金管は、パート練習がまともにできた事がありません。
そのせいでいつも指揮者とコンマスに怖ろしい眼力で睨まれます。私は金管パート担当の裏方なのですが、睨まれるたびに直角の勢いで頭を下げて謝り続けます。が、当の奏者たちはまーったくそれを意に介してないようで……。
いくつか例を挙げましょう。お判りいただければいいのですが……。
心労は溜まる一方です。そろそろ胃に穴が開きそうな私を誰も気遣ってはくれません。メンバーは個性に溢れすぎていて裏方にまで気を使ってくださるような方はいませんし、他のパート担当者からも生温い視線と合奏で会った時に手渡される栄養ドリンクくらいしかもらったことがありません。
ああ、また呼び出しの電話が掛かってきています。泣いても、いいですか……。
ケース1：熱血師弟の場合
「遅れて申し訳ござらぬぁあああああ！！！」
「練習中じゃ静かにせい幸村ぁあああああ！！」
どーん、とものすごい音を立てて飛び込んできたのは真っ赤な人間が二人。訂正。飛んでいったのが一人、殴り飛ばしたのが一人。楽器は律義に床に置かれているので無事です。
「遅れて済まぬな。む、また終わっておるのか」
殴った方の大きい赤い人が肩を落とします。壁とこんにちはしていた元気な赤い人がしゅたっと戻ってきてべこりと頭を下げました。無傷です。
「申し訳ござらぬ！」
「いえ……。来週も同じ時間なので、遅れないでくださいね」
「うむ！」
「相判った！」
返事だけはいつも一人前以上です。
ケース2：自称最強の場合
「これ何て読むんだ？」
「おまはん、そりゃあフェルマータっちゅうてな……」
巨体を縮めて隣の若者と楽譜をさらえる初老の男が見えました。……大人しく若者が話を聞いてくれればいいのですが。
「はっはーんそうだと思ったぜ！ おれさまがわかんねーわけねーだろ！」
「がっはっは！ 武蔵どんはビッグマウスじゃのう！」
「おれさまビッグマウス！」
「がはは！」
楽譜が読めないなら読めないと言ってもらいたい。が、天性の才能というのか野生の勘というのか、読めないままでも少し練習すれば全く問題なく演奏できるのだから、彼にとって楽譜はあってないようなものかもしれません。
ただし、頭の中身はどこへ忘れてきたのか酷いことになっているせいで、彼のいる金管はいつも指揮者とコンマスに睨まれます。
ケース3：お偉いさんたちの場合
平日の練習時間は大体、社会人の方が仕事を終えて集まれるよう、19時頃からになっています。二時間で練習室を借りているのですが、時々それよりも早く終わってしまうことがあるのです。
通し練習を何度かして、問題のある箇所を指摘している時でした。はっと時計を見た、本願寺さんが慌てて立ち上がりました。
「拙僧はこれから檀家へ金、いや、法要をしてやってこねばならん！ 遅れては金、先方に申し訳が立たぬからな、先に帰らせてもらうぞ！」
はっきりと金と言いきってから言いなおすあたり、完全に金の亡者です。楽器を片付けるとそそくさと去って行った生臭坊主。それを見たザビーさんもきょろきょろし始めました。つるつるの頭に蛍光灯の光が反射して眩しいです。
「オー！ ワタシも『ザビーの部屋』のロクガがあるのデシタ！ マタ来週〜！」
音の外れた鼻歌を歌いながら、怪しげな宗教の自称教主は帰ってしまいました。多少他のメンバーに影響がないわけでもないのですが、指揮者が恐ろしいので大人しくしているそうです。それでも楽器を吹かせれば一流なのですから、人は判らないものです。
「そろそろ政宗様をお迎えにあがらねばならねえ。悪いが俺も失礼する」
腕時計をちらりと見ると、こちらが返事をする前にさっさと片付けを済ませて出て行った強面の男。マルボウの人に見えますが、カタギです。しかもいいところの坊ちゃんでコンマスの従者（今時！）です。だからノーと言えません。
さて、残ったのは宮本君と島津さん、豊臣さんです。今週も熱血師弟は遅刻ですね。
来週の合奏は待ってくれません。またあの石化光線を直に受けるのは何としても避けたい私は、三人しかいなくてもスコアを閉じたりはしません。再びタクトを持ったところで、ピリリ、と携帯が鳴って豊臣さんがおもむろに電話に出ました。
「すぐに会社に戻らねばならぬ。来週までに個人練習はしておく、案ずるな」
通話を終えると普段の険しい表情をさらに険しくさせて、豊臣さんが帰り支度を始めます。多分電話の相手は彼の右腕と名高い竹中さんだったのでしょう。扉を破壊する勢いで出ていきました。
「もう練習終わろうぜ！ おれさまやる気ねー！」
「みーんな帰りもした。武田どんも真田どんも来んのでは練習にならんど。終りにせんね」
椅子にだらけてしまった宮本君と、呆れ調子の島津さんと。時計はまだ20時を回ったばかりですが、熱血師弟が来る気配もありません。
私も、タクトを置いてスコアを閉じました。
「解散です。明日夜までに、今日気になったところをお知らせしますので、各自で練習してくださいね」
それだけ言うのが、やっとでした。今日も胃が痛いです。
戻る
2009/11/17
よしわたり
→引き出しを少し