佐助がいなくなった。
虫の知らせというものは実際にあるらしい。ここ数日、どう言ったらいいのか判らないような、変なもやもやした気分が晴れなかった。今朝起きた時にはそれがなくて、同時にいつもの物音もなくて、深呼吸をすると覚悟を決めて仕切り戸を引いた。
――最後に挨拶のひとつくらいしていってほしかったな。
「おはよう、佐助」
返事は、なかった。
ローテーブルに載ったままの赤い携帯、枕許に畳んで置いてある着替え、閉められたカーテン、敷かれたままの布団、――中身が溶け出したかのようにくしゃりと落ちているオリーブ色の浴衣。
静まり返ったリビングに人の気配はない。ぐっと唇を噛んでせり上がってくる熱い何かを我慢した。
「本当に違う世界の人だったんだね……」
布団の横にしゃがみ込んで、浴衣を畳む。佐助に教えてもらって、浴衣の手入れがそれなりにできるようになってきたのが嬉しかった。これは昨日洗ったばっかりだというのに点々と染みができてしまった。もう着る人もいないし、気合いを入れて洗濯をしよう。ついでに大掃除もしてしまおう。今日が休みで、本当によかった。
ぼろぼろと溢れてくる涙を止めるのは諦めた。気付けば緩い笑顔になっていて、今自分は悲しいのか辛いのか寂しいのか嬉しいのか、判らなくなってしまった。顔を洗ってこようと部屋を出る前に、一度振り返って佐助の定位置だったソファに向かって、できる限りの笑顔で明るく言った。
「帰れてよかったね」
閉じた瞼の裏に、背を向けたまま小さく手を振る佐助を見た。
急に始まった佐助との生活も、ゆっくり時間をかけて距離を縮めていったのだから、急に戻った一人の生活も、ゆっくり時間をかけて慣れればいい。
おそろしく前向きな考えの自分を、どこか離れたところからもう一人の自分が何も考えずに見ていて、ミニチュアみたいなそれを私が上から眺めているような、フワフワした不思議な感覚。小さい頃にさんざん泣きじゃくった後、ふと感じる虚脱に近かった。
「さよなら」
戻る
2009/08/22
よしわたり