「……どちらさまでしょうか?」
 今日も一日元気よく、そう喝を入れて店頭の戸を開けて開店の準備をしている時でした。明いてもいない時間、つまりまだ陽も昇っていない、――今日も成都は曇りだけれど――、時間から店の前にぽつねんと好青年が所在なさげに突っ立っていたのです。湿気でほんのり髪がしおれていて哀れでした。
「あの、もう一度聞きますけれど。どちらさまでしょうか? 事によっては警吏を呼びますよ?」
 この商舗(みせ)使女(しようにん)になってから何年になったでしょう。それまで変な客は多かったのですが、こんな明けの頃からぼんやり立っている人には会ったことがございません。しかも、声をかけても反応なしです。呆れてものが言えないのはこちらでございましょう。
「もしもし。いい加減どいてくれますか? 貴人がこんな賎人の来るような店の前に立たれると、はっきりいって迷惑でございます。聞いてるんでしょうか?」
 どれだけこちらが何を言おうと青年はぼんやり立ったまま目も虚ろでした。ああもう、と唸ってから、私はこの男を引っ張って店の奥へと連れ込んでしまいました。自分より大きいし重そうだし、鎧に鑓さえ持っていたのに、引かれるままとてとてついてくる美丈夫に、(はらわた)が煮え繰り返る思いをしつつ。
「店長! 変な人が店頭にいて迷惑だったので尋問してきますね! 代わりに準備誰かにお願いしてくださいな!」
 通りがけに、籠一杯の野菜を抱えた主に男を指差しながら言いますれば、彼はまたか、と息を吐いたのでした。
「尋問で泣かすなよ。だが、金は取れ!」
「わかっております! では、後お願いします!」
 にっかりと店長と二人で笑ってから、私は建物の奥、小さい庭の井桁に座りました。開店準備に走り回る私と同じ使女たちや、廚子(りょうりにん)たちが見てきますが、尋問だといえば彼らはあっさりと納得します。たとえ相手が秦王政だろうと西施だろうと私の尋問には容赦がなく、きちんとした理由があるから、というのをみなさま理解してくれているからなのです。
 いささか、不名誉ではあるのですけれど。




 井から水を汲んで、木の器に入れて男に差し出しました。まあお飲みなさいな、と勧めても、彼はぼんやりと俯いたまま。短気ではございませぬが、こうも相手にされないとどんな聖人君子でもさすがにかちんとくるのではないでしょうか。
「あなた、ご立派なやんごとなき武将様でしょう? それがなんだって陽も上がらないうちからあんなところにいたのですか」
 少しだけ、怒ってますよ、というような言い方をしてみましたが、彼に反応はありませんでした。
「お城に行かなきゃならないのではありませんこと? 私は、この店の使女でございますわ」
 高官様の礼は知らないので、できるだけ丁寧に、――といっても、彼の頭の上からでしたが、自供(なのり)しました。
「見てのとおりここは庶民が飯を食うところ、つまりお城にお仕えになってる武将様の来るところではありませんよ。それで、あなたは?」
 無礼とは知りつつ、無理やりに頭を掴んで自分の方へ向けさせました。その癖、彼は目だけは逸らして私を見ようともしません。私のいらいらは最高潮に達してしまいました。
「お名前を教えてくれますかね?」
 地面にべたっと胡座した不審者の横で、露井(いど)の縁に腰掛けた私は、彼のほっぺたを両手で掴んで力いっぱい自分と顔を合わさせました。男で、しかも武人のなりをした奴に勝てるわけがないとは思いましたが、その根性を認めさせて何としてでも名前を吐かせなければ、との一心で。――後、金もですね。
 必死の様子にお手上げだと、彼は力を抜いて溜息を落としました。踏ん張っていた私はそのせいでよろけてしまいました。ぎりぎりと睨むと、不貞腐れた顔で彼は私を見たのです。
「覚えてないのか?」
「はい?」
「昔、荊州で我らが滞在していた時に世話になった者だが。貴方は覚えておいででないのですか?」
 突然何を言うのでしょう、この美男子は。それが顔面どころか体中に表れていたらしく、彼は見る間にしょぼんと肩を落とし、そうですか、と言ってまた黙りこくってしまいました。
「失礼ですが、私だって日に何十人も、忙しい時には百人と接客してるんです。いつものお客さまなら覚えておりますが……。いくら美人さんでも、さすがにそんな古いと忘れてしまいます」
「そんな……。貴方は『いつか無事に会えることがあればきっと受けた恩義を返す』と」
 すっかり意気消沈して言葉も尻すぼみな青年の肩を優しく叩いて、できるだけ不信感をさとられないように笑ってみせます。
「そうでしたか。ごめんなさい、あの時はとてもじゃないけど混乱していましたでしょう? 劉将軍だから私たちだってついてきたのですが、お顔も存じませぬ」
 ごめんなさい、と誠心誠意謝って、なんとか仕事に戻ろうと試みました。――美青年の目に涙が浮かんでいるのは、なぜかわかりましょうか。
「私は貴方に会えることをずっと待っていました。入蜀してからも城に上がった様子がなかったので、過酷な道程で亡くなってしまったのかと……。貴方が生きている、成都でいると聞いてからずっと探していたんです」
「はあ、どうも……」




 得意の尋問が巧くいきません。この男は一人で話を完結させてしまう種の人だったようであります。とりあえず貴人らしいので、今日の迷惑料をふんだくって追い返そう。そう決めて彼の眼を見つめました。
「悪いのですけれど、あの時のことはあんまり覚えてないのですよ。いろんな人に助けてもらい、私だって助けながらでしたから。荊州やもっと北からこっちに来た人だって多いですし、あなたのことは全然わかりません。ごめんなさい。――つきましては、思い出すことは努力しますので、今朝の突っ立ってた迷惑料を」
 いたって真顔で手のひらを見せました。ぱちぱちと形の良い目が瞬きをいたします。わからないわけでもなかろうに、と再度請求します。
「門前にぼうっと突っ立ってた、ってだけで変な話が広まっては商舗が困りますからね。その分先にいただくってわけです」
 さっきこの青年が言っていた恩義だのなんだの、少なくとも使女の私には無縁も無縁。だから銭をもらう、それがわからないのは裕福に肥えたお莫迦な豪族や高官連中だけございましょう?
「ああ……、そういうことなら仕方がないか。私のせいだしな。……足りるか?」
「はあ!? あんた、いやいや、あなた、何者!?」
 ずしりと渡されたのは、三貫はある貨銭。重くなった手と、武将の顔を交互に見て、私は絶叫した。つい、物言いが悪くなってしまいました。
「貴方を、ここから連れ出すための資金ですが。足りませんか」
 あいもかわらずぼんやりしたような、世俗とはかけ離れたような美丈夫は、小首を傾げて、親はいないのでしたね、と話を進め始め出します。
「何を言ってるのです! 私はここの生活が好きなのでございます! 苦しくないといえば否定できませんが、……とりあえず、このようなもの受け取れません!」
「おうい、。飯の仕込みに入るから廚房手伝ってくれ、……ってまだやってたのか。しかもなんだその大金」
 さっきもそうでしたが、店長はどうしてこう、気まずい時に限って現れるのでしょうね。金と美青年を示して泣き付きました。
「店長! この男が私を買うと、おっしゃいます!」
 天は日頃からしっかりはたらく私を助けてくれる、と思っていたのはいつの頃でしたか。……遠く、小子の頃でしたね。
 店長の目が金の束に眩んで、彼はそれは素晴らしい笑顔で私を見ました。
「そこの貴人、こいつは料理から洗濯、掃除までやってのける逸材だよ! 言葉もすっかり成都の人だが荊州からの流れ者でね、住む処もなくして困ってたのが手に仕事を見つけてしぶとく生き残ってんだ。いい使女なんだぜ!」
 がはは、と笑って店長は私の手から銭の束をひったくると、歯が光るほど爽やかに笑って消えました。安いものでございます、私の命は。ここまで頑張ったのに急にお払い箱と、あいなりました。
「明日から、どうしましょう……」
「私が買ったよ? さあ、荷物をまとめておいで。その間に店主とは話をしておこう。善は急げというしな」
 力の抜けた顔でへらへらと笑って、好漢は店主のいる廚房へと向かっていきました。話が、急に過ぎやしないでしょうか。一つずつ整理して行きましょう?

 まず、あの人は荊州から、いや、もっと前から今の蜀主さまに従ってきた武将なのはわかりましたね。
 そこで私と会って、どうも恩義とやらに感動して成都に入ってから探していたらしい、とのことです。
 運良くここで見つけたはいいものの、私が門前の掃除をする日を見計らって暁から待ち伏せをしていたようであります。
 ……こういうわけで、成都一はたらき者の娘と自負していたは、がめつい店主にあえなく売られていくのでありました。




「ちょっと! これはいくらなんでもひどすぎるではありませんか!」
「店主と話はついたよ。荷をまとめてないじゃないか。早くしてきてくれるかい?」
 独りの叫びは問題の青年に丸聞こえ、しかも冷静な指摘までされてしまいました。
「なぜ私なのでございますか。武将さまには豪族の娘さまがつくとお耳にしております」
 腰に手を当て、仰け反って見上げて威張って言えば、彼はくすくすと笑っていました。それはきれいに。
「恩義を返してもらうんだ。私の邸ではたらいてもらいたい。そうだな、私の妻としてはどうだろう」
 ごくごく当たり前、といった顔で見目麗しき将軍は肯きました。目も口も開けっ放しにして、私は茫然とその言葉を繰り返す他ありません。
「……妻? ――あの、――頭は、――動いてございますか……?」
 私の言葉をさらりと流し、にっこりと、女なら誰でも惚れそうになるとろけそうな笑顔を浮かべて、美丈夫はきっぱりと言ってくださいました。
「私は趙雲、字を子龍と言います。私も生家は常山に、家族とも離散したも同然。殿は認めてくれるでしょう。だからきっと、貴方を迎えに行くつもりでした。遅くなってすみません」
「面識のない男に嫁ぐなんて貴族じゃないんだから!」
 私の精一杯の、反抗の言葉の壁は、いとも簡単に破壊されました。
「庶民と武官、それだけでは?」
 珍しく雲間から太陽が覗いてきました。いいでしょう、受けて立ってみせましょう、この
「それでしたら、家僮(めしつかい)としてまず雇ってくださいますか? 妻やら妾やら、そのような位に興味は全然ございません。衣食住の保証があればよろしゅうございます」
「ほんとうに!? ありがとう、。貴方が私の邸ではたらいて、慣れてからでいい。殿も喜んでくださるに違いないだろう」
「衣服と、飯と、住むところは!」
 ぼんやりと遠くを見てぶつぶつ言い始めた男をがくがくと揺さぶりながら問い質します。こちとら命がかかってるんだから、必死にもなりましょう。
「安心してくれていい。私邸を与えられたのだがあまり使っていなくてな。好きに使ってくれるといい。私も城での寝泊まりは止めて毎日帰るよ」
「そうですか。では、邸を売り払ってその金で細々と生活させてもらいます」
 ぼうっと夢を見ているから、聞いてないんでしょうと思いきや、彼はものすごい勢いで首を横に振りました。聞いていたのですね。後ろ髪がぶんぶんと音を立てています。鬱陶しいと思うので、家僮となった時には、まず切って差し上げたく思います。
「だめだ! 君は私と住むんだ。そして少しずつでいい、約束した時のことを、……思い出せなければ一緒に思い出を作っていこう。、私の妻になってくれるね?」
 顔良し、見目良し、武名も良し。なのに、どうしてこれほどまでにげっそりしなければならないのでしょうか、結婚を申し込まれて。体中の息を吐き捨てて、どうしようもないのですねと彼を見上げました。
「名前だけは存じておりまする。『常山の趙子龍』でございましょう? こんな庶民の娘を捉まえて何をなされておいでなのですか。蜀主さまが泣かれますわ、これでは」
「殿も君も泣かせはしない! さあ、今から城へ向かおうか」
 有無を言わさず腕を引かれて、私のほんの少ししかなかった私物を布に包んで背負わされます。そのまま乗り心地のものすごく悪い、馬という生き物に乗せられて成都城へ連れて行かれました。




 その後、いや、その前から気付いてはいたのですが……。趙子龍は武将としては最高の人材でございます。これまでの武名は誠の事。戦のたびに武功を上げて帰都なさりますのですから。
 ですが、人としては誰かが手綱を引き絞っておかねばどうしようもない、奴でした。――その度に私は怒鳴り、彼はへらへらと嬉しそうに怒られるのです。
 その他の人の前では別人のように落ち着いていて、強く頼りがいのある武将だと言われている癖に。
 ああ、哀れなは、『常山の趙子龍』という名の、詐欺にあったのでございました。









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2008/06/06
2010/05/07 訂正
よしわたり



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