窓を開けて空を読めば、時刻はとっくに丙夜を過ぎていた。こんな時間に目を覚ましたとて、何ができるわけでもない。褥の上で寝返りを打って再び眠りにつこうとしたは、一向に訪れない眠気に溜息を落として堂室から出て行った。

 小さく見えた、望月に誘われて。




「おや、どうかしたのですか?」
 月のよく見える、美しく整えられた庭園には先客がいた。驚く間もなく掛けられた声に、はこくりと頷くことしかできなかった。ふふ、と笑った男は、天を覆うもののない石榻の隣を差して、麗しい笑みをはいた。
「こちらへどうぞ? 貴方も月を眺めに来たのでしょう?」
「そういう、ことになりますか」
「なんです? 歯切れの悪いことですね。もっとはっきりと話さないと伝わりませんよ?」
「私は、地文を司る官ですから。……空には疎く。どうにも眠れず、月が見えたのでこちらへと足を運びました」
 膝をついて、男に礼をする。彼は名のある将軍、自分はそこそこの官位はあるとはいえ文官だ。まさかこのような時間に人に、しかも将軍に会うとは思いもよらなかった、というのがの内心だった。
「夜中に礼を取ったところで見えませんよ。それよりも。共に空を見上げましょう? 美しく輝く月が、貴方をここへ呼んだのですから」
「いえ、今夜は失礼いたします。張将軍も、あまり晩くまで起きておられるのは美を謳う将軍にはよろしくないのではないかと」
 庶民の女よりも麗華や優雅さを求める長身の男将軍。その名は広く知れ渡っていた。が彼にこれほどの近さで会うのは初めてであったが。
「そうですか……、少々残念ですね。地理の官でしたか、貴方の名は?」




 月の明るい光の下、かの将軍は蝶を思わせるひらりとした動きで、を抱き上げると膝の上に座らせて微笑んだ。
「将軍! お戯れは、」
 かっと頬を染めた女に、彼は美しい笑顔で答える。
「戯れ? そう、戯れです。月彩が私を操って楽しんでいるのでしょう」
「お止め下さい! 離してくださいまし!」
「大きな声を上げれば、歩哨が来てしまい、せっかくの出会いを台無しにしてしまいますよ」
 切れ長の瞳が細く笑う。声を失ったに、ふふ、と笑って、張将軍と呼ばれた男は再び同じ問いを繰り返した。
「貴方の名は? 地文の官殿」
「そのように、言わないでくださいまし。……私は将軍よりも劣った文吏です。姓名を、と申します。張将軍の武名はお聞きしております。どうか、離してください……」
 ほとりほとりと温かな涙をが流して訴える。すう、とその身に違わぬ長く細い彼の指がその涙を拭きとって、そっと石榻に座らせた。高い背を屈めて、彼は優しくに微笑んだ。
「悪い事をしましたね。貴方も月を見にやってきたというのに、その光が私を戯れに興じさせるとは」
「……いえ。すみません、私のような下官が、張将軍のご迷惑となりまして、」
「それ以上言うのは、文官として美しくありませんね」
 の言葉を遮って、彼は苦笑した。将軍――武官に、文官の美を説かれるなど、初めての事だった。
「申し訳ございません」
 瞼を伏せたの耳に、意外な言葉が聞こえた。
「月の下では誰しも等しく美しい。日華は明る過ぎて時々、隠しておきたい姿まで照らし出してしまいます。冷たく静かに輝く月華は何も言わず、何も聞かず。貴方のありのままを見せてくれるのですよ」




「月は、貴方を照らしていますか?」
 優しい声に、はようやくにして夜空を仰ぐ。小さな月望が眩しいばかりに輝いていた。
「――はい」
「……ゆっくり、おやすみなさい? 時にこうして心を騒がせ、そして鎮めるのも月宮のつとめ。もう、休めるでしょう?」
 いつの間にか姿を消した声だけの男へと、は深く頭を下げた。


 寝室へ戻れば、小さな欠伸。
 衾を被り、そのまま静かに眠りに落ちていく中で、彼の事を思った。

 ――ありがとうございます、張将軍。









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2009/08/09
よしわたり




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