円く白い月が東の空、中ほどにぽっかりと座っていた。ちゃぷ、ちゃぷ、と波が岸壁に寄せる音がする。潮の匂いをはらんだ風は生ぬるく、ざわざわと落ち着かない海城の松明を揺らしていった。ぱちり、火が爆ぜる。

「落ち着かないか」
 島嶼の先、開けた海域に浮かぶ灯りを睨んでいた寝ずの番は背後から掛けられた声に振り向いた。鎧直垂にしては簡素な衣服を纏った女が従者を伴って、彼が見張っていた点を見ていた。
「姫」
「動きはないか」
「目立った動きは。ちらついて見えるのはあちらさんも明朝仕掛ける算段だからでしょう」
「当然だな」
 姫と呼ばれた女は月を振り仰ぐ。
「ご覧のとおりの満月だ。陽が差す頃には潮干(しおひ)になる。こちらの船が使えなくなると読んでいるのだろう」
 くつくつと寝ずの番が笑う。
「土佐の無頼(ならずもの)は瀬戸の水利を知らないとみえる」
 彼につられて女も含み笑う。
「知られてたまるか。ここは我らの国、村上にもくれてやらなかったものをほいほいと渡してなるものか」
「……この戦、村上の動きは」
 小さく、寝ずの番が呟いた。舌打ちをした女は顔をしかめて吐き捨てた。
「毛利方に入ってから知恵をつけやがってな。全くわからん。背後を突かれるのだけは避けねば」
「手は打ってあるんでしょう」
 海上の灯りを見据えたまま女の方に向かいもせず彼は問い、女はにいと笑って一応なと答える。

「――姫、そろそろお休みに」
 それまで無言で控えていた従者が遠慮がちに、だがはっきりと女に声を掛けた。頷いた女は首を巡らせ、月に照らされて静かに眠る島嶼と海を愛おしげに眺める。
「四国を押さえたからといっていい気になるなよ、長曾我部。この海は(われら)のものだ」
 女が呪詛のように呟いた言葉は、潮風に飲まれて消えた。










 空が白み、常夜灯が消されても辺りがはっきりと見えてきた。海城は周囲の岩礁砂州を晒して、船を繋ぐ桟橋は階段状に浅瀬となった海へと続いている。だが、桟橋に船の姿はなかった。
 法螺貝が吹き鳴らされ、えいえいおうと鬨を作った将兵があちこちの島陰から姿を現した。数人毎に一艘の舟を持ち上げて浜を走り、舟が浮かぶところまで来ると水面に放り投げてそこへ乗り込んでいく。次々と漕ぎ出した舟がたちまちに水上に満ち、海城の周りだけでなく島嶼一帯を埋め尽くした。

 七ツ方喰を掲げた大型の帆船が瀬戸の鼻先を押さえている。海城への最短航路に当たる瀬戸だが、海流が複雑なうえどこに暗礁があるかもわかりにくい。加えて大潮で航行できる船の大きさは制限されてしまっている。帆船ではこれより奥へ進めないと小舟を下ろしている間に、長曾我部軍は軍にぐるりと囲まれてしまった。
「弓兵、射かけよ!」
 大将らしき鎧武者が采配を振る。長曾我部の兵に向かって一斉に矢が放たれる。致命傷を負う者はいなかったが、混乱させるには充分だった。
「やりやがって!」
「海の男をなめんじゃねェ!」
 いきり立つ長曾我部兵を挑発するように軍は矢の雨を降らせる。舟を漕ぎ、近寄ろうとするも潮に流されうまくいかない。舵取りに苦戦する長曾我部兵を尻目にの舟はすいすいと自由に動き回り、近寄っては槍を突き出し遠ざかっては弓を射る。帆船の上から射かけられれば櫂で防ぎ、舟が寄ってくれば逆寄せに切りかかる。速い潮の流れを読み切った軍は慣れない海域に苦戦する長曾我部軍にとって手強い相手だった。
 采配を持った鎧武者は全体の動きが見える位置まで下がっていた。敵方の混乱具合、自軍の有利を把握して、采配を高く声を張り上げた。 「火矢、――放て!」
 火矢、火、と兵の間を声が走り抜け、帆船の近くにいた舟々は潮が引くように船首を返してその場を離れていく。何事、と長曾我部の兵が後を追う前に帆船に向かってあちこちから火矢が飛んできた。甲板にまで届くことはなくとも乾舷に刺さったり、小舟や兵に命中して火を広げていた。慌てて海に落としても火は消えず、しばらく水中で燃えていた。
 ここにおいて、長曾我部軍は大混乱に陥ったのだった。
「アニキ! アニキー!」
「消えねえ! この火消えねえぞ!」
 ここぞばかり兵が押し寄せる。長曾我部軍は鎮火と防御に手一杯になってしまい、とても攻勢に転じられる状況ではない。緒戦は完全に軍が制していた。


 碇槍を担いだ男が帆船の舳先に立っていた。眼下を一瞥して苦々しげに舌打ちをすると甲板を振り返って叫ぶ。
「野郎共! ちゃんと船守ってろよ!」
「アニキ!?」
「俺はちっと城を攻めてくっからよ!」
「一人で!?」
「おうよ! それともついて来れるのか?」
「ムリッス!!」
「はっは! 俺に任せろよ!」
「アニキーーー!!」
 ごう、と碇槍が炎を纏う。男はそれに足を掛けると船を蹴って飛び出した。
「行くぜ野郎共!」
「アニキーーー!!」
 炎の波を巻き上げながら真っ直ぐに海城目指して滑空する。男の登場で長曾我部軍は一気に勢いを取り戻した。
 遠くなる男の背を睨みながら、采配を持った鎧武者は祈るように呟く。
「姫、どうか無茶はなされぬよう……!」
 すぐに敵軍へと向き直り、自軍の兵を鼓舞する。
「攻撃の手を緩めるな! 敵大将不在の今が攻め時だ!」
 長曾我部兵の喚声に負けじと、応じる兵も声を振り絞る。海上戦は長引きそうだった。




 ごうごうと燃え盛る炎を従えて、銀の髪を散らしながら男は碇槍に乗って海を飛ぶ。城を守っている船には目もくれず、一路島の中心を目指す。浜から上陸するとの兵は驚き慌てていた。将自らが単身乗り込んでくることなど考えていなかったのだろう。甘いな、と鼻で笑って本陣と思われる館に狙いを定めた時だった。
 突然目の前に現れた白刃に体勢を崩した男は碇槍から足を踏み外し、宙返りをして着地した。紫紺の衣装が揺れる。
「危ねえ危ねえ……。てめえ、鬼の行く手を阻んでタダで済むと思うなよ?」
 男の前には長刀を構えて立つ、青糸縅の胴丸を着た女が一人。剛毅そうな面立ちは大きな攣り目からくるものか弧を描く広い唇からくるものか。ふ、と笑った女は長刀を納めると高く結わえた髪をばさりと払って男に向き直る。
「これはこれは。長曾我部軍総大将、長曾我部元親殿とお見受けするが?」
「アアン? そういうあんたは何モンだ?」
元島(もとしま)が将、。大将ともあろう方が単独先行とは恐れ入る。それとも、それだけの力量がある、と?」
 挑発的な笑みを形作ったまま、はすうと双眸を細める。
「この俺を舐めてやがるのか? ――大将を出しな」
 がつ、と地面に槍を突き立てて眉を寄せた元親が顎をしゃくる。
「はいはいと大人しく言うことを聞くとでもお思いか。ここはの本陣、後には引けないのでな」
 の兵が二十、三十、元親包囲の陣を狭めていく。ちらりと隻眼を走らせた元親は愉快そうに笑い声を上げた。
「大将を引きずり出すにゃあてめえらをぶっ倒して行けってことか!」
「この数を相手にどこまで立ち回れるか、お手並み拝見といこう」
 ひたりと長刀の切先を向けられた元親が碇槍を担いでを睨み据える。
「後悔すんじゃねえぜ」
 遠く、鳶が一声鳴いた。


 ひゅ、ひゅ、と風を切る長刀を軽く避けながら元親が碇槍を片腕で振り回せば、はその力を利用して受け流す。二人が次の動きに入る前に兵が切り掛かり、元親はそれを力で捩じ伏せる。さらに追撃しようものなら視界の隅に構えた弓兵が引き絞った弦を離す。矢を落とす間にきらめいた長刀の刃をいなし、兵士を蹴り上げる。
 壮丁の兵を軽々と吹き飛ばす威力の一撃には容易に元親に近づけず、元親は一歩として踏み込む隙を与えないの護衛に技を放つことができずにいた。

 始めの内こそ形勢は完全に方であったが、ぽろぽろと兵が欠けていき、相反するように元親の攻撃が繋がるようになってきていた。立っている者が片手で数えられるほどにまで減ったところで槍を払いそこねたがつんのめり、元親はにっと歯を見せる。
「もらったァ!」
 四縛で動きを封じた、と息を吐いた瞬間。ざり、と土を踏む音がした。
「甘い!」
 元親の左、死角になっている方へが渾身の突きを繰り出す。
「ちいっ!」
 咄嗟に背後に飛んで事無きを得た元親は距離を取って槍を担ぎ直す。網に捕らえられていたのはを庇ったらしい兵だった。は元親から視線を逸らさずに網を切って下ろしてやるが、気を失っている男は力無く地面に崩れ落ちただけだった。


 見回せば残っているのはと元親の二人きり。周囲には呻きが満ち、吐瀉物の饐えた臭いと土を黒く染めていく血の臭いが広がっていた。
 肩を上下させて脂汗を浮かべているは今にも倒れそうなほどに苦しんでいながらも、眼光鋭く元親を睨んでいる。転がっている中には明らかにより格上と思しき将もいるのに、身を挺してまで彼らが残したのはだった。加えて元親に向けられた、身を切るほどの敵愾心。
「あんた、――」
 元親の声は全てを言い終わる前に響いた音にかき消された。




 それは、地獄の釜の蓋が開くような、と形容してもいいほどに重苦しく耳障りな、材木の軋む音だった。
 息を荒げつつも決して膝を折らなかったの顔に色が戻る。崩れそうな足を叱咤して気丈に立ち、深い呼吸を繰り返して息を整える。す、と開かれた瞳には疲労も恐怖もなく、ただ勝者の色をして元親を見ていた。そこかしこに倒れた将兵が起き上がる気配はない。じり、と地を踏んで元親はから視線を外した。
「何の音だ、ありゃあ」
 不審な轟音は方向からして長曾我部軍の大型帆船が出所だろう。瀬戸の先に見える戦場の波は高くないはずが、長曾我部の軍船が大波に洗われているように大きく左右に揺れている。
「元島の名を西国(さいごく)へ広めたのは村上三家に負けない水軍だ。長曾我部もそれを狙って来たのだろう? とくと味わって行け」
 にんまりと不敵に笑うの強気な態度に、元親は押し殺した声で言い捨てた。
「やっぱ大将はてめえか」
 じゃら、と鎖を引いて碇槍を構え直す。は刃を下ろして傲然と立ったまま。
(なり)だけの海賊など、食ろうてくれる」
「田舎モンが」
陸者(おかもの)が何を偉そうに!」
 は、と元親の挑発を笑い飛ばしたに低く唸る。
「構えな」
「私とやり合っている間に船が沈んでしまうぞ? こちらの装甲船は建造以来負けた(ためし)がなくてな」
「装甲船だぁ!?」
 驚いた元親が船の方を見れば、嵐に散った木の葉のように数多く浮かんでいたの小舟は姿を消し、帆船の両舷に取り付いた装甲船がいた。揺れは収まっていたが、船上がきらきらと陽光を反射しているのはあちこちで刃を交えているからだろう。本陣を海城に構えると違って長曾我部は長征の徒、船を落とされれば元親は孤立無援になってしまう。ここでを討ち取ったとしてもそれでは意味がない。
「やりやがったな……!」
 ぎり、と歯を食いしばった鬼の体を炎が舐める。ゆるゆると長刀を持ち上げたの手は疲れからか、震えていた。舌打ちをひとつ、元親は鎖を腕に巻き付ける。
「この勝負、引き分けだ」
「こちらの被害は甚大だ。ありがたくそうさせてもらおう」
 片眉を上げては苦笑する。疲弊し、かなりの人的・物的被害を受けて尚、覇気は失われていない。まぎれもなくが大将の器量であることを認めて、元親は隻眼を細める。
「俺を退かせたくらいでいい気になんなよ」
 元親が吐き捨てた言葉にからからと笑う声を背に聞きながら、湧き上がった炎の波に飛び乗った。










「野郎共! しっかりしやがれ!」
 豪快な蹴りで敵を二、三人まとめて吹き飛ばして、甲板に降り立った元親は部下を奮い起たせるために声を荒げて碇槍を振り回す。
「ア、アニキ!!」
「アニキ!?」
「おうよ!」
 船体を幾度も揺らされ、甲板に乗り移られて押されがちだった長曾我部軍の兵士達の間に活気が戻る。
「あんまり危なっかしいんで戻って来ちまったぜ!」
「アニキ! すまねえ!」
「立て直しますぜ!」
「アニキーーー!!」
 混戦の極致にあった戦場が瞬く間に元親の支配下に置かれた。急激な戦況の変化に付いていけず、軍の統率が乱れる。退却、死守、猛攻と指令が飛び交って兵は右往左往し、己を身を守ることさえ危うくなってきていた。好機とばかりに元親は碇槍を振り下ろした。
「野郎共、火傷したくなかったら退いてろよ!」
「アニキーーー!!」
「海賊の流儀ってヤツ、教えてやるぜ!」

 ちろちろと残っていた火が消えた頃には、船首部分にいた兵は一掃されていた。炎に負けないほどに熱気を帯びた部下を見遣って、元親はにやりと笑う。
「この世で一番強い男は?」
「アニキ!!」
「この世で一番いけてる男は?」
「アニキーーー!!」
「この世で一番海が似合う男は?」
「アニキ! アニキ!」
「野郎共、鬼の名をいってみろ!」
「モ! ト! チ! カ! うおおおーー!!」
 ここが陸上なら地鳴りとなっていただろう、長曾我部軍の凄まじいまでの躁狂。圧倒的な戦力の差を目の当たりにして、の軍勢が戦意を喪失せずにいる方が困難だった。

「鬼だ……!」
武吉(たけよし)殿! これ以上は無理だ!」
 悲鳴のような配下の叫びに、折れそうなほどに采配を握りしめた鎧武者は震える声で指示を下した。
「……全軍、撤退せよ」




 城の館で休んでいたの目にも、自軍の不利な状況は見えていた。今や剣戟の響きも聞こえない。忌々しげに眉宇を寄せて腕を組むと、従者が止めるのを払って表へ出た。先ほど散々にやられた将兵の手当てに慌しく走り回っているのは軍籍にある者だけではなかった。
 本陣を置く小元島は人が住めるほどの広さはない、戦に特化した天然の要塞である。よって負傷者の手当ても、死者の収容も初めから考えられていない。は元親が去ってすぐ、平時の本拠地である大元島から救援を呼んだ。戦闘は収まったとはいえ、戦場であることに変わりない海城に老人や女を渡らせるのは苦渋の選択だった。だが、大将として以前に国主として、助かる者をむざむざ見捨てることはできない。彼らは兵である前に民である。もしもの時は首で贖うつもりだった。

 左腕に板を添え、肩から布で吊った体格の良い老将がの許へ歩いてきた。片足も少し引きずっている。痛ましげにそれを見て、は軽く首を振った。
「手酷くやられたな」
「このくらい、酷いうちには入りません」
「私が鬼を甘く見過ぎていたようだ。――およその数は?」
 浜に整然と並べられた筵の列。止むことのない嗚咽。深く溜息を落とした老将が目をしばたかせる。
「流れ着いたものも合わせて、七十は下らないと」
「長曾我部が甲板で随分と派手に暴れてくれたようだから、少なくても五倍に膨らむな……」
 島の先を二隻の装甲船がのろのろと撤退していた。敵の帆船がそれを追う様子は見られない。今日のところはこれで一段落ついたと見ていいだろう。は足を踏み出して大きく息を吸うと腹の底から大声を出した。
「皆の働きで長曾我部の軍勢をひとまずは退けることができた! よくやってくれた、感謝する!」
 わっと沸いた歓声は数秒も持たず沈んでいった。敵船の錨を上げられなかったことで戦の勝敗は明日へと持ち越しになったが、軍はを含めて誰も彼もが疲れ果てていた。短期決戦を想定していたため、奇襲戦法はもう使えない。まともにやりあえば数刻と掛からず城を落とされる。再戦なしに終決を早める方法はないものかと思案するの表情は硬い。

「姫! 姫! さま!」
 一人の青年が必死の形相での方へ駆けてくる。転がるようにの前に膝を付くと、息も絶え絶えに口を開く。
「や、やられ、ました! 西の沖、に、旗が」
「どこだ!」
 ぎょっと目を瞠ったは屈んで青年の肩を掴む。
「む、村上の、毛利の……! 数、五!」
「あの知恵者が! 漁夫の利を貪るか!」
 水を打ったように静まり返った島に、の咆哮が響き渡った。




 外洋への航海も視野に入れて建造された大型帆船は、船内外のいたるところに激戦の跡が残っていた。裂けた所あり穴の空いた所あり焦げた所あり、一旦船渠に入れての修理が必要となるだろう。武器から日用品から、色々な物がぐちゃぐちゃに散らかっている砲列甲板を見て回った元親は大砲の修理に当たっている集団を覗き込んだ。
「どうだ?」
「思いっきりやられてます……。これじゃあ使いモンにならねえや」
 本来なら床に据え付けられているはずの大砲が、強引に持ち上げたように傾いて砲身も僅かに歪んでいた。お手上げだと肩を落とす男の言うとおり、それは修理するよりも取り換えた方が早いと思われた。
「ひでえな」
「奴ら、鉄板貼っつけた船で横っ腹に突っ込んできやがったんですぜ。穴が開いてもおかしくねえ」
「俺が船を空けたばっかりに、すまねえな」
 元親が頭を下げると、落ち込んでいた部下達が口々に喧しく言いはじめる。
「アニキのせいじゃねえ! 俺達が不甲斐なかったんだ!」
「このくらい、港へ戻ればすぐに元通りですぜ!」
「はっは! 頼もしいじゃねえか! よろしく頼むぜ野郎共!」
「了解だぜ、アニキ!」
 いつもの調子を取り戻した部下達に元親はからりと笑って、いっそのこと改良してやるか、と大砲を検分するために腰を下ろした。

 急に上甲板が騒がしくなった。押っ取り刀で船内から表へ出た元親は騒ぎの中心になっている見張り台の部下へ声を掛ける。
「どうした!」
「大変だアニキ!」
 酷く慌てた様子の見張り番が望遠鏡から目を離さずに叫ぶ。船尾方向を頻りに気にしている様子からして、軍が再度兵を出してきたわけではなさそうだったが、見張りの告げた言葉によって船上に新たな緊張が走る。
「東の海上三里、――五七桐!」
「豊臣の野郎……、狙ってやがったな」
 剣呑な光を隻眼に宿し、元親はぽつりとこぼす。声は騒音に雑じって消えた。










 明けて、朝。凪いだ水面をからの使者を乗せた船が静かに進む。掲げられた白妙の旗は将兵の無念を代弁するかのように力無く垂れ下がっている。は、降伏した。


 降伏を受け入れたとはいえ、元親は勝利を喜ぶ気になれなかった。島嶼の海戦に慣れていなかったこと、思った以上に敵の指揮官が優秀であったことで苦戦させられ、なにより余力を残した状態で戦を切り上げる引き際は敵ながら見事だと言う他ない。そうして、刃を交えた敵大将の姿を思い出す。女の身でありながら兵を率い、臆することなく戦地に立つ剛胆さ。の器量を認めて対等に話をしたい、と元親は自ら会談に赴くことを決めた。

 己が治める海を見張らすことのできる大元島の丘に、の館はあった。島の地形を利用した曲輪が館を囲み、海を濠に見立てれば陸に築かれた城と何ら変わりない。地続きでない分、陸より攻めるは難しく守るは易い。それはこの戦もそうだった。軍は兵の数も錬度も圧倒的に不利だったにもかかわらず、長曾我部を相手取ってそれなりの戦いを見せた。戦が長引いていれば敗北していたのはどちらだっただろうか。

 の名代だと名乗った男に案内されて館へ向かう道中、戦の気配がほとんどしないことに元親は首を傾げた。漁場に浮かび、また島民や家畜を載せて島嶼の間を行きかう大小様々の船、浜では網を繕うものあり船の修理をするものあり、山頂まで耕された畑にも人の姿が見える。水路を挟んだ海城だけが戦の痕をありありと残したまま長閑な海の暮らしから切り離されていて、それが酷く滑稽に思われた。
 国を治める主が起居する一の曲輪にしても門前の衛兵さえおらず、玄関を通ることさえしなかった。庭を突っ切って謁見の間に上がり、が現れるのを待つ。野郎舐めてんのかと憤慨する部下を窘めながら、体裁を気にして形式ばった遣り取りをするよりは気楽だと、元親はむしろ好感を抱いていた。


 ややあって奥から出てきたは日焼けした髪を高く結い、家紋を染め抜いた藍の直垂を着ていた。側近を控えの間に残して上段に一人座す。その様は堂々たるもので、敗軍の将には見えそうもない。
「改めてお目にかかる、長曾我部元親殿。私が讃州(さんしゅう)元島家棟梁、だ」
 脇息に軽く肘を乗せて元親を見るの双眸の輝きは力強い。にい、と口許を歪めたがずらした視線の先を追えば、元親らの背後、縁に控えた男に行き当たった。目礼する男を楽しげに見遣りながらは言う。
「とは言っても表向きの国主(あるじ)は貴殿を迎えに遣らせたその男、清三郎武吉だ」
「どういうことだ?」
 訝しむ元親に軽く苦笑を返しつつ、瞼を伏せて語る。
「私は先代の嫡子()だが女だ。世継ぎに恵まれなかった先代は分家から武吉を引き取って家督を継がせるべく養育したのだが」
 ちらりと上げられたの目線に、武吉が言葉を続ける。
「どうやら俺は国を治める器ではなかったようで。ひきかえ、姫は国主になるべくして生まれてきたような才子でした。頭を痛めた先代は結局、姫に家督を譲られました」
「しかし、女が上に立つというのは色々とな。幸い武吉は戦の才があるゆえ、他国と何かあれば前へ出て指揮を執る。自然、大将はこの男であると広まった。こちらとしては都合がいいからな、そのままにしている」
 そういうことだ、とからりとした笑顔を浮かべた。数度瞬いて、元親はにっと笑った。
「はっは! 風の吹くまま気の向くまま、それが海賊ってモンだ」
「最高の褒め言葉だな。――さて、本題に入ろうか」
 ぱん、とが手を叩く。和んでいた場は乾いた音一つでがらりと空気を変えた。

「清三郎」
 名を呼ばれただけで心得たのか、短く返事をした男は坐礼をすると立ち去った。それを見送り、顔を上げたが元親の部下の方へと意志の強い眼差しを向ける。
「国を治める者同士、元親殿と差しで話をしたいのだが」
「てめえ、降伏しといて何のつもりだ!」
「アニキの首を取ろうって魂胆か?」
(やま)しいことがねえんならここで話したっていいじゃねえか!」
 元親を慕う部下達がそう簡単にその申し出に頷くはずもなく、は軽く眉を寄せて口を開きかけた。す、とに制止を求めるように元親が掌を向ける。部下達を見、自信ありげに笑ってみせた。
「野郎共、大丈夫だ。俺を信じろ」
 それでも食い下がる男の背をばしんと叩いた。
「心配すんなよ。鬼の名を持つこの俺はやられねえ。そうだろ?」
 元親の言葉に渋々了解したようだが、男はをぎりぎりと睨む。
「アニキになんかあったらてめえを海の藻屑にしてやるぜ」
「くれぐれも気をつけよう」
 小さく苦笑しつつ答えたに部下達は念押しの一睨みをきかせていた。そこへ折よく戻ってきた武吉が姫、と室内へ声を掛ける。
「準備整いました」
「では長曾我部殿、離れへ」
 の先導で廊下を行き庭園を抜け、着いた先は低い生垣と松に囲まれた出丸のような場所だった。
 海城や瀬戸、その先の島々や海を一望できる。空は高く鰯雲がゆるく流れていた。日差しが穏やかな水面に反射して柔らかく輝いている。櫓を漕ぐ小舟がゆっくりと島から島へ渡って行く。鳶が鳴きながら島を旋回し、魚群の一匹が海上に跳ねる。
「……いいところだな」
「ああ」
 素直に感嘆する元親に、は誇らしげに頷くのだった。




「村上の船が沖に碇泊している」
 開口一番にが開かした機密に、元親が小さく舌打ちをした。
「毛利か。こっちは豊臣が出て来やがった」
「やはりな。地の利を得るは大敗することはないが、小国ゆえに四国を掌握した長曾我部に勝利することはまずあり得ない。よくて奇襲を繰り返して消耗させ、共倒れに持ち込むくらいだな。結果はどうあれ、我らが受ける被害の大きさは容易に想像がつく。そこへ攻め入れば村上は労せずしてを打ち滅ぼすことができる、とでも言われたのだろう」
「勝っても負けても同じじゃねえか」
 右手を額に当てて話を聞いていた元親は難しい顔のまま呟いた。それに頷いたは中空に地図を描くように指を走らせた。
「芸予を押さえている毛利にとって備讃を取れば西国を得るも同然。元々我らと村上とは浅からぬ因縁があったものだが、奴らが毛利の軍門に下ってからというもの小競り合いの数は増え規模も大きくなっている。――加えて大坂には豊臣だ。こちらも着々と水軍を強化しているというしな。威嚇だけで済んでいるのが驚きだ」
 、の小さな文字に対して毛利、豊臣の文字は大きな円で囲まれた。その下に長曾我部という文字が踊る。
「両者に挟まれつつもなんとか生き延びていたものの、つい先だっては長曾我部が四国を征して天下取りに名乗りを上げたと」
 ちろりと走らされたの視線に複雑な表情をした元親。
「真っ先に狙われるのはここに違いないと思ったよ。この戦、利用させてもらった」
 勝敗はにとって瑣事だとでも言わんばかりに、は口端を上げる。がりがりと頭をかいて溜息ひとつ、元親が顔を上げた。
「条件は何だ?」
「判っているなら話が早い。は長曾我部に降伏するが、配下にはならぬことを認めてもらいたい。毛利・豊臣に対してそちらが睨みを効かせてくれるのならば、警固(けいご)や海運、交易において我らは長曾我部へ最大限の協力をしよう。場合によっては水軍を動かすこともやぶさかではない」
 その言葉に引っ掛かりを感じた元親は真っ直ぐにを見る。
「あんた、……何を考えてんだ?」
「城へ来るまでに見ただろう? の水軍が海戦に慣れているのは生活と密に結びついているからだ。干満を予測し流れを読み、安全に航海する(すべ)を戦に流用しただけにすぎない」
「戦は日常なのか?」
「我らは海が国だからな。商船でも軍船でも、こちらに無断で渡るのならば襲撃する。逆に、警固をしていれば無法者を打ち払う。今回は少し勝手が違ったが、似たようなものだ」
「ずっとそうやって暮らしていけると、本気で思ってんのか?」
「私の務めは、この小さな国と海に生きる民の暮らしを守り、日々が安寧であるようにすることだ。……戦いを楽しみ、宝を求めて部下と共に海を渡る長曾我部殿からすれば、浅ましい女の考えと笑われるだろうが」
 向けられた深い海色の瞳を見ることなく、は自嘲気味に笑みこぼす。いや、と言葉を切ったきり元親は何も言わなかった。


 ふっと息を吐いた元親は立ち上がって障子を開ける。一幅の絵画のような風景に目を細め、を振り返った。眉間に皺して唇を固く引き結び、考えに沈んでいる。
「そうやって国を守るのも立派なことだと思うぜ。俺が野郎共を引き連れて海に出られるのも国を預けられる家臣がいて、四国をまとめて後顧の憂いもなくなったからだ。……あんたが国を守るために俺を利用するってんなら、俺も海を渡るのにあんたを利用するってえことになる。この海をよく知る奴らの警固はありがたいし、交易で得た情報にはお宝の話もあるかもしれねえ。そうだろ?」
 固い表情を崩さずには元親を見上げる。その顔には何かを企んでいるかのような悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
「あんたらの降伏は取り消しだ。――海賊同士手ぇ組むってので、どうだい?」

 は一瞬目を見開いて、それから唇に弧を描いた。
「いいだろう。我らもその方がやりやすい。貴殿が部下にどう説明するのかは知らんがな。降伏を白紙に戻すのならば、私はの利を求めるのを妥協しないぞ」
「はっは! いいぜ、やってみな!」
「……そのおおらかさ、部下に慕われるのが判る気がするよ」
 愉快そうに大笑する元親を、は眩しげに見ていた。




 二人が謁見の間に戻ると両軍立会いの下で簡単な書状を作成し、詳細は後日公式の場で詰めることになった。は長曾我部側が持ち帰る書を奥から持って来させた文箱に入れる。藍染めの組紐を結び白砂青松と家紋を蒔絵で描いた漆塗りのそれは、のものであることを証明する二つとない文箱である。口約束に近い今回の会談は大将二人の署名と花押、この文箱が動かぬ証拠となった。

「では、追って使者を遣ろう。日取りや場所はそちらの都合で構わない」
 の言葉に頷きつつ、俯いてしばし考え込むようにしていた元親が顔を上げる。
「――あんた、鬼の女になる気はねえか?」
「ア、アニキ!?」
 元親の部下が驚愕に叫ぶ。
「そうだな……。鬼が天下をとったら考えよう」
 は文箱を投げながら小さく笑った。
「姫!?」
 の行いと言葉にの将が膝を繰る。
「はっは! その言葉、忘れんなよ」
「さて、どうかな」

 去り際、の勝気な双眸を確かめるように元親が振り返り、笑った。
「またな、







男の目には糸を引け、女の目には鈴を張れ











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2009/09/28
日本語の美しさそして難しさ。改めて日本語を使って文章を書けることの喜びを思いました。
素晴らしい企画に参加させていただき、ありがとうございました。
よしわたり

参考文献
山内譲、(1997)、『海賊と海城 瀬戸内の戦国史』、平凡社
山内譲、(1998)、『中世瀬戸内海地域史の研究』、法政大学出版局


2010/02/01 訂正
『JAPONICA LOGOS』さまに提出させていただいていたものです。
若干の語彙の訂正と、ルビを加筆しての再掲載ですので、話の筋は一切変わりません。


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