戦の前。は本陣で支度を整えていた。武器を確かめ、防具を身に纏い、道具袋を腰から下げる。
最後にもう一度点検して気を静めようと深く息を吸った時だった。
「やあ、お姫様!」
遠くから呼び掛けられた軽い声に、つい渋っ面になってしまった。のたりと振り返る。
「ひでえ顔になってるぜ。あなたは凛々しい顔の方が似合う」
「孫市殿……」
銃を肩にこちらへ近寄ってきたのは雑賀孫市。ニッと笑んだ顔が憎たらしい。以前の彼の行いを警戒して、身が引き気味になる。
それに気付かぬ孫市ではない。半歩、踏み出しの手を取る。
「今はあなたの相棒じゃないが、共に闘う仲間だ。嬉しいぜ」
「敵でないのはありがたいと思う。でもあまりこういうことはしてほしくない」
ぐっと手を引いてみるも孫市の力は強く、びくともしない。「へえ」と楽しげに、にやつきを浮かべるばかり。
「挨拶くらいさせてくれてもいいだろ?」
まずい、と全力で孫市から離れようとしたが、間に合わず。
手の甲に温く柔らかな感触。
「……!」
硬直したを孫市はこれ幸いと抱き寄せる。体をこわばらせたに判るのはごわごわした布と硬い銃弾帯の感触ばかり。
「……死ぬなよ」
掠れた呟きが耳に届いた。
「そこ! なにをしている!」
飛んできた大声に忘れていた呼吸を思い出す。驚いた孫市が両手を上げ、は慌てて孫市から距離を取った。
「、戦はもう始まるというのに何を男と戯れている。立花は戦に真摯でないものを軽蔑する」
カツカツと踵を鳴らしながら近付くのは立花ギン千代。憤りが目に見えるようだった。
「ち、ちがう」
「何が違うものか。そういうことは戦が終わってからにしておけ」
呆れたようにギン千代は首を振る。勘違いだと言いさしたところで、ヒュウと口笛が鳴った。
「美女が二人……。いいねえ、俄然やる気が出たぜ」
嬉しげに頷いた孫市が銃を抱え直して、くるりと二人に背を向ける。
「また戦の後で、お二人さん」
ひらひらと手を振りながら去っていく彼を、ただ見送ることしかできなかった。ギン千代からの強い視線を感じながら。
戦勝の浮ついた空気の中、ギン千代と合流し互いの無事を確認していた。そこに歩いてくる孫市の姿が見えた。
「今回もすげえ活躍だったな、お姫様!」
またか、と思ったのがやはり顔に出ていたらしい。
「ここは喜んでもらいたいところなんだが……」
彼が苦笑を浮かべて後ろ頭をかく。歓迎されていないのは解っているらしい。それでも女に関しては諦めないのが孫市なのだろう。
「先ほどの男か」
の傍にいたギン千代が彼に向き直って軽く一礼した。
「まだ名乗っていなかったな。私は立花ギン千代という」
「俺は雑賀孫市。よろしくな、お嬢さん」
「戦屋にも言われるが、あまり良い気はしないものだ」
僅かにギン千代の眉が寄せられるも、孫市は「まあまあ」とにやけている。
そんな二人の遣り取りを見ていると、戦で昂っていた気がほぐれていくような心地がした。
それで、と孫市が声の調子を変えた。
「二人共、これから一緒に飯食いに行かないかい。旨い店を知ってるんだ」
浮ついた声音、何か裏があるのは明らかすぎて用心してしまう。が返事を考えている間にギン千代が当然といったふうに答える。
「戦で疲弊している、すぐに宿へ戻って休息をとるべきだ」
「私もそう思う」
これ幸いと即座に彼女の意見に便乗する。少しばかり残念そうな顔をした孫市は、しかし立ち直りもはやい。
「それなら俺も一緒の宿に……」
「先程のとの一件、それを断るには充分過ぎる」
孫市のよからぬ企てをギン千代は容赦なく切り捨てる。はギン千代の背に後光を見た気がした。
「さすがの俺も、こうもバッサリ切り捨てられると傷付くんだぜ……」
ガクリと肩を落とす孫市には、僅かばかり憐憫の情が湧いた。しかし、すぐに元の調子を取り戻したのを見てそれはかき消えた。
「それじゃ今度は戦場以外で会おうな、お姫様」
自然な動作でさらりとの右手を取り甲に軽く唇を落として片目をつむってみせてから、孫市は駈け去っていった。
残された二人はしばし呆として、ようやくギン千代が口を開いた。
「なんだ今のは」
「挨拶、らしい」
孫市殿にとっての、と付け加える。同じに思われてはかなわない。
、とまじめな顔をしたギン千代がこちらを見て言う。
「今後、奴にはこれまで以上に注意をする必要があるだろう」
「そうだね……」
は疲れた声で返事をするほか、できなかった。
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2014/07/06
よしわたり