笑みながら再び顔を上げると、一歩近づいてきた彼は、にこりと笑ってこう言った。
「だから、死んでください」
――辻褄が合ってない!
ツッコミを入れる暇も余裕もなかった。伸ばされた腕に飛びずさっても、彼は何度でも突きを繰り出してきた。切りつけることはせずにひたすらに突いてくる。そんなチャチでオモチャの延長みたいなものじゃ人は殺せないと彼も判っているのか、滅多刺しにする気なのだとが理解した時、嫌な音がした。
服も着ていた、運動神経も悪くない。軽傷で済んでよかった。何故かすぐ、冷静にそう判断していた。
逃げようとか警察へ連絡しようとか、そういったことはすっぽりと頭から抜けてしまっていた。刺されて、それでもしばらく公園内を彼の凶刃から逃げ回って、その場から立ち去ることに思い至ったのは刺された部分を押さえた手に湿った感覚が伝わってからだった。それが衣服まで濡らしてきた血だと気付かないほどは愚かではない。じりじりと公園の入り口へとさりげなく移動し、彼の突きを誘って今度こそ避けきって勢いを殺せずにすっ転んだ彼を振り返ることもなく一目散に逃げ出した。
がむしゃらに、慣れない道を登ったり下りたり、ひたすら遠くへ逃げたかった。高校生の頃のマラソン大会では常に上位にいたから長距離走は得意なはずだった。怪我をしていなくて、――ダラダラとした日々を送っていさえしなければ。過去は済んだことだ、今はそれどころじゃない。必死に言い聞かせて走ってはみたけれど、もう限界だった。
カラカラ、と遠慮がちに窓の開く音がした。反射的には立ち上がって周囲を見回す。ずくりと痛んだ腹部は奥歯を噛みしめて必死でこらえた。一軒の、昭和の雰囲気のする平屋の和室から、縁側に身を乗り出して男女がを見ていた。
「あのさ、そこの怪我してるお嬢さん? 差し出がましいかもしれませんけど手当て、しましょうか?」
困惑気味に訊ねてくる男に対して女は溜息を落とし、逆光にもかかわらず強い眼差しと、それに似あわない優しい口調でに話しかけてきた。
「猿飛、そんな言い方では相手が警戒するだけだ。――何かあったのだろう? 詮索はしないから、傷の処置だけでも済ませないか?」
「見ず、知らずの人間を、家に上げるなんて、いいんですか」
立っているのも苦痛になって、顔を歪めたは地面に膝をつく。それでも警戒を解かないのはさっきの生々しい記憶があるからだった。悪くない関係だと思っていたのが一転、生死をさ迷わされることになろうとは、誰が予想するだろう。ああ、刺した彼は最初からそのつもりだったのかもしれない、と思考が飛び飛びになっていたところでの身は何者かによって持ち上げられた。
「う、わ」
「ごめん、痛かった? 左側は血が出てるけど、こっちは大丈夫そうだと思ったんだ」
「それ、以前に、離して、ください」
肩を貸すようにして右側からを支えてさっきの家へ向かう男に抵抗しようとは足を踏ん張る。が、徒労に終わった。傷が痛む。脂汗を浮かせるの額をロンTの袖で拭った男は、そう、とを抱き上げて部屋に上げると敷かれていた布団の上に横にした。
「無理しちゃダメだって。今かすが――あ、さっきの女の子ね、が色々用意してるから。応急処置で悪いけど」
今日のデートのためにと慣れないヒールの高いミュールを履いていたせいで、足もひどいことになっていた。それを少し痛ましげに見ながら脱がせてくれた男は、縁側の戸を閉めてカーテンを引いた。
「靴、玄関に置いておくね。大丈夫、隠したりしない」
睨んでいたのか、怯えていたのか、がどんな顔で男を見ていたのかは判らないが、男はへらりと笑って和室を出て行った。障子越しに何か話す声が聞こえて、入ってきたのは女の方だった。
「足も、ああ、酷いな。私はかすが。看護は専門ではないが、色々あって中の上程度にはできる。先に腹の傷を見よう」
口調はぶっきらぼうだけれど、声は、の顔を温かな濡れタオルで拭う手は、優しい。ようやく人心地つけたことに安堵して、は泣いた。
「お願い、します」
こうなって恥じらいもなにもあるものかと上の服を脱いで下着だけになってみると、腹の傷は浅くても5cmほど切り裂いたようになっていた。
「酷い……」
かすがが思わず呟いた言葉に、はその周りをなぞる。やたらと血流がよくなっているようで普段ではありえないくらい熱かった。傷を覆うかさぶたができかかっているけれど、まだズキズキと痛むそこからは新しい血が今にも出てきそうだった。
「少し痛むが、一度消毒をしなければ。耐えてくれるか?」
まるで自分の傷であるかのように眉を寄せるかすがに、乾いた唇を噛み締めてがこくりと頷いた。
「すまない。すぐに終わらせる」
言うが早いか、温タオルで傷周りを少々乱暴に拭き取り、また別の新しいもので丁寧にかさぶたをはがしていく。ぐう、と口から洩れそうになった悲鳴を呑み込んでは耐える。何枚もタオルを使って傷を晒すと、消毒液を浸したガーゼを手にしたかすがはを見る。次に来る痛みはこれまでの比ではないと判っているは、無言で頷いた。
冷やりとした感触と、一瞬遅れてくる激痛。
「う、ッ……!」
「すまない、すまない……!」
謝りながらも手早く傷を消毒するかすが。ペタリと消毒したガーゼを置くと傷がいっそう熱をもったようになる。白布でその上を覆い、テープで固定する。無意識にその上からかきむしろうとしたの手を抑えて、かすがは悲痛さの混じった声で言う。
「今は我慢しろ! 明朝、病院へ連れて行くから!」
「だって、痛くて! つらくて! なんで!? なんで私こんな目に合ってるの!?」
が、今まで我慢していたものが決壊した。わあわあと泣き叫ぶにどう接してよいか判らず、かすがは戸惑っていた。
そこへ断りもなく男が飛び込んできてにタオルケットを被せて声をくぐもらせた。
「猿飛! 何を……!」
「今はダメだ! この子の声が聞こえちまったら、この子、殺されちまうかもしれない!」
「はぁ!?」
「詳しい話は後でする! なんとか落ち着かせてくれよ」
頼むかすが、と言う男の焦った表情と片手に持ったケータイに渋々、了解した、と答えるかすが。その間もは泣き続けている。半眼で男を見上げたかすがは溜息を吐いた。
「……ひとまず、出ていけ」
「あ、ハイ……」
男がいなくなったのを確認してから、タオルケット越しにかすがはを抱きしめた。びくり、とはねる。
「なにか大変なことに巻き込まれているのだろうが、詮索はしない。疲れただろう、泣く気力があるなら休め。飲み物や食べ物が欲しければあいつに買いに行かせる。足もマメだらけじゃないか。さっさと済ませるから、今夜はゆっくりしていけ。親には私から電話を入れるから」
かすがの優しい声にの泣き声はだんだんと小さくなって、最後は嗚咽だけになった。かすがに遠慮してかタオルケットを握りしめて、は小さく謝った。
「ごめんなさい、迷惑かけちゃって……」
「いい、気にするな。迷惑はさっきの男とその連れの方がよほどかけているから、慣れたものだ」
疲れたように溜息を落としたかすがにくすくすと笑って、はタオルケットから顔を出した。涙で顔が荒れるぞ、と渡された濡れタオルはもう冷えてしまっていたけれど、かすがの優しさにまた少し、は涙が出た。
「包帯も巻いておこう。それと足を伸ばしてくれ。それが済んだら今日は終わりだ」
「本当にありがとう。かすがさん」
かすがはしっかりと、これでもかというほどにのお腹回りを包帯でぐるぐる巻きにした。そして両足の全部の指を丁寧に確かめて、水ぶくれができていたらつぶさないように、つぶれてしまっていたら消毒をきっちりして、傷の治りが早いのだというふしぎな形の絆創膏をペタリペタリと貼っていった。それが済むと2Lのスポーツドリンクとグラスをお盆に乗せて枕許に置き、の着替えを手伝ってから、そのまま寝ればいい、と言った。も疲れていたから言葉と厚意に甘えてそうさせてもらうことにした。
「本当に、ありがとうございます。あの、男の人にもお礼を言っておいてください」
布団に横になったままですみません、と言うに複雑そうに苦笑して、かすがは頷いた。
「判った。しっかり休め。おやすみ」
「おやすみなさい」
パチン、と電気を消したかすがが静かに障子を閉めて、はあくびもせずにスッと眠りに落ちていった。
「で、どういうことなんだ」
の眠っている居間から離れた部屋で、かすがと佐助は向かい合っていた。
「おーコワ。あの子にはあんなに優しい癖になーんで俺様にはそんな冷たいのよ」
「列挙してやろう。その一、」
「すいませんでした! なんかねー、二時間くらい前に丘の上公園でもめごとがあったらしい。近所の人が『いつもと同じでカップルのかわいらしいケンカか』と思いながらその下の道で犬の散歩してたら女の子がすごい勢いで走って行ったんだって。それを追って男の子も走って行ったんだけど、どうもその男の方、ナイフ持ってたみたいなんだよ。暗がりではっきりしなかったけど折り畳みナイフじゃないか、って。で、『ちょっとこれはいつものじゃないかも』って警察に通報したんだって。警察も一応現場は見たけど、『当人たちが見当たらないことには……。夜も遅いですし。周辺パトロールはしてみますねー』って感じでやる気なかった」
淡々と見てきたかのように話す佐助の前に手をかざし、少々疲れた表情でかすがは問う。
「待て。お前はどこからその情報を仕入れてきた」
「アハー、ちょうどミニパトが停まってたから訊いてきた」
「……呆れてものも言えないな。それがどうして殺されるなんて物騒なことになるんだ」
柳眉を寄せるかすがに、腕を組んで難しい顔をする佐助。二人の視線は図らずしも同じ方――の寝ている部屋、へと向いていた。
「そう、それ。あの子には後でちゃんと謝るけど、……ケータイと、手帳、見させてもらった。その男と思しき奴の名前とバイト先でちょーっとオトモダチに手伝ってもらったの」
「お前……!」
怒鳴りそうになったかすがにジェスチャで黙れと示すと、佐助は俯いてがりがりと頭をかいた。
「怒るのは判る。だけど、人が、女の子が腹刺されて倒れてるの見て何もしないなんてできないだろ? かすがは応急処置できるかもしれないけど、俺様は男だし。だけど、何か手掛かりになるようなものはないかって奔走した」
「それで、何が出た」
かすがの問い掛けにしばし無言だった佐助は、ゆっくりと首を横に振った。なにも、とポツリ呟かれた言葉が空しく落ちた。
「なのにあんなことを言ったのか」
「違う。なにも出なかったから、だ。俺様の勘はよく当たるって、かすがも知ってるだろ」
一段低くなったかすがの声に、佐助は顔を上げる。そこに笑みは浮かんでいない。はあ、と息を吐いたかすがが時計を見た。
「私も泊まるぞ」
「え、」
佐助が何かを言う前に、かすがはもう戸に手を掛けていた。
「お前の伝手を使って病院が開く前に電話をしておけ」
「えー……」
「決まりだ。車も出せ。私は明日、謙信様にご連絡する。武田の二人には連絡するな。面倒になる、煩い」
「かすが、すっげー暴言!」
ピシャリと閉められたガラス戸に遮られて、佐助の言葉がかすがの耳に届くことはなかった。実のところ、戸の開閉はあまり重要ではなかったのだが。
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2010/05/28
2011/12/03
よしわたり