「徐晃殿」
許昌城の回廊を歩いていた徐晃を呼びとめる者があった。特に急ぎの用はなかったか、と思い、徐晃はその声に振り返る。
姿は軽装の女。だが、戦争では敵も味方をも震え上がらせる剛の者、――だった。
「どうなされた。殿から話しかけてくるとは。明日は槍でも降るのか」
「なにを言っているのです、私が口を聞いたらいけないのかしら?」
からりからりと笑いながら、は徐晃の隣へと足を進める。長身の徐晃と並んでも、それほどの差が見られない。なにせ、は傾国の美女、甄姫よりも遙かに背が高く、将卒の中でも抜きんでていた。嫁に入るには難しく、そうかと言って漢代からある家名を捨てることもできない。そしてが選んだ道は、魏の兵への志願だった。いずれ、女武将になってみせる、と家族に言い置いて。
初めはそれほど武芸を得意としなかったのが、鍛え上げられて今は将軍職にある。その成長ぶりには目を瞠るばかり、魏は重い武器を得物とする武将が多い中、彼女は槍手として名を馳せるまでになったのだ。
「そういうことでは。拙者は、貴公が会議の席や陣門でしか話をするところを見たことがない。少し驚いただけでござる、気を害されたのなら謝ろう」
堅苦しい言い方は徐晃の性格そのままだった。はさらに笑みを深くして、彼を見上げた。
「私が話しているのを徐晃殿が知らないだけです。――これから修錬へ行くのでしょう。私もなので、手合わせ願いたく」
軽く長揖してが言う。難しい顔をさらに眉寄せて、徐晃はを見下ろした。
「そう言って拙者に一騎打ちを挑み、貴公が勝利したことはござったか? 力量の違いすぎる相手との勝負は、好まぬ」
申し訳ないが、と断りを入れようとした徐晃の腕を、聞いていなかったとでも言わんばかりに、はしっかと握って練兵場へと向かっていた。
「殿! 拙者は断り申した! いったい何度敗北すれば気が済むのだ!」
「幾度負けても、魏一の敗将と笑われようと、私は徐晃殿に挑むのを止めませんとも」
目的地は同じとなれば、腕を引かれながらもついて行かざるを得ない。徐晃は御免、と腕を振り払うと、と並んで歩きだした。満足げに口の端を引き上げたに理解できない、といった顔をして、前を見たまま声を掛ける。
「理由を聞かせて頂いてもよいだろうか」
同じく前方に遠く見え始めた練兵場を見ながら、は答えた。
「聞いたところで判らないでしょうね、徐晃殿は。……私が貴方の下に配属された時から、将に昇り詰めた時、そして貴方が私を武将として認めてくれた時。時間さえあれば上官であった、同僚となった、武の道を共に行く者と認めてくださった貴方に戦いを挑み続けることなんて」
それは独り言に近かった。徐晃が聞き取ろうにも、兵の鍛練の音が大きくなって途切れ途切れにしか判らない。は先に兵刃を納めている武庫へと向かい、兵衛と話をしていた。
「失礼。鍛練用のではなく、実戦用の武器をいいかしら? 私のと、徐晃殿のを」
「また、ですか? 武庫管長に怒られるのは殿なのですよ?」
呆れたような武庫衛の声に、苦笑しつつが早く開けて、とせっつく。
「もう書冊がもったいないから、と口頭でお叱りを受けるようになってしまったわ。私が兵卒から将軍になっても怒るあの人のこと、嫌いではない」
「それ、管長にお伝えしておきますね」
「また怒られるでしょう、それでは。嫌いではない、を好き、に変えて言っておいて」
「はいはい。お待たせしました、どうぞ」
旧知の者なのか、がよく話す。彼女が徐晃の部下にいた時は上官と下官ということもあり、滅多な事ではと会話をすることがなかった。そのため、徐晃はそれを珍しげに遠目に見ているだけだったが、兵衛が拱手したのでそれに応じた。
「徐将軍も、お取りください」
「そなたには殿に代わり礼を申す。……よく話すようだが、知り合いなのでござるか?」
武将に頭を下げられて惑乱しかけていた彼は、が武庫の中で自分の槍を手に取っているのを見て、こっそりと徐晃に耳打ちした。
「同期で兵に志願したのです。ですがは徐将軍の下でめきめきと腕を上げ、将軍にまでなってしまいました。――でも、そんな関係ではありませんからご安心くださいませ」
が己の槍を手に戻ってきたと同時に、兵衛はさっと徐晃に頭を下げる。の独り言といい、この男の言といい、徐晃にはどことなく齟齬が感じられた。黙って自分の武器である大斧を取って武庫を出、練兵場へとと連れだって向かう。
その微細な違和が何なのかは、徐晃には理解できなかったのだが。
練兵場では張コウの隊が鍛練を行っていた。いつもの、不思議な振り付きで。
「そこ! そうではありませんよ! こう、です! こう!」
びし、と不自然な形で固まる張コウに、兵は呆れた様もなく、はい、と同じ動きをしてみせた。
「いいですね!」
ほう、と美しい溜息を吐いて、張コウは全体を見て回る。遠くから見ていたと徐晃には気付いていないようだった。
「あれは、どうにかならないのでしょうね?」
「殿がお認めになられてしまったのだ。『強いのだから構わぬ。おもしろければ猶の事よかろう』、と」
「殿の御心はご理解しかねるわ」
二人して、この場にいない魏主曹操について語り合う。聞く者もなく、少しくらいの不平は許されるだろう。夏侯惇ほどいつも怒鳴りつけているわけでもなし。ところが、後ろから、――正確には、背後の廊閣上から――、笑い声が上がったのだった。
驚いて振り向いた二人の目に入ったのは、まさに話題に上っていた魏主、曹操だった。慌てて畏まって礼を取る二人の許へ、悠然と歩いてきて、彼はさらに笑った。
「ぬしら、わしを何だと思っておるのだ? 張コウはあれだが、強かろう? 理解しろとは言わぬがな」
先に口を開いたのは徐晃だった。
「殿がおられるとは存じ上げず、無礼を! 申し訳ございませぬ!」
「よい、わしがふらりと現れるのはいつものことであろう? 気にするな。まあ、罵詈雑言でも口にしておれば別だがな」
「そのようなことは、決して! 殿の御心を、察することができればと思っただけにございます」
も平伏して、謝罪を述べる。それにうむ、と応じると、曹操は怒ってはいないような声色で、面を上げい、と二人に言ったのだった。拱揖して、顔を見せた徐晃との目に映ったのは、非常に楽しそうな表情を浮かべた魏主だった。
「また、魏一の敗将が武人の鑑に挑むのであろう? どこからともなく話を聞いてな。こうして見にきたのだ。、今日こそは勝利せよ」
曹操の言葉に、がぱっと顔を明るくする。
「はい! 殿の御前で徐晃殿を討ち伏せてご覧にいれましょう!」
「ほう……、やってみよ。さて、張コウの軍も練兵を終えたようだのう。行くか」
先導を取ったのは、曹操。は、と徐晃が続き、はい、とがその後を追う。練兵場では、兵を解散させていたようだったが、張コウは残っていた。曹操に優雅な礼を取って、後ろの二人に目を遣ってくすり、と笑んだ。
「殿、これは?」
「わかっておろうよ。どうするぞ、おぬしも見ていくか?」
「ええ、もちろん。……殿、応援していますよ」
ふ、と微笑んだ張コウは、徐晃や曹操の知らぬところでとなんらかの話をしていたようだった。くす、と微かに笑みを見せて、が答える。
「ありがとうございます、張コウ殿。此度は必ず」
「なにかあるのか?」
曹操が興味を見せたところで、張コウがくるりと一回転して、私達の秘事です、と美しい姿と笑顔を見せた。むう、と唸った曹操は追及を止め、既に話に入ることすらできなかった徐晃は、の次の一言で漸くにその中に入ることができたのだった。
「徐晃殿。対等の将として、が手合わせ願います。いざ」
「……貴公の武、拝見させてもらおう」
距離を開ける大斧の徐晃と槍の。遠巻きに見る曹操と張コウ。
こうして舞台は、整った。
大斧と槍では、そもそもの破壊力が違いすぎる。そして、男女の力の差は覆すことが出来ない。どれほどが腕を上げようと、武将としての極致を求め続ける徐晃には到底及ばない。
にもかかわらず、だ。は徐晃に手合わせを望む。他にも魏には将が多いというのに。が初めに兵卒となった時に上官だった徐晃の武に感嘆したから、というのも一理ではある。――しかし、それは理由の一つに過ぎない。
じりじりと、武器を構えた二人の距離は縮まることなく、ずれていく。一瞬、二人の動きがぴたり、と止んだ。
「ハアッ!」
飛び込んだの槍鋒が徐晃の斧によって防がれる、だが、彼女は幾度か連続して攻撃を打ち込むと、反撃の動きを見せた徐晃からさっと身を引いた。
「見事!」
槍の構えに一分の隙もなく、再び徐晃を睨むに、徐晃は一言告げる。
「参る!」
大斧が軽々と振り回される。一撃でも当たってしまえばは軽く飛ばされる。重傷を負うことだってあるだろう。鋒芒で徐晃の攻撃を読んで全て受け止めているの顔には、ありありと苦戦の色が浮いていた。
「退くのだ! 己の力量をわきまえよ!」
徐晃が攻撃の手を休めることなく、に叫ぶ。ぐう、と唸ったは徐晃の攻撃を一息に弾き返した。まさか、との表情が徐晃に見えて、二人の距離は離れる。
「まだ、終わりません! 今日こそ!」
「その武、日を増すごとに成長してござる。故に、拙者も武を尊ぶ者として応じたい!」
「ありがたきお言葉。ですが、それは武にて示すものでしょう!」
息を整えたが、槍を持ち直した。始めと同じく突きを繰り出すもの、と徐晃が大斧を構えようとした瞬間。
「ヤアアッ!」
「ぬうっ!」
槍を地面に突き立て、その勢いのまま飛び上がると、地に刺さった得物を引き抜いては徐晃の頭上に狙いを定めた。
「これでッ!」
ざく、と音がした。
「……感服つかまつった、殿」
静かに、徐晃が声を発した。大きく喉を動かせば、槍鋒だけを握ったによって切り裂かれるだろう。――決着はついた。
は、槍幹を囮とばかりに斧で断ち切らせ、短く持った槍鋒だけを徐晃の喉許に突きつけたのだった。
「、よくやった!」
「やりましたね! 殿!」
遠く、曹操と張コウから掛けられた言葉に、ほっとが気魄を緩めた。握っていた武器を地に落として、は拱手する。
「手合わせ、ありがとうございました。初めて貴方に勝つことができました、徐晃殿」
「見事なり、その武。しかし、奇襲に近いその技は戦場では使えぬでござろう?」
「言われてみれば。その時は、落ちている槍でも拾って戦えばよいかと」
一気に疲れが出たのか、ふらり、とよろけそうになったを慌てて徐晃が支える。
「もう少し体力を付けるのが先決でござるな。修練を怠ることのなきように」
「……はい。お恥ずかしい限り」
軽く頭を下げて、は二つになった自分の槍を拾うと、己の足で曹操と張コウの傍へと向かう。その後を、大斧をもった徐晃が続いた。
「魏一の敗将の名は返上せねばのう、」
にんまりと笑う曹操に、深く頭を垂れて、は嬉しげな声を出した。
「はい! 先の言葉を殿の御前にて叶えられました、光栄にございます!」
「うむ」
頤に手を当て、満足したり、と肯いた魏主には、遠くお目付け役の叫びが聞こえてきたのだった。
「おい、孟徳! 貴様!」
その怒声に慌てることもなく、曹操は笑う。
「おお、いかん。見つかってしまったようだ。今日はが初勝利よ。その旨、巧く伝えよ」
拱手したも、少々笑みがこぼれている。ふ、と表情を厳しくすると、硬い声を出した。
「御意」
何か企んでいる、という曹操の顔はまるでいたずらを試みる小子のよう。くすりと笑った張コウと、変わらずの徐晃がそれに揖譲した後。
のしのしと朴刀を腰に刷いた眼帯の男が、四人に近づき、彼の視線はそれぞれを一巡して、探していた対象へと向けられた。が、すぐに吐息と共にそれは逸らされたのだった。
「さて、どういうことか説明をしてもらわねばならんが。……ふん、そこの三人に聞いたところでどうせまともな答は返ってこんな。、何があったのだ」
「はい。いつものように私が徐晃殿に一騎打ちを挑みました。結果、私の初勝利に終わりましてございます」
それを聞いた夏侯惇は片目を僅か見開いた。常に徐晃に勝負を挑み、敗北を喫し続けていた魏一の敗将。それがの通名であったからだ。感嘆の息をこぼして夏侯惇はに労いの言葉、らしきものを掛けた。
「お前、ようやくにして勝てたのか。……観衆が居てもおかしくはないな。だが、その得物はなんだ?」
真っ二つになった槍を見て、夏侯惇が呆れ果てる。くくく、と曹操が笑い、徐晃が苦く笑った。
「おぬしも見ておればよかったものを。なかなかのものであったぞ」
「戦場の華とは言い切ることは出来かねますが、素敵でしたよ!」
「いつのまにか、我が武を見切られていたようでござる。拙者もさらなる武を磨かねば」
三者三様の称賛に、が畏れ多い、と小さくなる。兵卒からの叩き上げだ、こうした将軍に囲まれるのもまだ慣れてはいないのだ。
「そうか。よく判った。の初勝利を祝って、孟徳、お前は魏主の印を押す仕事に引きずって行くぞ」
「ぬう、夏侯惇……! 勝利には宴席と決まっておろう!」
「宵になってお前の仕事がすべて済んでいたら、将を集めて祝宴でも催せ」
そのためには、きっちりと働いてもらうぞ、と夏侯惇が半ば脅しをかけるのは忘れずに。ぐうう、と呻った曹操は、声を張り上げて主君らしく、――言うことはそうでもなかったが――、告げたのだった。
「おのれ! 夏侯惇よ、この難局打開してみせようぞ! 司馬懿に伝令だ、急ぎ将軍へと夜宴を伝えよと。なに、簡素で構わん。ただし、主旨は『が徐晃を打ち破った』だ。さぞかし楽しみよのう!」
こうなってしまえば、誰も逆らうことが出来ない。夏侯惇と、使い走りにされる司馬懿に少々の同情を抱いた三人が、断ることのできなくなってしまった宴会に視線を交わす。
「お前というやつは……! そうしたければ仕事をせんか!」
「では、忘れるでないぞ。よ、常の武人の姿ではなく、着飾って来い。わしからの命だ」
ずるずると曳かれながらも偉そうな口ぶりは変わらない魏主。苦笑しつつ、は深々と頭を下げて拱手した。
「御命、拝しました。――それでは、後ほどにて」
徐晃と張コウも拱揖して二人を見送った。
残った三人で、声も上げずに苦々しく笑みを浮かべるしかなかった。思い出したように、はたとの両手を取って、張コウが満面に笑顔を見せる。
「そういえば! とうとう念願叶ったのですよ!?」
はっとして、も、彼の握った手を上下に振って喜色を表した。
「そうでした! 殿と夏侯惇殿のせいで忘れていました!」
二人のあまりの喜びように、徐晃があの、と小さく声を掛けた。
「何の話でござるか?」
それはそれは愉しげなと張コウが顔を見合せて、徐晃を見た。二人はくすくすと笑うと、だけが徐晃に向き直った。
それから、が畏まって徐晃に軽い揖礼をした。穏やかな神情をまとった姿で。
「徐晃殿。これからお話があるのです。――お時間をくださいますか?」
「貴公は拙者を初めて打ち破ったのでござる。話すことも多々あろう。これから、……殿が呼ばれる前に貴公がその、着飾る時間までなら、よいが」
「お気遣い、痛みいります。では、私の荒れた官舎でもよろしいでしょうか」
いくら武将とはいえ、女の官舎。ぬう、と徐晃が困惑しそうになる前に、張コウが助け船を出した。
「私はこれから殿に合わせる優雅に華麗な衣裳と装飾品を持って、夕刻には彼女の官舎を訪れましょう。それならば、徐晃殿も悩まれることもないでしょう?」
「ありがとう、張コウ殿。家名があったとて兵からの成り上がりの私ではとても衣裳をそろえられません。よろしくお願いします」
「おまかせを! 殿を美しく! 華咲かせてみせましょう!」
張コウはそれはもう素晴らしい速さで去っていった。長身の女に合わせる衣装など、そうそうあるはずもない。彼は彼なりに、を――その内情を――、知って事ある毎に手助けしてくれた。そのためか、上官であった徐晃よりも色々と話をするようになっていたのだった。
「張コウ殿とも、懇意にしているのでござるな。……拙者は貴公のことを何も判っていなかったのかもしれぬ。兵卒として参じたその時から」
ぽつり、とこぼした徐晃の言葉に、は首を振る。
「それは、これから話しましょう。……ひとまず、この兵刃を片付けに武庫へ行きましょう? 私はものすごく怒られますけど」
両手に持った、それは見事に二つに分かれた槍を手にして、は力なく笑った。徐晃もつられて小さく笑う。ぱっとが顔を上げて、彼を見た。
「徐晃殿、今、笑った?」
「なにか失礼がござったか?」
ゆっくりと歩を進める二人は、会話も歩幅と変わらない。まだ太陽は天頂を過ぎて一刻程。夕には、張コウがを着飾る時間までは、まだまだあった。
にっこりと徐晃に笑って、は少しだけ高い彼の顔を見上げた。
「私は、徐晃殿が笑われる姿を初めて見ました。……ふふ、これだけなのに」
それ以上、は何も言わない。徐晃も黙ったまま、武庫へと向かった。
案の定、こっ酷くは兵衛に怒られ、武庫管長に書簡で通達をされると言われて大仰に嘆いていた。
徐晃が、の言葉の真実を知るのは、その後の僅かな、ほんの数半刻だった。
「確かに、荒れた官舎だと……」
「すみません。掃除をするくらいなら徐晃殿に負けぬよう、と武を磨こうと思って、ですね……」
呆れたように戸口から堂室の中を見る徐晃に、は恥ずかしさで言い訳をなんとか探そうとする。それもそのはず、堂の隅には蜘蛛が巣を張り、塵芥が積もっている。いつも使っているのであろう堂から奥、寝所への通り道だけは足跡が残り、少し扉の開いた寝所からは衫子が積まれているのが見える。
「……これでは、拙者の官舎がまだよいでござる。扉に張コウ殿への書き置きを残して、参ろう」
少し慌てて、は言葉を発した。
「よいのですか? 私などが訪れても」
「ここは、話ができる場所ではござらん」
呆れて徐晃が溜息を落としただけで、ふわりと埃が舞った。二人して咳き込む。ばたん、と勢いよく扉を閉じると、が頭を下げた。
「……申し訳、ありません」
しょぼくれて、扉に石墨で『我在官舎徐晃殿 』と殴り書きをする。先を行く徐晃の後を、情けない表情のがついて歩く。は道中ずっと、顔を見られたくない、と俯いていた。女官にさえ掃除を断られてしまった、脱ぎ棄てた衣服が臭い、とぶつぶつ言っているのが可笑しくて、徐晃は微笑を浮かべていたのだが、後を行くはそれを知らず。
「ここが拙者の官舎でござる。殿、入られよ。先ほどよりは幾分ましかと思うのだが?」
示されたのは、卓に椅子が二脚、左右の奥の小室に繋がる扉があるのみ。整えられた堂内は、のものとは比べ物にならぬほどに磨きあげられているかのようだった。
「幾分ではありません! 私の処とは雲泥の差です!」
驚きに眼を瞠ったが堂内と徐晃を交互に見て、珍しく興奮していた。今日は徐晃の知らないの姿を見せられている、と彼は苦笑してばかりだった。
「物がないと言われたことも気にならぬほどに、頼もしい言葉を頂戴した」
「では、失礼します」
軽い礼をして、は徐晃の後から堂内に入る。何もない。書物も衣裳を収める家具さえも。きょろきょろとしていたに、徐晃が椅子を勧める。
「座られよ。拙者に話があるのでござろう?」
「――はい。その、……徐晃殿には、私が貴方に勝利をしてからお伝えしようとこれまで思ってきたことを」
奥には徐晃が、向かいにが座って、彼女は、ぽつりぽつりと話し始めた。
兵卒になったこと、徐晃の軍で彼の武への熱意に自らも人一倍鍛練を励むようになったこと、そうして、彼の副将となり、時間は掛ったものの、将軍へと召しあげられたこと。
同じ武の道を行く者として、徐晃が目を掛けていた兵が、将軍になったのは栄誉ではあるが、が将となってまでも徐晃への勝負を挑み続ける理由は話さなかった。
一度間を置いて、は深呼吸をする。ふと徐晃と合わせた顔には、迷いが一切見られなかった。
「徐晃殿、私が貴方にお伝えしたかったのは――、貴方を、ずっとお慕いしていたことです。ご存じなかったでしょうね。……だからこそ、私はずっと貴方に挑み続け、魏一の敗将と言われても貴方に勝って、この思いを伝えたかったのです」
うっすらと微笑んだは、武人ではなく、恋をする女の姿だった。
それは、――衝撃の事実だった。
少なくとも、徐晃にとっては。同時に、彼には、これまでの何もかもが腑に落ちた感もあった。
の独り言、武庫衛兵の耳打ち、張コウとの遣り取り、そして、いつまでも徐晃に挑み続けるの執念。
「そうで、ござったか……。拙者は貴公の思いに何一つ気付くことなく」
「気付くはずがないと、思っておりましたもの。ですから、私は徐晃殿をお慕いしたのです。……答えを、お聞かせ願えますか?」
そう言った時のの表情は一瞬痛みをこらえていたものだったが、すぐに微笑に変わった。
「もちろん、武を極める者として徐晃殿と競うであり続けるつもりはあります」
強い意志を持ったの声に、徐晃が戸惑ってしまった。
「貴公は、拙者よりも強いのやもしれぬな……。半刻、考える時間を願えぬか? 張コウ殿が参るまでには、答えを申し上げる」
硬い表情をさらに難しくして、徐晃はそう言った。がはっきりと肯いて、疑問を口にする。
「はい。それまで、こちらで待たせてくださるのですか?」
「貴公の堂の扉に何と書いたか、忘れたわけではござらぬだろう? 何もない堂で申し訳ないが少し時間をもらいたい。殿の思いに真摯に答えたいのでござる」
まっすぐに視線を合わせて、徐晃は頭を下げた。慌ててそれを止めさせると、は困ったような笑みで小さく椅子に座りなおした。
「では、お待ちしております。徐晃殿」
小室へと向かった徐晃が振り返って、小さく問うた。
「殿。拙者がどうあれ、これまで築き上げてきた関係は揺らぎはしないと、言いきれるのでござるか?」
「もちろんです。私は魏兵として徐晃殿の部下となり、一軍の将へとなりました。それは一途に貴方の武への思いに感化されてのもの。徐晃殿が武の極みを求め続ける限り、私もそれに倣うつもりです」
「できれば、貴公とは武を競える相手でありたかったが……。では、少し待っていてほしい」
「はい」
そうして、微笑んで拱手するに目を向けることもできず、徐晃は小室へと籠ったのだった。
きっかり、半刻。
物音一つすることのなかった小室から出てきた徐晃は、から向けられた視線をしっかりと受け止めた。
「……殿。拙者は、貴公と共に武の道を歩んで行きたいと思っていたのでござる」
俯けられるの顔。――だが、と徐晃は先を続ける。
「そうではなかったのだ。殿、そなたを拙者の武で助けたいと、どこかで考えていたのでござろう。そなたが昇叙され、一兵卒から伍長へ佰長へ、そして副将へ。とうとう将軍にまで昇り、拙者とは将としてしか話をすることがなくなってしまった。……始めから、それほど話をしたことはなかったかもしれぬ。武の事ばかり口にする拙者の言を、そなたはしっかりと聞いておられた。そして、見る間に腕を上げたのでござる。そなたの武技は見事、拙者がおらずともきっと将として名を成していたことであろうと思う」
一度言葉を切り、徐晃はの向かいに座って、しばらく黙る。も俯いたまま、何も口にしない。徐晃の低い声が、強張っていた。
「先に言ったように、拙者はそなたを我が武にて守り、そなたは拙者をも負かした見事な武をもって。魏の国の下に乱世に平穏を、共に築きたい。……これが、拙者の出した、殿への答えでござる」
膝の上できつく握りしめた拳をじっと見ていたは、ふっと顔を上げる。どう言えばいいのか、それさえもわからないという顔をして。
「……私の心に、徐晃殿は、答えてくださる、と?」
ゆっくりと、確かめながら言葉を音にしたに、徐晃は肯いた。
「どうも、巧く言うことができずに、申し訳なく思うのでござるが……。拙者、このような事には疎い者ゆえ、許してもらえればよいのだが」
恥ずかしげに額を掻く徐晃の姿は、まるで初めて恋を自覚した少年のようだった。つい、がくすくすと笑いを漏らす。
「殿?」
そうっとの顔を見た徐晃は、彼女の目に涙の浮くのを見、慌てて立ち上がろうと、した。
「――徐晃殿! 私、私、……幸せです!」
は、笑いながら泣いている。おろおろと、どうすることもできずにとりあえず手巾を手渡し、徐晃は彼女が落ち着くまでじっとしていた。
徐晃が小室から出てきてからののように。固まってしまって動けない。
「どうなされたのだ? やはり、不満でござったか? そなた、いやいや、貴公とは変わりなく接した方がよいのでござろうか?」
普段落ち着いている徐晃の見事な慌てぶりに、は笑いと涙が止まらない。呼吸が苦しくなり、ひゃっく、と息を吸って、やっとは笑うのを止めることができた。涙は、はらはらと落ちていたが。
徐晃から渡された手巾でごしごしと顔をこすって、が赤くなった顔を向かいに半分腰を浮かせた男に向けた。
「私のお慕いしていた徐晃殿から同じ思いを受け取りまして、、幸運の限りです。偽りを申してはおりませんよね?」
「拙者が善悪の判別もせぬと?」
「いいえ、徐晃殿が誠実な御方だと知っていて、お聞きしました。……それでは、本当によろしいのですか?」
ぐ、と身を乗り出して、満面の笑みをこらえている、そんなに、徐晃はまた苦笑した。
「殿の事を、拙者は何も知らないのでござる。これから、多くの事を知り、二人で支えあっていければと、誓いたい」
「徐晃、殿……」
敵も味方も恐れる槍手は、ここにはいない。ただ、赤く染まった全身を固まらせた若い、長身の女が一人。
「徐公明と、殿には呼んでもらえぬだろうか? 『徐晃殿』では、いつまでたってもそなたに一騎打ちを挑まれそうでござる」
ほんの少しだけ、徐晃が目を細めた。はい、とはにかんだは口の中で転がすように声に出したのだった。
「徐公明殿」
徐晃が心を決めてから、を『』から『』へと、『貴公』から『そなた』へと呼び名を変えたことは、彼なりのけじめだった。
が気付いていたかどうかは、判らないが。
それから、二人でいろいろと話をしていれば、あっという間に陽は傾き始めた。
失礼しますよ、との声とともに入って来たのは、上質の絹の衣裳と化粧道具、装飾品を何人もの女官に持たせて、の顔を見て悲鳴を上げた張コウだった。
「こんなに赤く腫らしてしまって、どうするのです! ささ、顔を洗って化粧でなんとかして、着替えなければ!」
その顔には、満足げな笑み。こそり、との耳に何かをささやいて、彼女を赤くさせると、徐晃の気付かぬうちに一同は堂の前から消え去っていた。
どうやら曹操は夏侯惇に尻を叩かれながら仕事を終え、司馬懿は不承不承将軍へと曹操の命を伝え、そうして夜宴が開かれることになったらしい。徐晃の許にも伝令の兵が走り書きの竹片を持って現れたのだった。
曰く、「敗将初勝之宴也」と、後は司馬仲達との文字だけ。余程腹に据えかねていたのだろうか、魏主の突然の思いつきに。
その後の夜飲の席にて、主役のは、衝撃の事実を述べることとなるのだが。――それはまた、別の話。
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2008/06/12, 2010/03/09
これも、ある方へ差し上げたものそのままです。
よしわたり