能島城跡発掘調査現地説明会 2010/01/23(土)


2010年1月21日の朝日新聞朝刊、地方面に小さな記事が載りました。見出しは、「能島に中国銅銭50枚 今治村上水軍地鎮め遺構」。記事の最初を抜粋しますと、
 中世の瀬戸内海で勢力を誇った村上水軍の一族、能島村上氏の本拠で国史跡の「能島城跡」(今治市宮窪町)から、計約50枚の中国の銅銭を埋めた地鎮め遺構が2ヵ所で発掘された。(中略)23日に現地説明会がある。(後略)
能島へは定期航路がないため、市がチャーター船を三便用意するとのこと。ちょうど実家に帰って瀬戸内海の島嶼部に関しての調査をしようかと思っていたところだったので、これ幸いと村上水軍博物館に参加希望の電話を入れ、ワクワクしながら当日を待ちました。

天気は快晴、風も凪いでいて絶好の外出日和です。電車で行くにはバスに乗り換えるだのなんだのと面倒なので、高速に乗って両親も一緒に行くことになりました。しかし、途中で参加時間に間に合わなさそうな気配……。慌てて博物館に時間の変更を願い出ます。あっさりオッケー。……あれ?

SAで昼食です。ついでに観光ガイドのおっちゃんに博物館までの道を聞きます。親切に教えてくれました。
芸予諸島は大きめの島がいくつも連なっていて、その間に小さな島が数多く浮かび、塩飽諸島とはまた違った風景を楽しめます。


今治ICからしまなみ海道へ、大島南ICで高速を下りて走ること20分ほど。漁港を横目に細い道を走っていった突き当たりに忽然と姿を現す村上水軍博物館。大島は採石場が多く、漁港もあって、車が通れないような小さな島しか身近にない私にとっては面白い光景でした。


博物館の入り口前には小早船が展示されています。水軍レースで実際に使ったものだそうです。取舵は左、面舵は右。これは取舵櫓なので、左側の櫓ですね。景親と書いてある板は矢を防ぐためのもの。




受付も無事済ませ、船が出るまで寒いので博物館の中を見学して回ります。
ここでも甲冑が……! 残念ながら、子供用でした。三日月の前立はどこにでもあるんですかね。丸に上の字は村上水軍の旗印です。



陣羽織まで!


女の子には小袖が用意されています。なにげに柄もいろいろありました。



さて、寒い中船を探してウロウロしてようやく見つけてほっと一息、能島へ向かいます。所要時間わずか5分。すぐそばです。
まず最初に、船から降りるのが仕事です。普通は横付けして降りるんですが、地形の関係で舳先から降りなければなりません。狭い甲板を横歩きになって桟橋へ渡って行く人達。運転手のおっちゃんが「落ちた人がおるきん気をつけよー」と言うものだから皆冷や汗ものです。
降り立ったところは平らに整地された半月状の土地です。学芸員さんの話では、海城として能島を機能的に利用し始めた時に埋め立てた土地なんだとか。写真を撮り忘れてしまったためにどういうものか分かりづらくてすいません。

海中に土嚢が積まれていますが、引き潮になったら出てきます。どうやら、足場の跡があるらしい。


まずは今回の発掘調査が行われた遺構について、現場を見ながら学芸員さんの説明を聞きます。
一列に並んでいるように見えますが、どうも住居の柱跡ではないようだということで、柵の跡ではないか、とのことです。


こちらは等間隔にポールが立てられています。掘っていないところは調査済みのところです。掘る深さも適当ではなく、きちんと岩盤が平旦になるように整地されているから、その深さまで掘ると村上氏が使っていた頃の遺跡なんだと分かるそうです。
ちなみに、能島村上氏は毛利氏に付いた後、毛利氏の国替えに従って能島城を捨てたため、近年の調査が行われるまで、能島の海城としてのはっきりとした形は分かっていなかったそうです。


矢櫃という地名のついた、東端部。隣にある鵜島との距離はほど近いのですが、潮の流れがかなりきつめです。緩ければ砂が堆積して浜ができますが、鵜島の岸壁は切り立っています。岩が黒くなっているラインまで潮が満ちるのですが、満ち潮か引き潮かまではわからず……。


潮の流れが速いということは、流れさえ読めば船を走らせるのは楽なのですが、そう簡単に行かせないのが能島が海城たる所以。写真を撮った場所は岩盤を削った堤のようなものの跡が残っていました。矢を射かけるために築いたのではないだろうか、とのこと。武器庫や弓の稽古場であった、と近隣では伝えられているそうです。


矢櫃から戻るには高低差がかなりあります。満潮近くだったので、最下部を通る時には海面がすぐ下に……。苦手な人にとっては結構スリリング。


お待たせしました、地鎮め遺構です。銅銭とかわらけがセットになって発見されるのは稀なのだとか。


土地神を鎮めるための儀礼として現在も行われている地鎮祭がありますが、それが中世にも行われていたと分かっています。ただ、それが建築の際のものか、廃屋にする際のものか、または別の宗教的行為によるものなのか判別がつかないことがままあります。そういう場合に、考古学では地鎮めという語を使うのだそうです。
全体像はこんな感じです。


銅銭のアップ。錆が浮いていて、特定はできませんでした。大量に出てくるということで、能島村上氏が力を持っていたのだという証明になります。


かわらけ(土師器皿)のアップ。故意に割られているのかどうかはまだ分からないとのこと。中世、宴会などで使ったかわらけは一度使うと割る風習もあったので、詳細な調査結果待ちです。
伸びてきた木の根によって割れているものもありますが、遺構を壊している木の根はわざと残しているそうです。樹木が与える影響を考えて、これからの植生に活かしていくためだそうです。


東南出丸から鯛崎島を臨む。ひやっとするような場所もあります。能島村上氏も、よくこんなところを城にしようと考えたものです。


発掘作業道具! 掃除するのか畑仕事するのか、というような道具ばっかり。一度は考古学の発掘作業に関わってみたい。


学芸員さんの説明は終わり、船が来るまで自由時間です。といっても狭い島内、寒いので特にすることもありません……。とりあえずウロウロしてみることに。


島の北側に、船だまりと呼ばれる砂浜があります。潮が引ききっていないので浜は狭いですが、下りてみます。


下りるのも一苦労。油断すると砂に足を取られてしまいます。石が置いてあるのは波に洗われて崩れるのを防ぐためでしょう。


人工的に削られたのだろう直線の溝を発見。何に使われていたのでしょうか。


波が打ち寄せるのをぼんやり見てみる。カメノテやフナムシ、イソギンチャクなど、海岸にいる生き物がいないのが印象的でした。そういえば対岸の大島の桟橋でも見かけなかった……。


船だまりから左に身近島、右に伯方島を臨む。


桟橋のある平坦部に戻ってきました。東南出丸の先が鯛崎島です。潮が引いたら歩いていけるんじゃないだろうかと思える距離。海城として機能していた頃には、橋で二つの島を繋いでいたのだという伝承も残っているとか。ここも出丸になっていたそうで、今年の調査が予定されています。



だいぶん風も強くなってきて、午後三時、最後の一組が到着したのと入れ替わりで船に乗って大島に戻ります。雲が多くなってきてました。


村上水軍博物館の展示物を片っ端から舐めるように見学し、両親がくたびれてソファで寝こけているのをほったらかしで関連書籍にざっと目を通し、宮窪町教育委員会、(2001)、『宮窪町誌抜粋 水軍誌』を買って帰路につきました。
しまなみ海道の夕暮れを車窓から。と言えば聞こえがいいですが、要はフロントガラス越しです。瀬戸内海は毎日違う風景を見せてくれます。晴れの日、雨の日、朝霧に夕立。
そんな感じで、帰りはずっと寝てました。



地理的にはこうなってます。芸予諸島、大島、能島。能島は本当に小さい島です。
 




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2010/03/31
2010/05/21 訂正
天王屋よしわたり



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