穏やかな日差しも快い、信濃は上田城の三の
「もうやだもうやだもうやだ!」
「うっわーサイテー。仮にもここは上田の城内だってのに怖い怖い」
「ぎゃあ!」
叫んだ途端に姿のない声がして娘は飛び上がった。
「さすがは落ちこぼれ、反応が違うねー。俺様任務で出るから後よろしく」
くくくっと響く男の声に娘は反射的にハイッと返事をする。声の出所が判らないのか、視線はきょろきょろとさ迷っている。物音ひとつしなくなってからも半刻は周囲を窺うようにしていたが、すっかり男がいなくなったと心を安らげてから娘はがっくり肩を落とした。
「また出た……」
威勢の良かった足取りは今にも風に吹き散らされてしまいそうな柳の枝の如くふらふらと覚束無かった。風は全く吹いていない。
遠く小さく、今し方出て行った忍の名を呼ばわる若武者の声が止まない。手際よく裾を袴に仕舞い込んで草履を突っ掛けて庭に下りると、娘は屋根に跳び上がった。
「もうやだ」
ぐずりとこぼした愚痴だけを残して娘は忍のように走り去った。
緑濃く生い茂った落葉樹林の中は晴天でも薄暗く影を落としていた。
チリ、と空気が変わった刹那、宙に火花が飛んで柔らかな黒土に苦無が突き刺さる。音もなく、一定の距離を置いて佐助とかすがが姿を現した。
「おっ、かすがじゃん。相変わらずいい女なことで」
大手裏剣を回しながら緊張の欠片もなく、今日も天気がいいですね、と同じ気安さで発せられた佐助の言葉に、かすがは無言で苦無を飛ばした。
「うおっ危ねー! 俺様刺さるかと思った! 今!」
大仰に跳ねながらニヤニヤと笑む佐助があまりにも相手にして欲しそうだったからと、自分で自分に言い訳をしてから、かすがは大袈裟に溜息を吐いた。
「いっそ刺さって私の前から消えてくれ。何をしている」
「ヤだよ俺様かすがに会えなくなるの」
「何をしているのかと聞いている」
「同業じゃん察してよ。いやーでもまさか上杉が
「それ以上軽口を叩くなら縫い合わせてやる」
「おー怖ッ。はいはい嘘です、これでいい?」
浮かべた笑みは引かないままへらへらへらへらと喋り続ける佐助に、短めな堪忍袋の緒が切れたのか。黙って両手に苦無を構えるかすが。
「密儀! 闇消!」
佐助に向って縦横に放たれた糸は逃げ損ねた体を絡めた――、はずだったがそれが消える前にかすがは頭上の枝に跳び移る。一拍置いてずるりと地中から湧いて出た佐助にまた容赦なく苦無が向けられた。あっさり鉤爪が受け止める。
「かすがってばどーしてそんなにつれないのかね」
「自分の胸に手を当てて考えろ。いい加減用件を言え」
「アハー、心当たりが多すぎてなんとも。用件はな……いや、あるある! うん、えーっと、なんだったっけなー。あ、そうそう。昔里に居た頃死んだと思ってた奴、それがものすごい落ちこぼれだったんだけど、なんと武家の娘になってんの。行儀見習いで城に上がってて驚いちまった」
用件はないと言い掛けた佐助が二本目の苦無を叩き落としながら話を続ける。
「始末したのか?」
「してないしてない。今は真田の家臣の一人娘なんで、
「ふん、情けないヤツだな」
「だから落ちこぼれて捨てられたんだって。拾われなかったら他のと同じように死んでただろ」
「佐助ー! さーすーけーーッ!」
片手を口許に当てて叫び歩く幸村の傍に枝をしならせて娘が降り立った。娘は膝をついて一礼すると面を上げて微笑む。
「真田さま、猿飛さまは任務に出られております。御用でしたらこのがお聞きいたします」
「だいぶ呼んでも出て来ぬものだから薄々そのような気はしておった。すまぬ、少し楽しくなってしまって」
にかりと人好きのする笑顔を浮かべて幸村が頬をかいて、と名乗った娘は僅かに眉を寄せて微笑みを曇らせた。
「楽しいからといってこのようなことをなされては、よろしくありませぬ」
「弁えている。は近頃とみに口煩ささが佐助に似てきたな」
「……判っておられるのでしたらお止めくださいませ」
の愛想のよい表情は疾うに消え失せていた。含みがちに見下ろす幸村にげんなりとが応じると、懐から取り出した掌小ほどの布包みを渡す。恭しく両手で受け取ったはそれを袂に入れた。
中身は小銭、時刻は午に入ったばかり。佐助の不在にが幸村から言いつかる仕事ではこれが最も重要で、回数が多い。今ではこうして身分の上下なく気安く接しているが、本来ならばいち女房のが城主の幸村と顔を合わせる事さえあり得ない。それもこれもと佐助に奇妙な縁があったため、の境遇が少々特異なものだったためなどいろいろあるが、結局のところ幸村と佐助がおもしろがったためというのが現状の最大の原因だった。
「団子でございますね? 行って参りますから、八つ時にお持ちいたします」
「頼む。そうだ、佐助が居らぬのなら某が茶をたてよう」
「もったいのうございますが、以前お咎めをうけましたのでお心だけいただきまする」
「その件では佐助を叱っておいた。甘味を一人で食べるのはいささか味気ないだろう。誰ぞ気心の知れた者がおるならば、なにも一人で八つを取ることもない。それに
幸村がへ教えを説くかの如くに言い聞かせる。そうでございましたか、と納得しているのか感心しているのかよく判らない表情をして頷く。
「それに、佐助を付き合わせることが多いせいで、いい加減あやつの顔は飽きてしまった」
あっけらかんと言い放った幸村に、はそうでございますかと頷くだけだった。論点が随分ずれている気がしないでもないが幸村は城主。奉公する者にとっては幸村が白といえば黒でも白なのだ。つまり佐助が何を言おうと、幸村が同席しろと言えばはそうする他ないのである。
「仰せのままに。では、どちらへお持ちいたしましょう?」
「次の間を仕度しておいてくれ。他の者に何か言われるようであれば幸村が言付けだと」
「そのように。それでは行って参ります」
ざっと辺りを見回して内塀のすぐ傍らの植樹に跳び移ったは門を通る気などさらさらないのか、それに対して幸村が止める様子もない。佐助がそうするようにも城内の建物の屋根を走り城牆を伝って城下へ最短の道を取る。武家の娘とはいえ忍の足だけはあるだからこそ真似できたのだった。
「頼んだぞ」
年の割に幼く見えがちな幸村の顔立ちは、力強い眼差しと引き結ばれた口許が年相応に見せている。槍こそ手にしていないものの、赤の上着に草摺り、白地に炎を描く袴ですっと立っているその姿は真田幸村その人の本質をまさに現しているかのようだった。
それが八つ時の甘味を買いに行かせるのでなければ。
事は二年前に遡る。
礼儀作法を学び学問稽古に励んでいたは、どこに出しても恥ずかしくない立派な武家の娘だといえた。年も十六、嫁入りの話が出てもよいものだったが何件か当たってみても梨の礫。
が城に上がったのはその頃で、多少嫁入りが遅れても行儀見習いに出ていたとすれば深く問われることもないだろうと踏んでのことだった。
器量よしで何事もそつ無く気配りもできて人当たりの柔らかい――少し誇張しているところは否めないが、そんな娘であるというのに縁談がないのはひとえに、がの実子ではなく素性の知れない継子であったからだった。
それよりさらに時を戻る。は真田に仕える家臣の一だが、農民が幾分身形を正した程度の下っ端武家であった。加えて不運な事に子を授からず養子を亡くし、次代の望みを絶たれた当代とその妻は酷い沈痛の中にあった。
ある時、当主が瀕死の幼子を連れてきて、快癒した時にその子を継子にすると言いだした。だが、幼児の傷病は生きているのが驚異としかいえずに助かる見込みは限りなく低いこと、また何処の誰の子であるかも明らかではない卑しいものを下人ではなくの子に迎えるということで、彼は周囲から散々にこきおろされた。それでも彼と妻は意識のない幼児を献身的に看護した。三日三晩にわたって施された手厚い治療が功を奏してか幼児の生命力が並よりあったのか、奇跡としか思われない早さでその子は意識を取り戻した。
ところが何を思ってか、幼児は碌に動けない体で二人に噛みつこうとしたのだった。体を動かせば激痛が走るはずなのに全く素振りを見せもしないで、休まされていた部屋で暴れ外へ飛び出し、獣が唸るような声を上げると徒手空拳の構えを取って敵意を剥き出しにしていた。骨と皮だけの痩せこけたちっぽけな体、かさかさで色味の悪い肌、大小深浅様々な体中の傷、それが開いて新しく流れ出した血。そんな姿をしていてなお、落ち窪んだ眼窩からぎょろりと覗く瞳はギラギラと鋭い。
まさに、子供の
どれほど虚勢を張ったとしても直前まで生死の境をさ迷う重傷を負っていた体までは騙し切れなかった。失血と熱に息を荒げて蹲りながらも幼子の瞳には強い敵意を拒絶が浮かんで二人を見ていた。私たちは敵ではない、そのままでは死んでしまう、助けるだけで決して傷付けはしない、信じてほしい。二人が何度も何度も根気強く訴えて幼児の意識が再び途切れようとした時、ようやく助けを求めたのだった。生きたいと。
「他の子は皆できているというのに、お前はこんな簡単なことさえできんのか」
「足が速いだけなら犬で良い。身が軽いだけなら猿で良い。頭が悪く力もない分、畜生にも劣る」
「胴の上に乗ってふらふらしているものは飾りか空か。使えぬ頭など捨ててきてしまえ」
怒られ叱られ責められなじられ誹られ、それ以外の言葉をは聞いた事がなかった。大人ができの悪いをそう扱うのを見れば、周りの子供も同じようにを蔑むようになる。同じ年の頃の子供と一緒にいることも話をすることもなくなって、呆れた大人が年長の子供にの世話をさせるようにすればさらに疎まれていった。
「どうしてお前の面倒を俺が見なくちゃなんないか判る? 何にも覚えないお前に教えることはもうないからだよ、落ちこぼれ」
「お前は忍になれない。術が使えない武器も使えない。死にたくなければ少しは役に立つようになってみせろ」
成長の見込みのないを世話したがる者はいなかった。にこやかに先行きがないと言い切り苛立たしげに何も出来ない事を咎める。次第に死の影が色濃くなってきつつあったある時、は一人の戦忍に連れられて里を出た。
穀潰しにしかならないをわざわざ連れ出した理由は明白だった。戦の只中に置き去りにされたに向けられるのは敵意と罵声と刃しかなく、目を血走らせ手に手に槍や刀を持った人間達から逃げ惑いながら、死なせるために捨てられたのだと理解するのにそう長くはかからなかった。忍になれないものは殺されてしかるべきだと思う一方で、生への衝動がのたうつようにの胸裡を去来した。
振りかぶられた白刃を目にして溢れた激情に身を任せ、飛び付いた相手の首を捻ったのは、出来損ないでも忍であった。
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2012/04/11
よしわたり