かってうれしい はないちもんめ まけてくやしい はないちもんめ
たんす ながもち どのこがほしい どのこじゃわからん
あのこがほしい あのこじゃわからん
このこがほしい このこじゃわからん
そうだんしましょ そうしましょ
熱血で喧しいと評判の武田軍もかくやの蝉の声もひっそりと静まる夜。寝ずの番の他はほとんどの者が夢心地にあるだろう時間に灯火の見える部屋があった。ぼうとした灯りの下で髪をいじることでいらつきを抑えるように書き物に勤しむ男が一人。男が筆を置いたところに声が現れた。
「大将、お疲れさん」
天井からするりと身を下ろしてきたのは忍。大将と呼ばれた幸村は振り返って深く溜息を落とした。
「……まこと、一国を背負うというのは重いものだな」
「それでも、あんたにはやってもらわなきゃならないんだ」
「励ましの言葉を期待してぼやいたわけではないが、そうはっきりと言われると苦しいな」
苦笑に疲れた顔を歪ませた幸村を無表情に見上げ、控えた姿勢のまま佐助は硬質に告げる。
「悪い報せがある。領内で謀叛の動きあり。言い分はこうだ。『いくらお館様の信厚かれといえども年若い真田なんぞにこの甲斐武田が収まるべくもなし。早急に相応の者をお館様の跡目につけんと我らは立ち上がるなり』。兵の数は二百も満たないけど、一人厄介なのがいる。後ろでそいつらを煽っている連中は公家崩れの反真田一派で大したことはない」
「他国だけではなく、自国からもこの幸村の不相応に声を上げる者がいるのか。お館様ならばそのような不平不満も出なかったというのに」
自嘲で己を責める幸村に佐助は声を荒げる。
「いいか、大将! お館様が真田の旦那を大将に認めた! 他の連中に何を言われようとお館様の決定は絶対だ。あんたはもう武田の大将なんだってことをいい加減自覚してくれ」
懇願に近くなった佐助の言葉に、幸村は眉根を寄せてぎゅうと目を瞑る。己に言い聞かせるように呟いた。
「判っている、判っている……。某は甲斐国と武田軍を任された身。判っているとも……」
「悪い、大将。言いすぎた。俺様ちょーっと虫の居所が悪くってさ」
やはりこちらも疲れたふうな顔をして笑う佐助。いや、と首を振った幸村は多少さっぱりとした表情になっていた。
「お前がいればこそ、俺は迷いながらでも進めている。すまぬな」
「はっ、ありがたきお言葉。……ってそうじゃなくて! 俺様の話聞いてた!?」
拳をついて頭を垂れた佐助が、一瞬にして堅苦しい空気を払拭し、がばりと起き上がった。ぱちりと瞬いた幸村はぽんと問う。
「うむ、戦になりそうか?」
「ちゃんと聞いてんじゃない!」
「当たり前だ。それでどうなのだ」
「俺様なんでか知らないけど胃が痛い!」
「主の眠りを妨げておいて叫ぶとは何事だ。お前の体なんぞ影分身でいくらでも替えがきくのだろう? いいから早く言え」
「ほんっと俺様には横暴だよね! 他の奴らにはニッコニコしてるくせにさ! うわーんもうこんなとこ出て行ってやるー!」
幸村が無言で布団にもぐり込み始め、佐助は喚くのも泣き真似もピタリと止めて畏まった。
「これを引き金に他にも燻っている連中が出てこないとも限らない。今すぐにでも徹底的に潰しておいた方がいい」
佐助を見ぬまま、幸村は冷ややかに訊く。
「どれだけ掛かる」
佐助は愉快そうにその背へ答える。
「三日。明日には決起、明後日には上田城へ攻め入らせる」
「随分と早いな」
「まあね。ご丁寧に大手から攻めるご様子で。掲げてるもんからすれば当然だけど。将が二人。一人はどうでもいい。もう一人が騎兵。こいつが厄介」
しかめ面でパタパタと虫を追い払うようにしながら、厄介厄介と繰り返す佐助に幸村が視線を遣す。
「どう厄介なのだ」
少し考える素振りをした後、うたうように言った。
「武田が雄氏に名を連ね、駿馬を駆って戦場に、色付きますは紅の」
男ばかりで構成された軍に体格も体力も劣った女がいること自体稀であるというのに、諸国に名を響かせる武田騎馬軍にあって他の者に遅れを取らない女がいた。その紅一点を誰ともなしに、そう謳うようになった。
女の名は、といった。
ぽんと手を打った幸村が武士の顔になって喜ぶ。
「おお! 幾度か顔を合わせたことがある。武田の武士としての生き様に男も女もないと思うたは殿の……」
拳を握り締め、熱く語り出しそうな幸村の言葉に被せて、肩を竦めた佐助があっけらかんと言う。
「そのが騎馬隊五十を率いて突撃してくるよ」
「なんと! それはまことか!? 何故殿が!」
「まことに決まってんでしょーが。女の事情は色々複雑なの」
「はれんち!」
「どこが!」
女の事情、に反応してかポッと顔を赤らめた幸村に突っ込みを入れた佐助は、一つ大きく息を吐く。
「と、まあそんな具合。明朝軍議開いてぱぱっと防衛の陣敷いちゃって。歩兵のある程度はこっちで減らしておく。あー、でも、独眼竜じゃないけど、派手にやった方がいいかもね。奴らの大義名分を粉々に打ち砕いて武田の大将が誰か思い知らせてやんな」
にんまりと笑んで佐助が幸村を焚きつける。
「ならば俺が陣頭に立たねばな」
幸村の心底楽しげな笑みは武田の大将でも甲斐の若虎でもなく、戦場の只中にある紅蓮の鬼のものだった。おおこわ、と仰々しく怖気をみせながら佐助が釘を刺す。
「あ、でもの首は挙げないでよ。俺様に頂戴ね?」
「そういえばお前の気に入りであったな。あいわかった、出来る限り傷を付けぬよう心掛けよう」
「頼むぜ、大将」
ず、と足許から湧き上がった黒い靄に包まれて佐助の姿は消えた。すっかり気配が去ってからも幸村は佐助が居た場所を見つめていた。
「忍とは面倒くさいものだな、佐助」
続く言葉は声にならずに幸村の胸中にぽたりと落ちた。
――好いた女の手を自ら取ることもできぬとは。
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2010/08/11
よしわたり