じゅくじゅく、李は青年が握った手の中で潰れる。甘い汁を溢れさせ。潰れた果実を道端に放り投げ、掌に溢れた果汁をぺろりと舐める。
――甘くて美味いけど、気持ち悪い。
すん、と嗅いだ水の匂いに湧水を見つけ、さっさと手を洗う。甘い、甘い果実は女の好むものだ。団子の好きな武将がいるけれども、彼は例外だろう。一杯に李を入れた籠を手に、旅装束の青年は赤茶の髪を風に流しながら街道を歩いていた。
風がよく通り、日当たりもよい市井の端にこじんまりと立つ長屋の内の一軒。住んでいるのは壮年の夫婦と、戦乱で命を落とした遠縁から引き取った若い女が一人。親族を失った女に用があってこの家を訪れる者はほとんどいない。
女は夫婦に預けられたと偽っていたが、まさか真実ではない。実際の所、そもそも太陽の下で生きている者ではなかった。
「どーも、お邪魔しますよー」
がらり、と表に面した土間の扉を引き開けて、笠を外した赤茶の髪も鮮やかな青年が顔を出した。夫が出掛けていたため、妻が彼を迎える。軽く頭を下げると、瞳を奥へと揺らして青年に微笑みかけた。
「いらっしゃいませ。……も今日は調子がよいようで、奥の間で起きておられます」
「ホント? よかった、李が手に入ったから持ってきたんだけど。食べられそうかな」
「ええ、今朝は食事もしっかり取られたので。洗ってまいりましょうか?」
「ん、洗ってある。――すまないね、アレ押し付けて」
すう、と青年の声が低くなり、家を預かる妻もそれに従うように声量を落とした。
「いいえ、私どもは長の命には従います。それに、戦忍としてしか生きてこなかった娘が、この若さで不治の病魔に冒されるなど、考えただけでも」
「ありがとさん。あんたら夫婦は諜報に長けているからな。市井にも馴染んでるし、ホント助かってる。戦に出られなくなったアレを館に置いておく訳にもな」
「通り名は耳にした事がございます。長が従えたと聞いたときには随分と驚いたものですが……。引き取ってみればよく出来た娘御だとまた驚かされました」
「それは俺じゃなくて、アレが幼い時から仕えていた前の主の賜物だ。俺はアレを酷使して病床に伏せさせただけ、――ってな。ホントあんたは性質が悪い。俺にさえ喋らせるんだもんな」
あーあ、と青年は始めの軽い口調に戻り、へら、と笑った。それに応じるように妻は所作も美しく立礼をした。
「ふふふ、それが私の技でございますから。どうぞ奥へ。何かありましたらお呼びください」
「ああ」
片手に李の入った籠を下げた青年は苦笑しながら、草履を脱いで板間に上がる。女はもう一度腰を折ると、彼が入ってきたのとは反対の引き戸から庭へ出て行った。
さして広くも無い家だ。来客があったこと、それが主であることは、奥の間で窓の傍に寄りかかって座っていた若い女も気付いていた。軽く咳き込んで、薄い掛け布を胸元まで引き上げると同時に、青年によって襖が開かれた。女が明るい窓からの陽光に陰を落とした顔を、彼に向ける。
「見苦しい姿で申し訳ございません、猿飛様」
無理に体を動かせば、酷く咳が出る。できるだけ丁寧に、座っていた女は来客に頭を垂れた。来客の青年は猿飛佐助、真田隊の長、そしてこの女の主だった。
「いい、苦しいんだろ。楽にしてな、」
、と呼ばれた若い女は少しだけ居住まいを正して、こほこほと咳をすると壁を背に、佐助に体を向けて目礼した。
「ありがたきお言葉。それではこのままで失礼を」
「……李、好きだったろ。丁度いいのが手に入ったから持ってきた。滋養のあるものじゃなくて悪いけどね」
言いながら、女の前に胡座をかいた佐助は手にしていた籠を指して薄く笑った。以前より覇気のなくなった笑みを返して、が幸せそうに礼を述べる。
「覚えていてくださったのですか。一度、口にしただけですのに」
「あのね、忍を何だと思ってんの? アンタだって同じだろ」
「そうでした。では、ありがたく頂戴いたします」
「少し、熟れ過ぎてるのがあるかもしれない。手や口を汚さないようにしなよ」
一人で片付けをするのは難しいかもしれない、と何気なく言った佐助に、はひとつふたつ、瞬いた。
「……私が病に伏してから、猿飛様はお優しくなられました。――二度と使い物にならぬ戦忍ですのに」
「静養してたら回復するかもしれない」
黒い瞳を隠すように、が瞼を伏せる。日陰に入っているその表情には悲しみが、ふと乗せられていた。
「医者も匙を投げました。幸いにして私は忍の体、多少強くはありますがそれももう衰えてきております。ですが、猿飛様がお見捨てくださらない為に私は病に打ち勝ちたいと望んでしまうのです。戦場に立ち、武田に真田・猿飛ありと言われる陰でお二人をお助けしとうございます。……いつか、治りますか」
助からない身と判っていながら、縋るように佐助を見上げる。戦忍をしていた頃よりも衰えた細い腕を痛ましげに見ながらも、佐助はそれを表情に出す事はなかった。膝に肘を付け手の甲に顎を乗せて、にいい、と薄く笑う。
「アンタが心底望むなら万が一、ってこともあるさ。その意志を見込んで俺様の手駒にしたんだ。この程度で、たかが病気で死んでもらっちゃ困るんだよねえ」
「病に死にはしませぬ、猿飛様が望まれるのであれば」
主の命には絶対服従。そう仕込んだ駒は、覇気を取り戻した双眸をし、握った右手を左手で包む動きをした。けほ、と咳き込みかけて、苦しげに飲み込んだ。
「だったら早く治してくんない? アンタの抜けた穴、大きいんだよ。忍隊じゃなくて俺の駒だから替えが効かないの。――で、病状は」
「咳が止まりません。時折、酷く咳き込む時があり、僅かですが吐血も。肺の病、と医者は言っておりましたが」
「……町医者はそう言うだろ。いつだったか戦場
咳を抑えて苦しげにしながらも、はきっちりと佐助に対して応答する。それが仇となるとは、その時は思いもしなかった。
「私の先行を猿飛様がお許しくださり、他の方々を留めていてくださった為に犠牲は私のみで済みました。幼少よりの忍故に耐性はあると思っていたのですが」
「全身に毒が回ってから病と同じ症状を出すとはな。製造法については口を割らずに解毒薬もなし。あーあ、俺様たちが何も出来ずに有能な戦忍が毒に衰えていくのを見るのは嫌だねえ」
「いえ、必ず回復しましょう。猿飛様がこれほどまでによくして下さるのですから」
何度か大きく呼吸をして、必死に咳をしないようにしているのが手に取るように判る。は主の佐助の言には何があろうと逆らわない。叛意を匂わせた事もない。金で雇う忍ではなく、何かを代償に縛り付けた駒とはかくも忠実で優秀なのだろうか。そうではないだろう、この女忍を育てた者によっては忠節を重んじて主の思うままに働くのだ。
痛ましいと思いこそすれ、それをに言うのは筋違いだと佐助も理解している。
「そうだといいんだけどねえ。旦那も気に掛けてる。もう随分前に忍姿と女中姿で一回話しただけなのにな。いつもはすぐ破廉恥、って言うくせに、俺にはを大事にせよ、なんて言ってくれちゃってさ」
佐助の言う旦那、つまり真田幸村もこの弱った忍の回復を望み、絶望的だと判っていてもどうにかならないものか、と足掻く一人だった。
「真田様もお気遣いくださっておられるのですか。ひとつの戦忍ですのに」
「そのひとつの忍が、そこそこ名も通っている、俺様の秘蔵の駒、とあれば旦那も気に掛けて当然。何度武田についた忍として戦に出た? どれだけアンタが働いた? それを認めてるの、旦那はね。――時々、羨ましくなるよ」
「真田様が、ですか」
「ま、ね。旦那は思っている事をすぱっと言える人だからさ。俺は忍だから、そうは出来ない。こうして、アンタの好きな李を持ってきてやるだけだ」
「……いいえ、猿飛様は本当に私によくして下さっております。こうしてご夫婦の許で養生できておりますのも、忙しい中を縫って私に会いに来てくださるのも、猿飛様の優しさでございます。そうして、私の好物をお持ちくださいますのも」
苦しげに眉根を寄せながら、は微笑んだが、それは病人の顔だった。
「ホント、その姿は戦忍とは思えないね。――っと。時間だ」
ふ、と息を吐いて佐助が感情なく言うと、窓から太陽を見上げて時を読んだ。
「はい。この度はご訪問と、李をありがとうございます。……それでは、猿飛様。またいずれ」
「はは、治して館に戻って来てくれるのが一番望ましいんだけど。仕方ないか。じゃあな、」
「お気をつけて」
「誰に言ってんの。俺様、猿飛佐助よ?」
「そうでございました。本日はまこと、ありがとうございました」
「ま、無理しないようにな。李も食べきれなかったら養い親に分けてやればいい」
立ち上がった佐助は、垂れてきた赤茶の髪を鬱陶しげに一度掻きあげて、壁に寄りかかったを一瞥し、襖の向こうへと姿を消した。とん、と襖が閉まる音がしたと思えば、佐助の気配はもうなかった。
佐助は、任務に就いていた帰り、目をつけていた李の木にたわわに実がなっているのを見つけて、もうそんな時期か、と横目に通り過ぎようとしたのだ。だが、少し離れた後でそこへ引き返して、木の根元に座り込んだ。予定より早く諜報の任も済ませた事だ、時間はある。それに己の主、真田幸村は頑固な所もあるが、理解はいい。
ひとつの戦忍が使い物にならなくなった時、処分を望んだ戦忍――と、それを受け入れた佐助を止めたのも幸村だった。
元々武田にも真田にも仕えておらず、主を喪って落ち延びようとしていた忍の長がだった。その意志の強さと、亡くした主への忠心から佐助はを忍隊ではなく、自らの意のままに操る人形へと為した。それを咎めもしない幸村に、主は自分になったのだと言うのを強い双眸で受け入れた。
――二人とも、強いよなあ。
李の根元に横になって、佐助は主と駒に思いを馳せる。ぼとり、と熟しすぎた李が地面に当たって潰れた。近くに落ちたそれを、篭手を外して手に取れば、ぐしゃりとさらに潰れて甘酸っぱい香りが広がる。
――ああ、そういえばは李が好きだと言っていた。旦那はどうせ団子にしか興味示さないし、様子見がてら手土産に持っていきますかね。俺様ってホントいい人すぎて困っちゃう。
誰もいないのをいいことに、佐助が自嘲に顔を歪める。手近にあった蔦を使って手早く籠を編み、するすると木に登って熟れている李を選っていく。しばらくの様子を見に行っていなかった為、どれだけ食べる事が出来るのかわからない。二十ほど籠に入れたところで、最後に一番熟れていると思われるものを、佐助はそのまま齧った。
じゅくじゅく、熟れ過ぎた果実は崩れて果汁が垂れる。やべ、と小さく呟きながら、ちろりと樹上から視線を鋭く彷徨わせる。そう遠くない所に小川が流れていた。とん、と勢いをつけて木々の合間を縫って跳躍する。始めの踏み切りで幾つか李が枝から落ちたようだった。
忍たる者、それが動植物の由来であろうとも匂いを身に付けたまま、など言語道断。小川に着くなり、佐助はべたべたになった両手と口許を念入りに洗い、口の中に残っていた種を吐き出した。李を入れた籠ごと小川の流れに浸し、実を潰さぬよう気をつけながらひとつひとつ洗う。
――なにやってんだろうね、俺様ってば。
日常の事となってしまった声無き愚痴を洩らしながら、李を洗う。ついでに忍装束を着替えて、旅人に化けた。
李を持って行こうとする相手は、捨て駒のつもりで得た女忍だった。どこか小さな山城の忍頭をしており、その城主を喪い、たった三つの部下を連れて逃げ落ちていた所を捕獲したのだった。里はなく忍の業は全て父母から叩き込まれ、幼少時より能面を被っていたという。真黒の忍装束に真白の能面が映える、アヤカシのような忍だった。そして、――戦忍として優秀な事に、ソレは恐怖と共に戦人の間で名が通っていた。
合戦が、たとえそれが兵卒崩れと農民の小競り合いであったとしても、どちらも関係ないとばかりに斬り捨てていた。己の武器は最初の相手にしか使わない。後は向かってきた相手から得物を奪い取り、使い物にならなくなればとっかえひっかえ、刀に槍を手に戦場を駆ける。ソレが通った後には屍しか残らず、運良くその者の手から逃れた武士
黒い忍装束の下に、鈍い光沢を放つ甲冑を全身に着込んでいた、と知れたのはソレの存在が人口に膾炙しはじめてからだった。爆破か何かで破れた黒装束を自ら引き千切った下に、武士でもそこまで覆わないだろうほどに頭から爪先まで甲冑
偶然、手許に転がり込んできたソレを佐助は逃すはずも無く、部下の命の保証と引き換えにソレを己の手駒とした。名を持たなかったソレに「」という名を与えて縛り、意のままに操れる真田の、いや、佐助の駒に仕立て上げた。
は優秀だった。重い甲冑を着たまま忍特有の動きを鈍らせる事無く、刃を甲冑で引き受けて相手の急所を外さず狙う。真黒の忍装束に暗器を仕込み真白の能面から覗く戦忍の双眸。佐助が命じればどんな穢れも引き受けた。真田忍隊よりも使い勝手のよい単独の駒。佐助の駒になった経緯から、忍隊とは別に動かす事が多かった。
件
全てが終わってから、血に塗れ、敵の忍頭を縛り上げて背負い、酷く荒い息と咳をしながらは本陣へ戻ってきた。佐助は一言、よくやった、とだけ言い、は苦しげに肯首しただけだった。
それから数日、呼べばすぐに姿を見せていたが佐助の許へと現れなくなった。特に重要な用件でもないしな、と佐助が気まぐれにの部屋を覗いてみれば、血と胃酸の散った大量の白布を口に、布団に丸まって、げほげほと激しく咳き込んでいるがいた。全身を引き攣らせて噎せ込み、がぼ、と血を吐き胃液を戻す。饐
佐助が襖を開けた事を気付かないことはないだろうに、はいつものように畏まる事さえしなかった。いや、できなかったと言うべきか。無言で佐助は襖を開け放ち、窓も開けて、の枕許へと屈みこんだ。能面を被っていないの顔色は蒼白に、玉のような汗を顔だけでなく全身に浮かべ、体をこれ以上ないほどに丸めると思い切り咳き込んで、また、血と胃液の混じった吐寫物を戻す。
の視線は朦朧と佐助の姿を捉え、申し訳ございません、と荒れた唇が無音で謝罪を紡いだ。
「毒だな。どうして報告しなかった」
冷酷な佐助の声に、は震える手で懐から巾着を取り出した。自作の解毒薬の類を試していたのだろう。ざらり、とそれを出した佐助は、ひとつ溜息を落とした。視点の定まらないがぼうっとそれを見ていた。
「効かないよ、どれも。アンタが生かして捕らえておいた忍頭に毒霧の事を吐かせた。劇薬だ。毒が血に乗って全身に回るまではそうして苦しむ。それから、肺病のような症状を現して、――短くて一月、長くて二年。もう、アンタは使い物にならない」
淡々と述べられる佐助の言葉に、は咳を堪えて目を瞠った。人より毒に耐性のある忍の体、少しの間苦しめばいずれは回復すると信じていたからこそは耐えていたのだ。堪えていた咳が止まらなくなり、汚れた布を顔に押し当て、体を引き攣らせて言葉にならない声を上げて苦しんでいた。
しばらく、佐助は声を掛けなかった。ぜいぜいと荒い呼吸を治め、一旦落ち着いた体を引き起こし、窶れた姿を晒したを見て、佐助がまた、溜息を吐いた。
「飯も食ってないだろ。ま、食べられる状態じゃないか。で、どうする」
「私は戦忍として生きてきました。それ以外に生きる術を知りません。遅かれ早かれ消える命であれば、この毒は感染するものとして私を処分くださいませ」
きり、と佐助を睨むかのようなの視線は、窶れた姿と相まって壮絶な覚悟を思わせた。
「……その潔さを気に入って駒にしたのになあ。あは、いざ手離すとなると惜しいもんだね」
「内密には」
「できない。旦那も、大将も先の戦でのアンタの功を認めた。女中に流行り病らしいと伝えて人を近寄らせずにいたろ。ま、それはよく使う手だから今更怪しまれる事もなかった。だけど、俺様が呼んでも姿を見せなかった。ってことは、何か不調を抱えてんのかと覗きに来たんだけど。まさか、な」
「失態でございました。それを理由には」
「だから言ったろ? 大将もアンタの功績を認めたの。その毒に冒された姿で謁見した所で褒賞を下されて休養を与えられるだけだ。早い内に手を打とうか。――もう、は戦忍を務められない、って」
そう言ってへらりと笑みを見せた佐助は普段の通り、奥の読めない表情をしていたが、瞳の奥に微かな後悔か失望か、が一瞬だけ垣間見えた。
二人の対話から、数日が経った。は戦忍から外され、病気の治療に専念せよ、との命を下された。初めから佐助の一存で引き入れた者だったため、処遇は佐助に一任する事で話は纏まった。
幸村にその話を切り出した際、開口一番にどうか処分を、と平伏して願い出たには幸村が激昂し、佐助がそれを抑えてに鋭い視線を遣した。この真っ直ぐな若武者に要らぬ事を言うな、と雄弁に。それからは黙り、佐助の案に幸村が肯き、現在の状況――つまり、城下の一角で忍に面倒を見させる事、へと落ち着いたのだった。
毒を受け入れ中和する忍の血は、予想以上に毒を全身へ巡らせるのが早かった。肺病のように咳き込み、ごくまれに僅かの吐血をする病人となったは、真田隊の諜報を務める夫婦の許で休養する事になった。武田の館からも近い、療養にはもってこいの立地とよくしてくれる夫婦のお陰か、病状の進行は毒が回るよりもゆっくりとしたものだった。
起き上がる事が出来ず粥しか口に入れられない日もあれば、少しは動く事が出来る日もあった。の戦忍の体は衰え、ただの若い女へと弱っていく。それでも病を抑える薬、増血を促す薬は作る事が出来たため、多少は命を永らえさせていたのだろう。
いつしか薬を練る独得の匂いからか、は薬師だと言われている、と夫婦から告げられた。それならば、と否定せずに望まれるまま人へと薬を作っていた。傷に効く軟膏、肩や腰の痛みに効く塗布薬、さらには局所の痛みを麻痺させる粉末。忍でなくとも作れるものだけで僅かの駄賃を稼いでは、夫婦に渡していた。自分で薬草を取りに行く事も出来ない体であるため、材料は二人に取ってきてもらうしかない。その礼だった。
他に変わったことといえば、主である佐助が二月に一度はの様子を見に来る事だった。は既に忍として働けないのだから気に掛けずとも、と言うのだが、へらりと笑って誤魔化されてしまう。訪れる時には、必ず何らかの手土産を持っていた。旅の者の姿をしている事から任務の帰りに寄っているのだろう、戦装束で現れた事はなかった。が世話になっている家にそのような姿を晒す事があってはならないと判ってはいるのだが、赤茶の目立つ髪を流すままの佐助は怪しまれないのか。は不思議に思いながら、主に対して余計な詮索はしないため、口にした事はなかった。別の理由もあったけれども。
どーも、と気の抜けた声を戸口で掛けて、今度は葡萄を籠に満たして佐助はやってきた。朝から動けるほど調子のよかったが佐助を出迎えた時、彼は微かに驚いていた。
「動いていいの」
敢えて落ち着かせるようにゆっくりと言葉を口にした佐助に、は微笑んで返す。
「はい、今日はとても調子がよくて」
湯を沸かしながら、佐助を土間から板間に上げ、部屋へと案内すると、しみじみと彼はを見遣って息を吐いた。
「能面なしで、人に化けずに表情がしっかり出るようになったねえ。やっぱ、忍辞めてよかったんじゃね?」
「……確かに、それはそうかもしれません。ですが、私は戦忍を辞めたつもりは毛頭もございません。死ぬまで戦忍、そう決めております」
佐助に茶を出し、腰を落ち着かせたは、ふっと表情を厳しくさせた。それは能面を被っていた女忍、鋭い双眸には全くの衰えがない。ずず、と茶を啜った佐助はその顔を見、視線を外してぼそりと呟いた。
「――爛熟した果実はさ、ぼとり、落ちて、じゅくじゅくに潰れて腐っちゃう。俺様も、アンタも、今その状態だ」
つ、と眉を寄せたが問い返した。
「仰る意味が解しかねます」
「熟れない内に手入れをしておくか、熟れている間にもいでおけばよかったんだ。そうすればアンタを手離さずに済んだし、俺の知らない所で変わっていくアンタを知らずに済んだ」
「猿飛様?」
「今更、なんだよ。アンタは俺だけのものにしておきたかった。もー俺、腐りきっちまったみたい」
ぐでん、と畳に倒れこみながら、佐助はひとりごちているようだった。の問い掛けにも答えない。
「アンタも戦人
佐助が懐からの戦装束の一つ、能面を取り出すと、ことん、と畳の上に置いた。甲冑も能面も暗器の類も、は厳重に仕舞い込んであったはずだった。なぜ、との小さな声がもれる。
「俺様、忍だぜ? アンタを出し抜ける力量がないと思ってた?」
無言では首を横にする。忍の中の忍とまで言われる猿飛佐助に敵うはずがないのだ。
闇夜に、合戦の中に、ぼうと白く浮き上がっていた女の能面。微かに歯を覗かせ、喜怒のどちらともつかぬ表情を浮かべた静謐
だが、一度がそれを被れば、硬く時を止めていた能面は、表情豊かに喜怒哀楽を現した。面の奥に見える戦忍の双眸は色を変えず、能面一つではがらりと感情を表してみせるのだった。
「俺は今からこれを割る。甲冑や武器の類は今日引き取って、追々処分させてもらう。――、アンタはもう二度と忍に戻るな。俺も二度とアンタに会いに来ない。これ以上腐りたくないんだよね、俺様」
主である佐助から一方的に告げられた、解雇の命。初夏にはの回復を期待していないと言いながらも望んでいた。晩夏になって、一変して佐助はを切り捨てようとしている。には意図が判らず、叫ぶしかなかった。
「何故です! 私の……、私はそれ以外の生き方を知らないと、」
「なに言ってんの? 腕のいい薬師の娘がいる、って噂広まってるじゃん」
の訴えを遮って、佐助が酷く冷ややかに言い放った。く、と唇を噛んで、は顔を伏せた。搾り出すような声は、掠れていた。
「……猿飛様も、私をお見捨てになるのですか」
「そうさ、アンタを見捨てて新しい駒でも捜してこよっかな、って考えてる。前の主には別れも告げられず、今度は酷使された上に忍を辞めろときた。あーあ、ホント優秀なのに報われないねえ」
へらへらと表面だけで笑う佐助の両目は剣呑な光を宿し、を見据えていた。
「李も、葡萄も、……人もな、熟れ過ぎて、じゅくじゅくになるまでほったらかしちゃダメなんだよ、判る?」
「どういう、意味でございましょう」
は眉根を寄せ、寝転がった主にきつく問い質すような声を出す。
「――人の生死に興味なんてなかった。俺だって死ぬ時は死ぬ、旦那を守ってな。その旦那だっていずれは死ぬ。大将も、あの独眼竜も、軍神も、かすがも皆死ぬ。戦場でか、闇討ちに遭ってか、老衰か、それは知らない。そういうもんだろ、生ける者は死する。当然の話だ」
は耳を塞ぎたかった。目の前に寝転んだ主は何を言っているのか、理解したくも無いし、その先を聞きたくも無い、と。
「アンタが手許にいなくなって、季節が巡って、認めなきゃならなくなったの、俺。アンタに惚れてた。初めて会った時からずっと。……俺様って忍だからさ、どんな状況下でも冷静な判断を下さなきゃならないわけ。旦那を守る事を優先してね。だから、毒霧にアンタを突っ込ませた。忍隊を使うには危険が大きすぎる、だからと言って斥候を飛ばす訳にもいかない、そして俺自身が向かう事もできない。――ほら、残ったのはアンタだ」
ゆるり、佐助の人差し指が座ったの胸に向けられる。へらりとした笑みと、考えの読めない眼をして。ひとつ瞬いたは、はっきりと肯いた。
「それが、猿飛様の命でございました。なれば私は従います。それが元で死のうと、私の至らなさ故。また、なぜ猿飛様が私に慕情を抱かれるのかが解せません」
「そういうもんなんだよ。アンタが館からいなくなって、自分でも笑っちまうくらい何度も、、って名を呼んだ。現れたら、言いたかった。ホントにが好きなんだ、ってな。日が経ち月が満ち欠け、澱の沈んでいくようにアンタへの感情が大きくなっていた。が死ぬ、そう考えただけで背筋が凍る。もう俺はアンタを失うのが怖い」
いつの間にか座りなおしていた佐助に、へら、としていた表情はどこにもなく、真摯な眼差しでを見据えていた。
「熟し過ぎた想いは、足許を捕られる泥沼にしかならない。――アンタだってそうだろ、」
ひくり、の肩が震えた。駒として仕えてきた猿飛佐助に、知らず知らず惹かれていた事。口にしたことはなければ、そのような素振りを見せたこともなかったはずだ。だが、その微細な反応に、佐助はにい、と口許を緩めた。
「アンタも俺を失うのを怖れてただろ? どれだけ過酷な任務に就かせても、戻ってきて俺に報告する時に、は能面の下で嬉しそうにしていた」
「どうして、それを……」
「判らないとでも思ってた? おばかさん」
す、と目を細めてくすり、笑った佐助を、は初めて見た。そうしても、佐助に恋情を抱いていたのだと改めて知らされたのだった。
腐り落ちた水気の多い果実の汁のように、じゅくじゅくと胸の裡に広がり続けるものを、恋情と言うのであれば。
佐助によって、ぱきん、と縦に真っ二つに割られた能面。鎖帷子から甲冑、その上に着込む黒装束。多数の暗器と、質素ながら精巧な作りの一差しの小刀。それらを全て背負子に詰めて、佐助は赤茶の髪が垂れ落ちないように止めていた手拭いを外した。
ばさり、落ちる髪。ぼんやりとそれを見つめる。視線に気付いて佐助が不審げに問うた。
「なに?」
ふ、と柔らかに微笑んでは首を振る。そして、すう、と笑みを引くと自分のものであった戦装束の処分に困るであろう物について語る。
「いえ、何もございません。……甲冑は鍛治氏に見せて、刃物になさればよろしいでしょう。金属の配合が少々特殊ですので鉄や銅と同じようにはなさらないようにお願いします。暗器は忍に、小刀は紋入りですのでこればかりは打ち直した方がよいでしょうね」
「ご助言どーも。これで、アンタは完全に俺の駒を、戦忍を辞めた事になる。旦那と大将には病状の悪化から、とでも言っておきますかね。ここで、平穏に薬師として暮らしな。あの夫婦も報告には館に来るがアンタの話は一切するなと命じて、俺はもう二度とここを訪れない。そんじゃ、ね」
背負子に重い、と愚痴りながら、佐助は草履を脱いだ板間へと出て行こうとし、見送りに立ち上がったが、――けほけほ、咳き込んで屈み込んだ。慌てて振り返り、の背を擦る佐助の表情は俯いて咳き込むからは窺い知れない。ただ、優しく撫でられる手の暖かさに、は何もかもを忘れて、ほろほろと涙した。
「なに、どうしちゃったの!? 苦しいなら無理すんなっつったろ、ほら部屋に戻って寝て! 俺様一人でも問題ないってば」
取り乱した佐助に驚きながら、は涙と咳の合間にうっすらと笑った。佐助に抱き起こされて、部屋に戻され、布団に横に寝かされたは、ようやくその顔を見せた。頬を伝った乾いた涙の跡に佐助が溜息と苦笑を洩らし、そして、手の甲でその跡をさらり、撫でる。瞼をうとりと落としたに、静かで穏やかな佐助の声が降る。
「泣いてた、か。言ったろ、俺達戦忍はそれを爛熟させちゃいけないの。……だからここで、さよなら、だ。死んだと風の噂に聞いたら参りに行ってやるよ、俺の。無いとは思うけどさ、俺が旦那よりもよりも先に命を失ったら、の傍にいる。それから一緒に黄泉路を行こうか。さすがにそこまでは忍の掟も通用しないさ」
ゆるゆると語る声は、とても落ち着いていた。もう全てを受け入れているのだ、猿飛佐助は。それならば、も覚悟を決めねばならない。ゆっくりと目を開けて、佐助をしっかりと見上げる。そこには、いつもの心裡を悟らせない瞳ではなく、悲しさと哀れみがあった。
「猿飛様、私は幸せでございます。これほどまでに主に恵まれた戦忍は私以外におらぬでしょう。ああ、私は人になっても構いません。もう充分にしていただきました。――まこと、御礼申し上げます、猿飛佐助様」
ふうわりと笑って、は瞬く。溜まっていた涙がほろり、流れる。す、と屈んだ佐助によってそれは垂れ落ちる前に消えた。
乾いたの口端に、音もなく涙を吸った佐助の唇が瞬間触れて、離れた。
「好いていた、。アンタの何もかもが俺を惹き付けた。平穏に、出来るだけ長く生きてくれよな」
小さく笑った佐助は、まるで宝物を見つけた子供のように幸せな表情をしていた。はい、と頷いたも自然と笑みがこぼれる。
「私もお慕いしておりました、……佐助様。私の憧れであり、忍の鏡でございました。そのようなお人を主に、駒として働けて幸せでありました」
顔を寄せ合って囁く二人にとっては恋慕の情は既に過去の事。さらりとの頬をなぞって、あは、と軽く笑った佐助が立ち上がり、背を向けて最後の言葉を残した。
「そんじゃま、そん時に、ね」
佐助はそのまま振り返る事も無く、たん、と襖を閉めると、背負子を背に家を出て行った。遠くなる気配に、二度と会う事はないのだ、とが腕で目許を覆う。
「さようなら、佐助様。――私は本当に、幸せでした」
眦
――別離は多く経験してきた。かつて仕えていた城主様、その家臣や兵、父母、部下。そして、私が手に掛けてきた大勢の名も知らぬ者達。それは忘れない、忘れてはならない。けれど、今だけは一人の為に泣きたい。……愚かな人の情、とかつての自分なら一笑に付しただろう。しかし、私を変えてくれた、二度と会えぬ、たった一人の男の為に涙する事は許されてもいいだろう?
籠に入ったままだった葡萄の、底の方が重みで潰れたのか、じゅくじゅく、果汁を盆の上に流していた。甘い香りが部屋中に広がって、首を傾けてそれを見たはまた、ほとほと、涙を布団に、じわりと染み込ませた。
戻る
2008/10/11
企画「悲哀」さまへ。素晴らしい企画に参加させていただきました。
ららかさま、読んでくださった方、本当にありがとうございます。
よしわたり
2009/10/30
一息に書いたせいで、今読むとかなり荒っぽい部分が多いです……。文章にしろ内容にしろ。
それも含めたひとつの話。