被害者は誰だ!
 扉を開くと薬品のにおいが鼻をついた。保健室、消毒液のにおい。
「おや、どうかしましたか?」
 回転椅子がキイと音を立てた。見れば、白衣の男がこっちを見ている。
 彼が臨時に入ってきた保険医らしい。
 その口調はとても柔らかく、眼鏡のせいか知的に見える。優しそうな印象の人だった。
「こ…じゃなくて、同じクラスの友達を…引き取りに?」
 体育の授業が終わったから、迎えに来たと言うべきか、起こしに来たと言うべきか。
 前の保険医――篠先生は、大抵は校内巡回で保健室に居なかったため、こうやって保険医と話すのは滅多に無かった。
 サボりでベッドを占領している生徒を引き取りに来た場合、なんて言うべきなのか悩む。
「どこのクラスですか?」
 保健室を利用したら生徒が記入しなければならない質問紙を手に取りながら、保険医は俺を手招きする。
 たぶん、その紙に梗夜の名前は記入されてないだろう。昔はマメに書いていたらしいが、こう体育の授業があるたびには書いてられないとかなり前に投げ出していた気がする。それに、「具合が悪いのはどこですか?」の質問の答えのレパートリーが尽きたとも言っていた。
「二年三組です。たぶん…書いてませんよ。それよりもベッドのカーテンを片っ端から開けていくほうが手っ取り早いかと」
 近づいて、机の上に置かれた質問紙を覗き込む。束ねられた桃色の紙がパラパラと捲られていく。どの紙も記入された日付は今日より前のもののようだった。
 近づいたついでに、白衣に付けられている名札を見る。『藤嶋(フジシマ)』と書かれてあった。
「今日の日付のがありませんね。その友達にはちゃんと書いてくれるよう言っておいてください。
…でも、今日はどのベッドも空いてますよ。」
 保険医が並べられたベッドの方を見遣る。
 確かに、カーテンは開けられていて、どのベッドも空いていた。
「……あれ?」



「あーつーいー」
「……ならいつものように保健室に行ってれば良いだろ」
「いやや。男やなんてつまらん」
「男?」
「藤センセーは産休やと。くそ、指輪してへんからフリーやと思っとったのに!」
「……学校はそういう場所じゃないぞ」
「不良に諭され…!?」
 屋上。
 フェンスの上に座りながら、梗夜は背伸びをする。直射日光が暑いと呟きながらグラウンドを眺めていた。
「授業終わったなー…。次なんやったっけ、国語?」
「…数学だ」
 給水塔に背中を預けながら、海斗はそう答えた。
 それを聞いたとたん。梗夜は眉間に皺を寄せて右足を押さえだした。
「あーイタタタタ、また足痛くなってきた」
「平気な顔してフェンスに上ったやつが何を」
「…俺の足を殴ったのはどこのどいつやったかな」
「………」
 作りかけの赤い毛玉、もといマフラーを編みながら(編み針と共にもそもそと毛玉が動くだけで、編んでいるようには到底見えないが)、海斗は小さく溜息を付いた。
 膝の上に乗せた参考書は閉じられている。ついに理解できなかったらしい。
「なー」
「…なんだ?」
「いっぺん作り直すべきやないかな――」
 足で宙を蹴って遊びながら、空中ブランコでもするようにフェンスに脚をかけて体を仰け反らせる。梗夜の長い赤色の髪が垂れた。片手で前髪を退けながら、もう片手で海斗の手元を指差す。
「――それ」
 指差した先には、例の怪しい毛玉。まだもそもそと動いている。
「…そうか?」
 もそもそ。
「…一応聞くけど、何作ってるんや? まりもの人形か?」
「マフラーだ」
「よし。…それを首に巻いてみろ。それができたら俺はなにも言わん」
 もそ、手の動きが止まった。
 仕方なさそうに、海斗は立ち上がる。
 編み針と手が毛玉に隠れたままの状態で梗夜ににじり寄る。
「…梗夜、首を貸せ」
 少しずつ距離が縮まる。梗夜の顔が一気に青くなった。
「あッ、無理やと思ってからに!! 俺の首を折る気か!?」
「大丈夫だ。…俺は無理だが、おまえなら」
 にじり。もそもそと毛玉が動いた。
「殺す気か!! 悪かった、もう言わんから早まるな!」
 その言葉を聞くと、ふんと鼻を鳴らして、海斗は踵を返した。
 安堵の溜息を付きながら、梗夜は海斗の背中を見る。
「なー…」
「……なんだ」
「ホントはそれ、取れなくなったんやない?」
 海斗の歩みが止まる。
 毛玉に覆われ見えない手首から先。編み針の姿すらそこから現れない。
「…助けてほしいならそう言え」
「……………」
 海斗は振り返って、梗夜の顔の前に両手を(毛玉を)突き出した。
「………頼む」
「帰りにジュース奢れ」
 梗夜の指が毛玉を掴んだ。
 掴んで、もさもさとしたそれを触る。
「どうやったんや…これ……。ホントに不器用やな…」
 爪先で糸を掻き出しながら、不思議そうに呟いた。
 がしゃん! 海斗がフェンスを蹴った。
 フェンスが揺れて、バランスを崩し落ちかけた梗夜が驚いて悲鳴を上げる。
「殺す気か!」
「文句言わないで取れ!」
「偉そうに!!」
 ぐちぐちと罵り合いながら、二人は毛玉ほどきに一時間を潰した。



「センパ…助け…」
 給水塔にぶら下がったままの犬は干からびかけていた。



「いやあ、助かります。来たばかりで、何がどこにあるのか判らなくて困ってたんですよ」
 朔馬は、保険委員でもないのに保険医の手伝いをさせられていた。
 トイレットペーパーの場所を教えたり、水道の石鹸の取替えを頼まれたり。
 あげくにお茶まで入れさせられた。
(こいつ…全然良い奴じゃねぇ…!)
 ベッドのシーツを取り替えながら、朔馬は涙を噛み締めた。
(覚えてろ梗夜…! 俺だけこんなことさせやがって…!!)
 人は見かけに寄らない。
Back to Top / 2007.04.03

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