成都に凱旋の軍馬が意気揚々と入ってまいりました。
劉将軍をはじめ、関将軍、張将軍、諸葛軍師、――そして趙将軍ら、蜀の諸将が揃うのは久しぶりのことでございますから、成都は都中がまるで正月のような賑やかさで、主人を迎える私達家僮も大忙しで立ち止まる暇さえありません。大路を通って城に向かう軍容を見に行くなど論外のこと。
少しくらいは城で劉将軍がたとお話をなさればよいものを、趙将軍はすぐにでも私邸に戻ると言ってきかなかったそうでございます。理由は言わずもがな。
「ただいま帰ったよ、」
「おかえりなさいまし、将軍。戦勝のことほぎとお体に創痍のなきことをお喜び申し上げます」
「嘘でも寂しかったと言ってくれないか……」
邸の門前で頭を垂れた家僮の中で名指しされた私、は挑むが如く主人を見上げて笑ってみせました。
緑を基調とした蜀の武人としては珍しく、白と青のはっきりとした色をした甲冑――よくよく見れば豪奢な細工がなされています――を着た馬上の将軍はがくりと肩を落として嘆きます。もはやこの遣り取りはなれたもので他の家僮達も何も言わないどころか、押しが足りません将軍、などと呟く者まで出ております。
私が『常山の趙子龍』と名高い趙将軍の邸ではたらくようになって、花が散り柳が繁るのは二巡りいたしました。初めて、――趙将軍がおっしゃるには再開らしいのですが、成都でお会いしてから二年が経ったということでございます。は未だ、将軍の妻になどなっておりません。
元より孤立の難民が将軍位にある武官の妻女になれようはずもございませんのに、商舗から連れ出されたあの日、趙将軍はそのまま私を伴って登城なさいまして、私もお名前だけは存じ上げているような雲上の方々の前で、こちらが我が妻に迎えたいと思っている女士です、ときりりとした表情でかの方々に私を紹介なされたのでございます。不覚にもこの、そのお姿に見惚れてしまいましたが……。
私の身分のこともありますゆえ、すぐには認められぬとの当然ともいえる結論によりまして私はその場を下がらせていただきました。ですが、後ほど聞いた話では趙将軍は不服を申し立て、荊州での恩義のこと、真摯に私との結婚を考えていることなどを語られたそうにございます。庶民である私にはもったいない客室に戻ってこられた将軍は私を見るなり、すまない、と言って目を伏せられるものですから困り切ってしまいました。
「……偽りや遊びで言ったのではなかったのですね」
無言で肯く将軍はまっすぐに私を見つめてきます。強い意志のこもった瞳に射抜かれてしまいそうでした。
「荊州で君に世話になってからずっと君を妻にと思っていた。殿や皆に縁談を勧められても想う人がいるのですと断り続けてきたのは君にまた会えると信じていたからだ。なのに今、どうして事はうまく進まないのだろう……」
ゆるりと頭を振って、帰ろうか、と言う直前の悲しそうな顔。
ああ、このお人は私をどれほど想ってくださっているのか、胸が痛くなります。はい、と返事をする私の声も悲しく聞こえてしまうほどでした。
ですがそれは表での姿。趙将軍は邸へ帰るなり自室へ籠られ、食事もならさずにぐずぐずと不平不満を連ねるのでございました。その相手をさせられました私は崑崙の山より高く青々とした海より深く、この方との結婚はありえないと思ったのであります。些事を盾に逃げようとしても逃がしはしないとばかりに上衣の端を掴まれて、聞いているのか、と言われましても引き攣った笑みを浮かべる他ございませんでしょう?
その日は一晩中箸にも掛からぬ話を聞かされてげんなりいたしました。朝になりますと日課だという鍛錬に出掛けられましたから、ようやく解放された私は溜息といっしょに魂も抜けてしまえばいいのにと願いつつ仕事をもらいに行きました。ええ、自他共に認めるはたらき者の私はたとい主人に難があれどもやることはきっちりとやるのが信条でございます。
邸の方々は趙将軍がやっと妻を迎えると聞いて喜んでみればそれは残念なことに私のような庶民でしたから、どう対処すればよいものか困っている様子でした。まあ、それはそうでしょうね、と同情を抱きつつ、新しく生活を共にする皆さまと初顔合わせとなったのでした。――いきなり侍女の仕事を覚えるよう命じられたのには文句の一つでも言ってやりたいところですが。
それからは特に何事もなく私は趙将軍の侍女となり、朝に晩に、邸におられる日は常時将軍の傍で過不足なくおられるように気を配りました。先にも述べましたとおり私ははたらき者でございますから、趙将軍は事あるごとに私のはたらきぶりをお褒めになってくださいました。ですが、貴人にお仕えするのは初めてですので内心ではいつも何回何十回と確認してから全てのことを行っておりました。これまでの私からすれば情けないほどの不出来でございました。趙将軍はそれさえ見抜いておられたのでしょう、ある時、柔らかに笑んでこう言ってくださったのです。
「、そう形式に囚われずとも私は咎めたりしないよ」
「……そのようなことは」
「ほら、その言い方。前はもっと活力のある言い方をしていた。荊州の時も、店に行った時も。それに笑顔も硬くなかった。はきはきとして、困難がなんだとでもいった顔で笑っていた」
ゆっくりと言い聞かせるように、私を見ながら。そして、少しだけはにかんで私の手を取ってくださいました。
水仕事の多かった商舗ではたらいていた時は荒れていたのが、邸へ移り侍女となってまるで貴人のようにきれいになってしまった手。仮にも趙将軍が妻にと望まれている私に困難な仕事は与えられなくなりました。代わりに、貴族の暮らしをさせられつつあります。金を数えるよりも文字を読み書きし、生活が苦しいのを笑い飛ばすために歌っていたのが律呂の決まった楽を教えられ。私は苦しいながらも楽しかったこれまでの暮らしを恋しがっては首を振ってそれを追い払っておりました。衣服もよいものを着、食事もよいものを食べ、住まいも将軍の私邸ですからこれまでとは比較になりません。こんな生活をさせていただきながら何を思うのだと。
なのに、趙将軍は私の心を揺らがせるのです。
「……私は、そんな君だから好きになったんだ。今の暮らしが嫌なのなら言ってくれ。君を苦しめてまでここにいてくれとは言わない」
思わず、取られた手を振り払ってしまいました。
「ならば私を妻になどとおっしゃらないでくださいませ! そうしましたら侍女でもなんでもできるのです! あなたが私を妻にと言い続ける限り、に平安は訪れません!」
中に浮かせた手もそのままに、声を荒げた私へ小子が叱られた時のような悲しげな顔を見せて、趙将軍が頷きました。
「わかった。それが君のためになるのなら」
以来、趙将軍は私と話をしたがったり、荊州でのことを問い掛けたりしなくなりました。出入りしていた学芸の師もぱったりと姿を見せなくなりました。侍女としての勤めはきちんとこなしていますから何も後ろめたいことはないはずです。それなのにどうしてか、心は軋みを上げているのです。
思えば、あの曇り空の朝に店の前で趙将軍と出会った時のが私の運命だったのでしょう。それが吉凶禍福、いずれなのかはわかりませんけど。
ともかく、このままではいけないと思いました。趙将軍が私のことを知ろうとするのならば、私も同じことをすればよいのです。私が聞く趙将軍は、武勇の誉れ高き美丈夫で、同輩や配下の将兵からの信頼も厚い、りっぱな武人でございます。ですが、私が知っているのは、何をするにもと私のことを呼び付けて話すことがなくなっても話をしようとする、困った主人です。どちらがまことの趙将軍なのか、それともどちらもそうなのか。私は何もわからないのです。
無礼を承知で、手隙の時にお声をおかけしました。
「将軍。これから、お暇な時だけでかまいませんわ。に将軍のことを教えてくださいまし。故郷のこと、いかようにして劉将軍の下へ参じたのか、の知らない将軍のお姿を」
ぽかんとした後、何度か瞬いて趙将軍は首を傾げます。
「? それはどういう意味だ?」
私に同じことをしていたくせにわからないのでしょうか。ぐっと眉間に皺しそうになってこらえます。
「あなたのことを知りたいと申しておるのです」
にこにことわざとらしく満面に笑みを湛えてみせれば、ぱあっと明るくなる表情。眩しすぎるくらいでございます。普段のお顔は涼しげな目許に唇を引き結び、武将としての風格漂うものでありますのに、どうして私の前では百面相をなさるのか。――恋をするのは女だけではないのですね。ようく思い知りました。
「、共に食事を」
「できかねます」
「馬の用意を」
「馬丁がおりましょう」
「宿直の間、城に上がってはくれないだろうか」
「私は邸の家僮ですので」
「子龍と呼んでく、」
「将軍」
と、このように趙将軍は以前にましてむちゃを申されるようになり、私はそれを切って捨てるのでございます。断られるのをわかっていて楽しんでいるようでもありますし、私は鬱積がするばかり。怒りが抑えきれなくなったある日、とうとう私は趙将軍に心からの叫びを訴えました。
「私のような者に言われっ放しでよろしいのですか!」
はて、と顎に手を当てて、優しげな顔をすると、趙将軍はとんでもないことを言ってくださったのです。
「君だから、いいんだ」
これには私も閉口せざるを得ませんでした。顔が真っ赤になってしまったのは不可避でございましょう。それは厚く黒い雲が空を覆う冬の日のことでした。
趙将軍と私の奇妙な関係は邸中の者の知るところとなり、だんだんと私は本来の調子を取り戻していきました。元より飯店ではたらく気質をしておりましたから、邸の人々ともすっかり親しくなりました。冷やかされては溜息を落とす日々でございます。なにやら賭博が行われているらしく、たまには趙将軍の言うことを聞いてやってくれないか、と泣きついてきた者までおりますから呆れてしまいました。
毎朝寝室へ水盥を持って行ってはひと騒動、朝食の席でひと騒動、衣服を替えるのにひと騒動。
どちらも懲りないものだと思うのですが、私もここまでくると譲れないのでございます。おそらくは趙将軍も同じことを思っておられるのでしょう。ここには、静かに、ですが激しい戦いが繰り広げられているのでございます。私も人のことを呆れたと言える立場ではありませんでした。
考えごとをしていたところに、、と呼ばれてふと趙将軍へ向き直り返事をいたします。
「こうやって、互いのことを知っていくのも悪くないだろう?」
満ち足りたように微笑む趙将軍。こちらまで幸せになります。そう、貴人と庶民になんの違いがあらんやと、趙将軍は私に教えてくださいました。
ああ、私はこの方を好きになっているのです。笑みが浮かぶのを抑えるつもりはございません。
「……そうですね。少しは考えてみてもよいかと思うようになりました」
「では、子龍と、」
「将軍」
「……」
へにゃりと力の抜けていく趙将軍のお姿を見て、くすくすと笑わずにはいられませんでした。今なら、この方の妻になることに反抗はしないでしょう。決して口にはいたしませんが。
そして、趙将軍は国境防衛戦へと向かわれました。
主人のない邸ほど寂しいものはありません。毎日の仕事はもちろんございます。邸の掃除をし、庭の手入れを行い、衣服や書籍に風を入れ、痛んだ箇所を見つけて修理をする。時間ばかりが無為に過ぎていくような心持でございました。趙将軍の無事を願うのはもちろんですが、仕事の合間に日々の遣り取りを思い返しては寂しさを積もらせてゆきました。遠い陣営から無事であるとの連絡と、私宛の書簡が届くたびに、それはますます形をはっきりとさせていくのです。私は趙将軍を恋しく思っている、と。初夏に入る頃には帰還できるだろうと書かれた、趙将軍らしい飾り気のない字を見ながら、私は決意しました。
……ですが、馬を急かして戻って来られた趙将軍はこちらが引いてしまうほどに何を期待しているのか見え見えで、結局、の決意は先延ばしになったのでございます。
子龍さまと私が結婚できるまで、これではまだまだ先は長いようです。
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2010/05/08
以前アンケートを行った際、予想外の人気だった趙雲の話の続きです。自分ではなんでこの話が人気だったのかわからないです……。趙雲がヘタレだからか。そうなのか。
で、ヘタレのままで終わってしまいました。これにて了!
よしわたり