宵に入った城内を歩いていたところ、夜の宮城では嗅ぐことのない蓮芯茶のような香りを感じた。おや、と陸遜は足を止める。と、背後からくすくすと控えめに笑う女の声がした。そちらへ顔を向ければ、古風な赤い衣裳を着た若い女がすらりと立っていた。
 みどりの黒髪に杏の種子のような大きな目、すっと通った鼻梁も形良く、赤い小ぶりな唇が弧を描いている。玲瑯たる女からふしぎに漂う花の香り。女は音もなく歩みを進めて、陸遜の前で美しく表情を緩めた。
、時と場は考えてくださいね」
「誰もいないわ? 久しぶり、伯言」
「今年も咲いたのですか」




 と呼ばれた女は、自邸の園亭から池を見ていた陸遜の前に初めて姿を現した時に荷花の仙女だと自ら名乗った。なにが仙女ですか人を揶揄するにしてももっとましな偽りを考えてきなさいと端から相手にせずにいた。ところが後日、近郊の池に咲いていた白い荷花のあるところで、白い衣裳をして突然に現れた。これでいかが、といたずらっぽく細められた双眸に、陸遜は幾度か瞬いてこくりと頷いた。

 それからというもの、蓮の花が咲き誇る時期になってはは決まって陸遜がひとりで居る時に現れた。何をするでもなく座っていたり草木を愛でていたり、古歌を口ずさんでいたり。音もなく姿を見せるのと同じように、ふと気付けば姿が見えなくなっていることもある。そんな時は必ず誰かが来るのだ。は陸遜以外には存在を知られたくないのか、他人がくるとすぐさま煙のように消えてしまう。淡く漂っていた香りも水面に波紋の広がる柔らかな声も、まるではじめからなかったかのように。

「城内の池では赤が綻んだところよ。だから、こうして姿を見せられるの」
「それは、明日にでも見に行きましょうか。そうすればきっと満開でしょうからね」
「ありがとう」


 こつこつと地を踏んで歩く陸遜の足音と耳に心地よい女の囁きだけが、帰城の騒がしさが収まりつつある呉城の一角に響いていた。は地に足を付けず声量も人のそれよりはるかに微かなので、人の気配にが姿を消したところで陸遜を見るものは、にこりと微笑む彼しか目にすることはない。

「早く多くの色が咲けば、彼方此方のあなたの株が花咲けば。どこでだって会えるのに」
「ふふ、もう少し先になるかしら」
「あなたに早く会いたいという男の言葉に少しは心動かすことはないのですか」
「だからといって私はどうすることもできないもの。その言葉だけで幸せよ、伯言」
 すう、と横に並んだは優しげな表情で白くたおやかな手を陸遜の頬へすべらせる。瞬きをひとつ、―― は消えた。

「軍師さん、こっちは終わったぜ!」
 ちりりと鈴の音がする。遠くから、城内の哨戒を終えてきた甘寧が陸遜に向って叫んでいた。
「ありがとうございます、甘寧殿。それでは我々も帰りましょうか」
「おう! じゃ、先に帰るからな」
「はい、また明日」
 おうよ、と片手を挙げながら去っていく男を見送って、陸遜は報告へ向かう。今日の宿衛へと変わりない事を伝えて書冊に記名する。ぴしりと会釈をした宿衛に目礼すると、自室へと戻るために来た道を引き返した。

 ――帰るにしても、私邸は与えられたばかりで落ち着かない。家人も少数しか雇っていない。今日はこれまで使っていた官舎で休もうか……。
 ぼんやりと考えながら中庭沿いの回廊を歩く。どこへ行くのも遠回りになってしまうせいで普段から人気のないそこを、陸遜は思考に沈みたい時によく使っていた。
 ――なにより、私邸にはまだの株を分けてもらっていない。

 嗅ぎ慣れた香りがふわりと舞う。
「伯言、帰らないのね?」
「わかりますか。どこかから株を分けてもらいたいのですがね。どこがいいですか?」
「そうね……、少し見て回ってくるわ。なにせ私は老年だから増えた子孫が多すぎるもの。近くで有望な子を探してくるわね」
「よろしくお願いします。その際は手ずから引き取りに行きますから」
「あら、光栄」
 くすくすと笑う花仙はとても喜んでいるから、陸遜もつられて微笑む。
 四時の夏仲から季にかけてしか会えないというのに、陸遜はにすっかり気を許していた。が陸遜をとても気に入ったと云い、花の咲く間付きまとっては話をするようになって、幾年経っただろう。
 幼学を過ぎた頃からの姿は変わらない。陸遜はもう十七、呉に仕える軍師となった。は変わらぬ姿の荷花の仙だった。




 陽が落ちるのも遅くなってきたとはいえ、さすがにもう灯りなしでは暗い。手燭に火を貰ってきて室内に置く。あたりをつつむ香りを楽しむように大きく息をつき、陸遜はに声を掛けた。
「私はもう寝ますよ?」
 窓から入る虫の音や夜鳴きの鳥声に耳を傾けていたが、驚いたように目を瞠る。
「早いのね」
「明朝、暁鐘の前から出なければならないので」
「軍師様は大変ね」
「ええ。……あなたは変わらない。それが羨ましいけれど私だけが先へと進んでいるようで、寂しさを覚えます」
「それが花仙というものなのよ。お休みなさい、伯言。寝付くまでここにいるから」
 は寝台の隣に椅子を持ってきて、横になった陸遜の頭を撫でる。幼い子にしてやるような優しい手。

 灯りを落とした室内では、の姿は輪郭しか判らない。柔らかな気配と芳しい花の香りだけがの存在を証明している。
「……あなたが好きです、と私が言ったらどうしますか?」
「仙に思いを抱くのはお止めなさいと、昔言ったでしょう? 良い人が必ずいるわ」
 さわりと空気が揺れて、が苦笑しているのがわかった。呆れるような窘めるような物言いに、陸遜は目を開ける。人とは異なった薄さでありながら人としか考えられない穏やかな気配。
「花仙と自らを戒めているのはあなたでしょう? 私が成長するにつれ、姿を見せる回数が減ってきた。……抱いてはいけない情があるのだと判っているから、」
「伯言」
 穏やかながらも強く名を呼ん陸遜の言葉を遮る。の声が、いささか硬質な響きを持っていた。
「それ以上言わないで。私は株がある限り花が咲く限り存在することができるけれど、人である伯言は有限の時を生きているもの。だから、望んではいけないのよ」
「私はもう、加冠もすぐです。呉に、孫家に認められつつあるのに、あなたはどうして私を認めてくれないのですか」
「ずうっと、人の世を見てきたから。王朝の治める時代も、戦乱の時代も。私は悲しかった。秦王が皇帝を名乗り、落ち着くかと思えばすぐに倒れて、ようやく漢王朝が華夏を平定してくれた。でも、また、戦乱の時」
「だから、何だと言うのです」
「……伯言のことは、好きよ。でも、それは人の情とは異なっていると、判ってくれるかしら?」
「わからない。は、あなたは、私がどれだけあなたを好きか知らない」
 それきり、陸遜は寝返りを打つと壁の方を向いて口を利かなくなった。所在を失った手を膝に置いて、 は悲しげに微笑んだ。
「人の情は、どうしても判らないの。ごめんなさいね。伯言……」




 蓮の花の香りと一緒に消えた気配に瞼を伏せて、の不在へ溜息を落とす。だがそれは、落胆の色ではなかった。
「いつもそう言って逃げるんですね。――でも、私はきっとあなたの手を捕まえてみせるから」









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2008/06/17
2009/08/01, 2009/11/01 訂正
よしわたり



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