五日ほど消息の知れなかった真田忍隊の長が大層疲弊した様子で帰ってきた。その者は戦忍としての腕のさるとこながら、主である真田幸村、さらには武田信玄までもが信頼する有能な忍であるから、使える忍はもちろん兵卒を動員してまで方々の草の根を分けるまで探したというのに、何の手がかりも掴めずにいた。そこへ突然帰ってきたのだから誰もが驚き、安堵した。
夜半であったために大きな騒ぎになることはなかったが、さわさわと人伝に広がる話は止められない。やれ神隠しにあっていただの、伝説の忍と一戦交えて命からがら退かざるをえなかっただの、一刻もしないうちに胡散臭い噂話がいくつも出来上がっていた。
それらの話を半信半疑に聞き流しながら、城内の警備に当たっていた。ふと背後に立った気配を仰げば上役の一人で、隊長がお前を呼んでいる、と有無を言わさず警備の任を解かれてしまった。反論しようにも隊長の命令であるなら従うほかない。顔のほとんどを隠していた布を解いて首に巻き直し、騒動の中心である場所へと向けて一歩跳躍した。
薬の匂い、温かな湯気をみせる粥、取り換えられていく水盥に手拭い、――全くしない血の匂い。この状況を見て異変に気付かぬほども愚かではない。幾つかの仮定を立てながらひっきりなしに下女が出入りする廊下に控えた。
「、参りました」
常ならば軽口かピリリと肌を裂くほどの気を発してくる、を呼んだ相手は、唸るように何事かを呟いた後、来いとだけ短く言った。入れ替わるように下女は皆出ていった。
半身を起した男はとても疲労の色濃い顔を隠す事もせず、それでも忍隊隊長の顔をしていた。既にその場にいた数名の忍の視線がパラパラとに向けられ、また戻る。ここにいるのは忍隊の中枢を担う者ばかりではないか、とは驚いた。そこに何故、がいるのか解らない。
「今回のことではお前達に迷惑を掛けた。すまない。旦那や忍隊には追って報告、説明する。まだ頭が巧く回らないんだ……。何がどうなったのか、さすがの俺様も人智を超えた現象に巻き込まれちゃ平静でいられなくなっちまってさ」
「神隠しというのは」
誰かが訊ねる。
「神隠しか……、そういう類のモンなんだろうな。ふと気付いたらこことは全く別の世界にいた。こっちじゃまだ十日しか経ってないんだろ? 神隠しにあった先では、一月は経ってた」
「伝説の忍との噂は」
「奴とはかすりもしなかった。北条は今、武田に敵意を抱いてない。安心しな」
しばらく問答が続き、そろそろ終わりかと思われた時、誰かが言った。
「何故、この場にを呼んだのです」
忍隊の中でも特に使い捨てとされる戦忍の斥候隊の一。それが。これまでは運よく生き残こることができただけで、次の戦の後に生きている保証は全くない。
思考の読めない瞳で忍の中の忍はを見つめる。瞬きさえ憚られ、無礼を承知でその双眸を見返した。ふい、と逸らされた時には詰めていた息を細く吐き出した。
「……二、三確かめたいことがある。神隠しがこいつの仕業じゃないことは解ってるんだけど、どうしても気になることがあってね」
に、と薄い唇を引いて言った忍達の長は、疲れに負けたのか横になると補佐の者に引き続き忍隊の統括を任せて、残りの者に退出を命じた。を残して。
誰もいなくなり、気配もすっかり遠ざかってから、その男――猿飛佐助は部屋の隅に控えているを枕許に呼び寄せた。真意が解らない。ただ、命じられるままには従うだけだ。
「悪いね。――ちょっと、佐助って呼んでみてくんない?」
「……は?」
いきなりの展開に反応が遅れてしまう。佐助は苦笑を浮かべたまま、それだけでいいから、と急かす。としても早く休んでもらいたいのだが、課せられた要求が不可解すぎる。眉を寄せたまま、佐助様、と口にした。
パチパチと瞬きをした佐助は自嘲するような溜息を落として、横目にを捉えた。
「やっぱ、違うか。もういいよ、下がって」
は、と頷いて顔を上げた一瞬、どこか、ここではない遠くを見ているような、佐助を見てしまった。気の迷いだったのだろう。
「……佐助」
「え……」
口をついて出た声はまるで他人のもののようで、目を見開いた佐助は忍ではないようで、は得体のしれない恐怖を抱えたまま逃げるしかできなかった。
それから数日して、は突然解雇の命を受けた。異を訴えても隊長の一存だから変えられないと言われ、さらには監視付きの軟禁生活を送ることになってしまった。
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2010/12/02
よしわたり