突然、夢を見なくなった。
 あの幸せな世界に紛れて、あの子と穏やかに話す。それだけの夢。

 はっと目覚めた。
「……おはよ、う」
 真っ暗な中、恐る恐る呼び掛けたところで返事があるはずもない。ここは任務に出た先で仮眠を取っている大木の枝の上で、俺はしっかりと武装している。四半刻も寝ていないとすぐに覚る鋭敏な戦忍の感覚。間違えようもない、こちらの自分だ。
 これまでならどれほど短くても一度眠ればあちらで目覚めたのに、いきなりどうしたのだろうか。考えてどうにかなるものでもないが、考えずにはいられない。じわり、滅多にかかない汗が滲んだ気がした。

 任務を滞りなく終えて戻り、報告に行った先で大将にも旦那にも同じことを言われた。曰く、狐に化かされでもしたのか。似たようなもんですよ、とはぐらかしてその場は濁して終わった。知らぬ間に気を散じてしまっていたらしい。そんなつもりは毛ほどもなかったが、思った以上に衝撃を受けているようだ。人伝に旦那から今日は休めと言われ、返す言葉もなかった。
 目覚めてからずっと、いるはずのないあの子の姿を探していたせいで、ひどく疲れ果てていた。
 狭く埃臭い自分の部屋を引っかき回して薬を探した。丸薬を噛み砕きながら水で流しこんで飲み干す。急激に目眩が襲って、よろけた体は崩れ落ちた。いくらあがいても体は思うように動かない。呂律の回らない舌で、必死に言葉を紡いだ。
「たの、む、ぜ……」

 次に目覚めたのはやはり、雑然とした自室の床の上だった。ぎりぎりと痛む頭を押さえ、吐き気を耐えながら胡坐をかいて座り込んだ。
「あー……、やっぱりもうダメか……」
 自嘲の笑みが浮かんだ。おのれに言い聞かせるように呟いた言葉がやけに白々しく聞こえる。目を閉じれば、あの子がよく見せていた困ったような笑顔が鮮やかに思い出せる。佐助と呼ぶ声もしっかり耳に残っている。
 そして、気付く。
 ――あの子の名前、呼ばずじまいになっちまった。


 遥か海原の向こうには、常世の国があるという。
 信じるわけではないが、あの幸せな夢は、常世のものとしてすべて忘れてしまうことにした。笹の葉で小舟を作って川に浮かべる。沈んだとしても朽ち果ててしまうころには見知らぬ海のどこかに行っているだろう。滑らかに水面を下っていく小舟に、忘れ物とばかり声を掛けた。
「さよなら。――
 初めて声に出したあの子の名前は、胸を抉るような響きをしていた。









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2009/08/22
2009/10/05 訂正
よしわたり



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