それは陽炎の立つ、暑い日の昼下がりだったと記憶している。
通りを行くものもおらず、日陰で涼もうにも風はない。木の下、軒先にはまばらに暑さをしのぐ人々がうんざりと座り込んでいた。うだる暑さは数日続いており、さすがの佐助も辟易していた。館にいれば多少ましなのかもしれないが、別の意味で熱い場所である。休暇をいいことに朝一番に抜け出してきた。町で馴染みの茶屋でのんびり横になっていたものの、どうにも我慢ならなくなって顔でも洗えば涼しかろうと、井戸へ向かった。
カン、と照りつける日差しにうへえと肩を落としてとぼとぼ通りを歩く。井戸までさほど距離はないはずなのにひどく遠く感じた。ところが井戸には佐助と同じ考えの先人がたむろしており、とても入る隙間はなかった。悪態を吐きながら川へと行き先を変える。照る日の下、流れる汗を拭いながら体を引きずるようにして川に辿り着いた。ざぶざぶと顔を洗い、頭も濡らし、木陰を探して足を浸していれば大分涼しくなる。濡れた髪を拭きながらしばしぼうっとしていた。
視界の端に人影が入り込んだ。どうも女らしい。ふらふらと川辺に近付いてそのまま深みへ歩いていく。と、足を滑らせたのか、ドブン、と頭まで潜ってしまった。
「ちょっと!」
慌てて立ち上がり、女に呼び掛ける。返事はなく、ばしゃばしゃともがく女が流されていくのが見えるだけ。
「あーもう!」
ぱぱっと印を組むと素早く水面を走り、女を水中から引きずり上げて担いで戻る。げほげほ、と幾度か水を吐き出す女の背を叩きつつ、顔に張り付いた髪をどかしてやる。人心地ついた女が佐助の方を見て、困ったような笑顔で頭を下げた。
「すみません、気をつけてはいたんですけど……」
「……こんなところで入水されたら困るんだけど」
「いえいえ、そんなつもりはありません。どうも私、ここの風土が合わないみたいで」
改めて女を見れば赤毛に灰色の瞳、女にしては肩幅も広く、背も高いようだ。
「アンタ、異人?」
「はい。といっても捨て子で親の顔も故郷の国も知らないのですが。申し遅れました、と言います」
助けていただきありがとうございます、と頭を下げたのは、自分を異人と知った相手の表情を見たくないからか。別段何の反応もせず、から視線を外した。ずぶ濡れになった着物は肌が透けて見える。この年になって、と思いながらも照れくさくなってしまった。
「いいって。ただし、次から川には入らないこと」
「……そうですね」
「それと、これ着な」
さっと立ち上がって着ている小袖を引き抜いて袴だけになる。の頭にそれを落として見下ろした。
「丸見え。ありがとうね」
何事かと顔を上げたに、にいと笑って踵を返す。人気のない道をしばらく行き、くるりと転回して忍装束になる。
「さーて、お仕事に戻りますか」
独りごちて館へ跳んだ。
容赦なく照りつけていた太陽を隠さんばかりの勢いで湧きあがっていく雲。夕立が来そうだねえ早くあんたもお帰りよ、と茶屋のおかみが空を仰いで言った。店先に出していた長椅子を仕舞いに奥から店主が出てきてがたがたと賑やかになる。店の中で横になって欠伸をしていれば、二人揃って佐助を見ると呆れたとでも言わんばかりの溜息を寄越された。
それを無視して目を閉じる。なんだかんだと言いつつこの二人は佐助を追い出すような真似はしない。ぱら、ぱら、とまばらな音に雨が降ってきたのを知る。すぐに激しい音に変わり、夕立が来たのか、と通りを見た。桶を返したような土砂降りに、通りにはすでに水溜りができ始めていた。樋を伝って流れ落ちる水も恐ろしい音をさせている。突然の夕立でご所望の団子が濡れてしまわぬよう大事をとりました、とでも真田の旦那には言えばよかろう。くわあ、と大欠伸が出た。
「すみません! 少し雨宿りをさせてくださいな!」
半分閉じられた雨戸の向こうで女の声がした。はいよ、とおかみが女を店に入れる。――見間違えようもない、その女は以前川で溺れていただった。
「今、手拭い持ってくるから空いてるところに座っときな」
「すみません。それとお団子、いつものくださいな」
「はいはい。あんたも偉いねえ」
おかみが奥へ引っ込んだのを見計らって体を起こす。先客に気付いたが佐助を見、驚いた顔をした。
「先日のお方! あの時はありがとうございました」
わざわざ姿勢を正して礼をするに、どことなく居心地悪くなって少し目を伏せた。
「ただの気まぐれだ。アンタ、あれ以来あんなバカなことしてないだろうね」
「もちろんです。どうしても暑さに耐えられない時は井戸を使わせてもらうことにしました。本当に限界の時だけですけど」
苦笑するに疲れが見え隠れする。訊いてどうするとの冷静な半面、どこか気になると世話焼きの性がうずく。
「あの、お着物洗っているんです。いつか返そうと思っていたのですが暇がなくて……。こちらのお茶屋さんにはよくおいでになるのですか?」
「まあ、時々、ね」
曖昧に濁した答えに笑顔になった。
「そうでしたら、おかみさんにお着物預けておいてもよろしいでしょうか?」
「へ? 渡してくれたらいいのに」
「まさかこちらでお会いできるとは思えませんでしたから、今は持ってきていないんです。いつ会えるとも知れませんし、おかみさんなら私も安心して預けられますから」
「忙しいの?」
「大店の下働きをしておりまして。今日は使いに来ているんです」
特徴的な赤毛は濡れたせいか毛先がはねて、垂れがちの目には灰色の瞳が収まっている。日に焼けても白いのだろう肌はそばかすが散り、一見して異人と判る。男物の着物は袖の長さが足りずに手首から少し先が出ていた。裾を絞った袴を穿いて細帯を締めた姿は、女らしい仕事はしていないことが即座に見て取れる。固く握った両手はきっと傷だらけだ。
こうなってしまっては佐助の敗北だった。溜息一つ、片手で顔を覆いながらに告げた。
「十日後。なんとか旦那様に頼んでここへおいで。着物も持ってな」
「は、はい。頼んでみます」
首を傾げながら頷いたに見えぬよう自嘲の笑みをもらして肩を竦めた。
そこに割って入ってきたのは手拭いと団子の包みをもってニヤニヤと笑みを浮かべたおかみだった。
「はーいお待たせ! 佐助さん、あんた誰でも口説くんじゃないよ」
「……おかみさん、ぜーんぶ聞いてた?」
「もちろんさ! ちゃーんと送ってってやんなよ、色男!」
バシンと佐助の背を叩くとからからと笑いながら奥へと戻っていくおかみ。がっくりと項垂れた佐助にかけられたの言葉は何の励ましにもならなかった。
「おかみさんはちょっと早とちりをされる方ですから……。一人でも帰れますから大丈夫です」
「いいよ、送ってく」
へら、と弱々しく笑いかけた先のはにこりと微笑む。
「では、よろしくおねがいしますね。佐助さん」
どくり、と心の臓が跳ねたような気がした。
それから、時々と話をするようになった。は佐助のことをどこかの風来坊のごとく思っているらしく、憧憬の念を抱いているようだった。ほとんど店から出ることのないは外の様子を知りたがったので、当たり障りのないことを話してやった。遠くの国のこと、近くの村のこと、噂に聞く武将達のこと。そのひとつひとつを大切な宝物のようにして聞くが、少し哀れに思えた。
いつもの茶屋で何かの話をしたついでだったと思う。ふと訊いたことがあった。
「の話を聞かせてよ」
「私には何も。子供の頃はずっと見世物としてあちこちに連れ回されていましたけど、周りを見る余裕もなかったんです。そこを逃げ出してからは生きるのに精一杯でした。奥様が拾ってくださって、名をくださって、ようやく私は人になれたようなものです。それまでは名前すらなかったのですから」
「そう……」
これほど目立つ異人ならばよい見世物になったことだろう。の過去を想像しかけて止めた。好奇心で首を突っ込むと厄介事が降りかかってくるだけだ。だから一つだけ、気にかかっていたことを訊くことにした。
「その首の怪我、深いの?」
初めて川で会った時からずっとは首に包帯を巻いていた。一向に取れる様子がないために軽く疑問に思っただけだったのだが、の表情が僅かに強張った。
「昔のものなので怪我は治っているのですが、酷い痕が残っていまして。人に見せるのが恥ずかしいので取らないんです」
「悪い」
「いいえ、お気になさらず」
は微苦笑を浮かべていたが、ぎこちなくなって話が続かず、用があるからと偽って先に店を出た。
この頃はまだ、何かが引っかかるというわけでもなくただの気まぐれでに近付いていた。のことも不遇に遭った哀れな異人だとしか思っていなかった。その考えが変わるには今しばらくの時間を要したのだった。
一月経ち、半月が過ぎ、一年になった。相変わらず暑い日ばかりだった。
さて、とは懇ろになったかといえば、……さしたる進展はなかった。
忍が情を通じる相手をつくるわけにはいかない、とは表向きの理由。のことを好ましく思うようになっていたし、も佐助を慕っているのは明らかだった。それでも不用意にお互い近付かないのは何故だろうかと考えてみたことがあった。
は決して髪を伸ばさない。肩の高さで切り揃えられた赤毛は痛んでいる様子もないのに、手入れができないからと伸びてくるとすぐに切ってしまう。加えて首の傷のこと。チリチリと記憶の奥底で繋がりそうで繋がらない何か。それがに関係するものなのは明らかなのだが、どうやってもはっきりと呼び醒ますことができない。
もどこかで佐助に怯えているのか、不意に触れた指先に大袈裟な反応をすることがあったり、呼び掛けた声にびくりと肩を揺らすことがあった。すぐに警戒は解くけれど、理由はさっぱり判らないままだった。
しかし、町へ下りるたびにと逢っているのが真田の旦那や大将の耳に入らぬはずもなく。ある時呼び出されて開口一番、懇意にしている女子を傍に置け、と主直々に言われてしまった。それからは佐助もも抜きにトントン拍子に話が進み、が世話になっていた大店から館の隅の長屋の一室に居を移したのは二日とかからなかった。目を白黒させているに隠し立てもできず、佐助は何もかもを話さざるを得なくなってしまった。
宵五つが鳴る前、沈みきらない陽が残光を衰えさせていく。灯明皿に火を入れて、は与えられた部屋で佐助を待っていた。ガタ、と戸を開けて入ったものの、複雑な感情をそのまま顔に出してしまっていた。
「おかえりなさいませ」
居住いを正して頭を下げた。夫を迎える妻のようだ、と現実感なくそれを見ていた。向けられた顔には困惑だけしか見られなかったのが、残念だと思った。
「……こんなことになるとは、考えちゃいなかったんだ」
「生きている限り何が起きるか判りません。佐助さんはこれで本当によろしいのですか?」
「はどうなの」
「私は……、一度会った者と二度とは会わないと決めていました。いつ気付かれるか不安で、恐ろしいのです。私の素性を知った者は皆去っていきます。ですが、佐助さんに再び逢えた時……」
どれだけ待っても、がそれ以上言葉を続けることはなかった。溜息をこぼして俯いた。
「の過去を詮索しようとは思わない。少なくとも、俺は」
ふいと佐助から顔を逸らし、本当に小さな声で呟いたのが聞こえた。
「嬉しかったのです。――あらゆるものは通り過ぎます。私の前でそれは人。虚しく思ったこともありました」
「……?」
「今は幸せです。佐助さん、本当にありがとう」
何の憂いもない、穏やかな微笑を浮かべるを見たのは初めてのことだった。訊きたいことはたくさんあったけれど、何も言わずにを抱きしめた。体格差はほとんどなくてもはやはり女特有の柔らかさをしていて、乱暴な扱いをすればすぐに折れてしまいそうだと思った。
「大事にする。俺様は日の下を歩くには汚れすぎた男だけど、それでもいいのなら、……俺と添うて」
「はい」
いつ壊れるとも知れぬ二人の日々はこうして始まった。
武田の忍だということは早々に告げた。驚くかと思っていたが、予想外には落ち着いていた。曰く、川で助けられた時に普通の人ではないと気付いていたそうだ。そういえば術を使ったのだった。情けねー、と落ち込むのをは黙ってにこにこと笑っているだけ。つい、苦笑がもれた。
任務で家を空けることになってもに告げて行くことはできない。どこから情報が流れるか判らない時勢、用心するに越したことはない。戦の時も忍隊は先に動き、戦後処理が書面の上になるまで報告や調査に勤しむ。武田では忍も人並みの扱いを受けているとはいえ、忍は忍。はこれまでのように町へ下りることもできなくなり、不便をかけるばかりになってしまった。こうなることは明らかだったとはいえ、ほんの少しの申し訳なさとそれに勝る幸福感があった。
は文句も愚痴も言わず佐助を支えてくれた。食事や湯浴みは待たせることなく支度し、繕い物や掃除は大店で働いていただけあって手早くきれいに済ませてしまう。それだけでなく、薪割り、水汲みは言うに及ばず、忍隊の者が寝に戻るだけの荒れた長屋の蜘蛛の巣を払い、屋根に生えた草を抜き、破れた戸板を補強したりとよく働いた。訊けばこれまでもやっていたことだから苦でも何でもないという。そうであっても女に力仕事をさせるのは気が引ける。……加えて部下からの無言の圧力もあった。
主からの用を終えて長屋へ帰った時、は日当たりのよい縁で穴の開いた障子を外してきて色紙を貼っていた。桜色の紙は桜花の型に、黄色の紙は銀杏の型に、緑色の紙は木の葉の型に。一枚一枚切り抜いては糊を塗ってぺたりと貼っていく。
見事なものだと口笛を吹けば、がこちらを見た。
「おかえりなさい、佐助さん」
「店ではそうやって修繕してたんだ?」
「はい。若様が今より少し幼かった頃は毎日のように穴を開けられて、こうして補修した上からまた指を突っ込まれるものですから、月に二回も貼り替えることもありました」
手を休めて思い出話をするの横に座る。同じような経験をした覚えがあるな、と記憶を辿った。
「はは、真田の旦那が小さかった頃を思い出すな。あのお人も閉めてある部屋をそうしてこっそり覘いてたもんだ。昔はそれで済んだけど、今は大将と殴り合って木枠から盛大にぶっ壊してくれるからたまったもんじゃねえなあ……」
思い出の中、少年は青年になり、――つい先ほども目にしてきた館の破壊された様を脳裏にありありと描いて、溜息を落とした。
「お疲れ様でございました」
音が響いていたのだろう、くすくすと笑うの言葉に労いが感じられた。
「水をお持ちしますね。何かお食べになりますか?」
「握り飯が食べたい」
「はい。すぐに」
はにこりと微笑むと襷を掛け直して井戸へと小走りに駆けて行った。切り抜かれた色紙の一枚を手にとって日差しに透かす。和らいだ光に自然と頬が緩んでいた。
と一緒になってから四年が過ぎた。
忍の身には余るほどの恵まれた暮らしをしている。どれだけ疲れていても家に帰ればがいて、おかえりなさいと出迎えてくれる。軽い食事を支度し、温めた手拭いで体を拭いてくれる。傷の処置も慣れたものだ。いつまでもこの生活が続けばいいと柄にもなく願った。
は石女だ。それは共に暮らし始めてすぐに判った。忍が子を成してどうする、異人の合いの子は煙たがられるものだと思う反面、残念でもあった。佐助の心情を読み取ったが申し訳なさそうにするのがまた、二人を苛む。
佐助の背を拭きながら、ぽつりとが呟いた。
「佐助さんは、私が石女だからといって追い出しはしないのですね」
「なんであろうとはだろ。俺様は気にしない」
「ありがとうございます」
振り返って見れば、はにかんだと目が合った。長く伸ばした赤毛、首の包帯。チリリと痛んだ頭を押さえた。最近になって頻度が上がってきている。それも、の姿を見ると警鐘のように痛むのだ。
「どうしました?」
「いや、なんでもない……」
心配そうに掛けられる声、揺れる瞳に首を振った。
「おやすみになりますか?」
「そうする。もおいで」
「はい」
桶を流し場へ持って行ったり布団を敷いたりと細々と働くを、小さな灯が大きな影にしていた。ぼんやりとその姿を追う。頭痛の原因を追究しようとはしなかった。
佐助がまだ半人前の忍だった頃、さる屋敷に忍び込んだことがあった。
佐助よりも年長で一人前の忍が二人と、実働経験がまだ数回しかない佐助の三人だったと覚えている。任の詳細は知らされておらず、佐助はただ見張りを命じられただけだった。屋敷に忍び込んだ二人が手分けして中の捜索をしている間、警備の者や屋敷の者の動きに異変はない。
問題なく事を済ませた二人が引き上げの合図を出した。それに肯いて身を潜めていた木から体を起こす。
女と目が合った。
忍の姿を見た者は処分するしかない。二人は先に行っているから佐助一人でどうにかしなければならなくなった。舌打ちして両手に手裏剣を構える。相手は女、丸腰で警戒する様子もない。さっさと済ませてしまおうと、ジャキリ、と刃を鳴らした。
女が不思議な動きを見せた。結っていない髪をまとめ、首を示して真横に手を滑らせる。まるで、ここを切ってくれ、とでも言わんばかりに。
「……どういう気だ?」
佐助の問いに女は答えない。雲が晴れた。月は十六夜。
女の姿が月明かりに洗われる。赤みを帯びた髪、はっきりとした目鼻立ち、女にしては高い背、――奇妙な衣服、そう、南蛮人のもののような。思わず目を瞠り、女を検めようと近付きそうになったのも仕方がないだろう。
「ハヤク、クビ」
女の言葉にぎょっとした。手裏剣を投げると手許に重い感覚。スパンとはね上がった首は下草の茂みに落ち、大量の血を噴き散らしながらゆっくりと前のめりに倒れる体。これで生きてはいまい。それでも戻ってきた手裏剣の汚れを拭う間、女の体から目を離すことはできなかった。
「気味悪ぃ……」
一言吐き捨てて、佐助は再び雲が作った闇夜を馳せた。
――古い古い、夢を見た。
飛び起きて隣に眠るを見た。月夜にも赤い髪、異人の顔立ち、男とそう変わらぬ背丈、着ているものだけが違うが、夢に見た女は――間違いなくだ。ならばこの首は。
恐る恐る手を伸ばし、包帯を解いていく。現れたのは首を落とされたかのような醜く引きつった傷痕だった。思わず息を飲む。……が睫毛を震わせ、ゆっくりと目を開けた。灰色の瞳が佐助を捉える。
「……思い出したのですね」
ひどく悲しげに、は笑った。
言葉が出ない。何度か口を開いても、何を言えばいいのか判らなくて閉じてしまう。が身を起してきちりと佐助に向き直る。まとわりついていた包帯を取り去って、そっと傷痕を撫でた。
「殺された恨みを晴らしに来たんだな? ずっと機を窺っていた?」
詰問する形になってしまったのも仕方のないことだろう。だがは微笑んで否定した。
「私は昔、佐助さんに首を斬られました。ですが怨んではいません」
「あの時の女は確かに死んだはずだ。なのにどうして」
「それにお答えするには私が何者であるかということからお話ししなければなりませんね」
の話は、にわかには信じられないものだった。
「私は不老不死。死ぬことができないのです」
「不老不死? そんなバカな話があるもんか」
「そう思うのも無理はないでしょう。でも私はある年齢に達するとそれ以上年を取らずに老いることなく、病にもかかりません。――おかしいとは思いませんでしたか? 佐助さんと一緒になってから私は髪を伸ばし始めましたけれど、これ以上長くならないことを。病の気もないのに石女であることを。時が止まったように変わらない姿を」
言われて初めて、疑問を持った。チリチリと頭が痛む。知らず知らずのうちに考えないようにしていたのかもしれない。
「殺されれば死んでしまいますが、しばらくすれば赤子の姿に戻っているのです。千五百年。死ぬに死ねない体で世界を彷徨ってきました。この国に来たのは五十年は前になります。これまでのどの国とも違う言葉、食物、風土。好奇の視線。疲れました。楽になりたかった。赤子に戻れば少しはこの土地に馴染めます。だから、誰かに殺してもらいたかった……」
「俺が、殺したのは」
「間違いなく私です。月の明るい夜でした。長く山道を歩いて、ようやく見つけた屋敷へ向かっていたところで一人の少年と目が合いました。赤茶の髪の、大きな刃物を持っていました。彼の刺すような敵意に身を委ねれば楽になれると、それだけしか考えていませんでした。首を示せば、思った通り、彼は一刀の下に私の首を刎ねてくれました。お見事でした」
それが本当ならば己の身に起きたことであるはずなのに、淡々と語るにうすら寒さを感じた。あまりにも符合する身体の特徴、その時の状況。の話が嘘だとは思えない。それでも否定して欲しかった。
「嘘だろ……」
力ない呟きには謝罪が返ってくる。
「今まで黙っていてすみませんでした。佐助さんを騙すつもりはありませんでした。二度と会うことはないと思っていたのに、五年前のあの日……」
川で溺れたを助けたあの時が、初対面ではなかったというわけだ。
「二度同じ人に会わないと決めてからもう随分な時が経ちました。私の存在は異端です。人を巻き添えにするわけにはいきません。佐助さんのことはすぐにあの夜の少年だと判りました。私のことに気付いていないようでしたからそのまま別れて、近く町を出れば問題ないと思っていました。……でも、できませんでした。たとえ相手が覚えていなくても、私を殺した人であっても、私が長く忘れていた温かさを思い出してしまったのです。人との触れあいを」
「どういうこと?」
「不老不死であるということは人と異なる時を生きるということです。私から見ればほんの短い時を生きて死んでいく人々。親しくなった人も時に逆らうことはできずに私の前から去っていきます。いつからか人の生死や成長に心を動かされることはなくなりました」
「……」
苦しげに物語るに、制止のつもりで声を掛けた。俯いてゆるゆると首を振ったの表情は窺えない。傷痕も見えないことに、わずかに安堵した。
「佐助さんの成長した姿に、触れてくる手のひらに、人は温かいものだと涙がこぼれてきたのです。もっと話をしたい、共に居たいと願いました。たとえすぐに時が過ぎると判っていても、怪しまれずにいられる間はここで、と思いました。それがまさか、一緒に暮らせるなんて、思ってもいなくて……」
ボロボロと着物の膝を濡らしていく大粒の涙。が泣くのもやはり初めてだった。泣き方を忘れてしまっているかのようなをなだめるように抱きしめながら、背を撫でた。
「悪いけど、俺様には想像もつかない」
溜息雑じりの声に、ぐっとが身を固くした。
「寂しかった、辛かった、苦しかった、なんて言葉じゃ言い表せないくらい大変な思いをしてきたんだろうとは思う。でも、所詮他人事だ。今だって言葉半分にしか信じられない」
固まったままのに、辛辣だと思いつつも問い掛けた。
「俺は、の何? 不老不死のからすれば目の前を通り過ぎていく一人でしかないんだろうけど」
「佐助さんは私の……、私が今まで気が遠くなるほど長く生きてきた中で一番大切な人です。失くしたくない、離れたくない、できることなら同じ時を過ごして年を取り、佐助さんの傍で死にたい、二度と目を覚ましたくない……!」
は怯えるようにぐっとしがみついてくる。すうと目を細めて声を低くした。
「不老不死の秘密、教えてくんねーかな?」
そうすればの願いは叶う。そして佐助も、言葉通り不死の身を以て主が死すまで戦うことができる。双方に利があるのは明白だ。なのには悲しそうな目で佐助を見上げた。
「ありません。これまで何人もがいろいろなことを試しましたが、無駄でした。私の血を飲み、肉を食べても何も変わりません。……もしかすると、人魚の肉ならば」
「人魚? 作り話だろ?」
「でも、私は人魚の肉だというものを食べて不老不死になりました。はるか昔のことなので本当だったのかもしれません。まだ、神や妖怪といった存在が今よりも身近にありましたから」
それに、と先を続けるは困ったような笑顔で涙を流していた。
「佐助さんまでこんな苦しみを味わう必要はありません。人の生は短くても輝いているのです。誰もみな、平等に。たとえその両手が汚れていても、私は佐助さんが人であるだけでなにより嬉しい。人だからこそ、再び逢えた。温かさを思い出させてくれた。本当に、幸せです。だからどうか、そのままで」
そこにいるのはなのに、信じもしない神であるかのように見えた。不老不死であること。千五百年の時。の前を通り過ぎていった人々。それがを苛み、ここまで昇華させたのだろうか。
無言での涙を拭う。がそう願うのならば人で居よう、不老不死のの傍らに。
明かり取りの窓から細く月光が射している。昼間の暑さは影を潜め、部屋は月明かりに冷やされたよう。
細く絡まりやすいの赤毛を梳かしつける。少し上向いた首に齧りつくようにして傷痕に唇を寄せた。身を引こうとするを抱き寄せて甘く囁いた。二人の日々を決して壊させぬ呪文を。
「俺様が死ぬまで傍にいて。死んだら骨を一欠片持って行って。そうすれば俺はとずっと一緒にいられる」
「……はい」
灰色の瞳がこぼれおちるほどに目を見開いて、は破顔した。これからは、どれほどの時を生きようともは一人になることはない。
それは、眩暈がするほど幸福だと思えた。
2010/07/29
「眩暈」、「壊れもののような私たち」。どちらもとても心惹かれる言葉ですので、巧く話に織り込みたいと思いました。成功したかどうかは読まれた方の判断次第ですが……。
素晴らしい企画に参加させていただき、ありがとうございました。
よしわたり
2010/08/04 訂正