Last Smile

 クラスメイトの悲鳴が教室に響いた。
 可哀相に。返ってきたテストの点がよほど悪かったらしい。
 教壇に立っている英語教師が、出席番号順にクラスメイトの名前を呼んでいく。
 渡される答案用紙。
 クラスメイトの半数には既に答案が返っている。俺が呼ばれるのも、もうすぐだ。
 テストを受け取って、答案を覗き込んだクラスメイトの殆どは、世紀末を目撃してしまったような表情を浮かべていた。
 今回のテストは教師の悪意が感じられるほど難しいと俺も感じたし、みんながそんな顔をするのも仕方がない。
 けれど、俺は答案が返ってくるのを楽しみにしている。わくわくしている。――何故なら、今回は自信があったからだ。いや、今回もと言うべきか。
 自慢するつもりはないが、俺は勉強が得意だった。
 …俺の名前が呼ばれる。はやる気持ちを押さえながら、席を立ち上がった。
 俺は小学校のころから優等生だったし、中学生になった今も優等生だ。そのつもりで居る。
「偉いぞ柊。二問しか間違えてない」
 毎日のように先生に誉められる。誇らしくて、笑う。
  二問も間違えてしまったのは残念だが、この点なら今回もクラスで一番――
「次、レン! すごいな、満点だ」
 ――じゃなかった。
「どうも。…たまたま合ってただけですよ」
 右目に黒い眼帯を付けている彼――レンは、そんなことを言いながら、俺の横を通っていった。すれ違う一瞬だけ、横目で俺を見た。
 目を細め、口端が少しだけ上がったのを俺は見逃さなかった。
 自分の中の自尊心が、しょんぼりと萎んでいくのを感じながら、答案用紙を受け取って席へと戻る。
 ――バカにされた…。
 怒りこそは感じなかったが、こんなことは初めてで、居心地の悪さが腹の中に据わった。

 イレギュラーの転校生、それがあいつ。レン。
 むかつくことに、あいつは――天才だった。
 一ヵ月もしないうちに、俺の自尊心は踏み躙られて、俺に向いていたはずの教師の目は、彼へと向けられていた。
 俺が九十八点をとっても、彼はいつも満点だった。俺が満点をとっても、彼は完璧なまでの書き込みでそれ以上をとった。俺はまぐれ満点で、彼は確実満点。俺の苦手な美術すらこなし、得意なスポーツすらも彼に惨敗した。体力も力もないくせに、計算高い。
 俺と彼に差がつくたび、彼は口端を上げて涼しげに俺を見る。「笑う」と形容するにはあまりにも厭な表情だった。
 ――冗談じゃない。おまえの頭にはハイスペックなコンピューターでも組み込んであるのか!?
 一度だけ、彼が人間非なる者ではないかと疑ったことがある。けれど、たまたまカッターで切ってしまった指から出る血は赤かった。
 むかつく。いつかは負かしてやろうと普段より勉強に力を入れたが、手応えはあまり感じられなかった。けれど、方法を変え、ジャンルを変え、彼に勝つ方法を模索する。
 彼と俺は、周りから見ればライバル同士の戦いに見えたのだろう。けれど、事実は俺が一方的に彼を追い掛けているばかりだった。
 彼と目が合うたびに、俺は彼の足元にも――その目下にすら、及んでいないのだと痛感する。
 それでも彼を追い掛けた。いつかは追い抜こうと走る。

 そして、彼の横に立てた時、彼と俺は初めて言葉を交わした。
 生徒会にスカウトされたのだ。…二人同時に。
 学級委員でない者が、生徒会長に話し掛けられ、まして誘われるなど、珍しすぎることだった。
 俺は間髪入れずに誘いを受け入れた。
 彼と同じステージに立てる。そう思ったのだが――
「面倒なので、お断わりします」
 ――彼は、少しも迷う様子なく、はっきりとそう答えていた。
 断るとは思っていなかったらしく、生徒会長が困惑した表情を浮かべる。生徒会長の気持ちも解らなくもない。
 無表情の無感情。こんな良い話を棒に振るなんて、彼の考えていることが理解できなかった。


「がつがつしてますよね、君」
 彼が俺に初めて話し掛けた言葉がそれだった。
 帰りのホームルームも終わり、みんなと同じように下校する準備をしているところだった。
「…え? 俺、っすか…?」
  彼は、いつの間にか俺の隣に立っていた。その声はあまりにも真っすぐで、あまりにも凛としていて、自分に向けられたものだと気付くには時間がかかった。
 彼はもっと――嫌味ったらしく話すものだと思っていた。
「そうですよ。君を見ながら後ろの人と話すわけがない。…それと、タメなのにその喋り方は変ですよ」
 人のことは言えない気がする。同い年に敬語で話されるなんて入学式以来だ。
「ど、どうかしたんすか? …この喋り方は癖なんで気にしないでください」
「スポーツマン的な喋り方なのか敬語なのか統一すべきことをすすめますけどね」
「……はあ」
 とりあえず、間の抜けた返事。
 ざわざわと騒がしかった教室が少しずつ静かになっていく。ひとりふたり、クラスメイトが扉を潜って教室を出ていく。
「なにしてるんですか?」
 彼は、判りきったことを聞いてくる。
「なにって。帰る準備っすよ。ええと…レン…さん、も、帰るんでしょ?」
 彼が肩に掛けている通学鞄を見る。傷ひとつなく新品みたいで、窓から差し込む光を綺麗に反射している。
 実際に彼の名前を呼ぶのは初めてだったから、一応さん付けをしてみたが、彼は不服だったようで少しばかり眉間に皺を寄せた。
「呼び捨てで結構ですよ」
 そう言うと彼は、また無表情に戻った。
「ええ、僕も下校するところです。が、少し…君と話をしたくて――」
 え? と喉まで声が出る。しかし、妙に詰まってしまって声が口から飛び出すことはなかった。
「――すこし、お時間を頂けますか、ね?」
 彼はそう言って、目を細めて俺の目を見た。
 片方だけの、彼の青い瞳は冷たかった。けれど、吸い込まれそうになるくらい蠱惑的だった。海や空というより、絶対に溶けない氷――
「そうですか。ありがとうございます」
 俺は、無意識のうちに頷いていたようだった。
 窓の向こうにある夕焼けとは相反する、青みがかった彼の黒髪が、教室を吹き抜ける風に揺れた。
 グラウンドからサッカー部員の元気な掛け声が聞こえる。
 教室の中には、俺と彼しか残っていなかった。


「話って…?」
 俺がそう問い掛けた時、彼は口端を少しだけ吊り上げて、俺を見下すように見た。
「君、僕のこと、嫌いでしょう」
 彼は唐突に、俺をからかうかのように、そう言い放った。





「後ろのほうから視線感じて、こりゃあお嬢さんの熱烈アピールかと思って振り返ったら、あんたが凄い顔で睨んでやンの。まー才能に嫉みは付き物だし、最初は気にしなかったけど。月火水木金朝から夕方までじーっと見られてたらこれはこれは…欝陶しい」
 はん、と鼻を鳴らして、彼――レンは、息をついた。
 …ちょっと待て。だれだこいつ。…口調が変わってないか。
 二人きりになるや否や彼の態度は急変した。ぴしっとした姿勢や鞄の持ち方も、数分前のが嘘だったかのようにだらけている。
「妬むのは好きにしろ。でもライバル視はしてくるな。面倒だ。俺は成績とか興味ないから、優等生ちゃんなあんたの地位を脅(おび)かすつもりはねーよ。だからじろじろじろじろ見つめてくんなキモチワリィ」
 一人称まで僕から俺へと代わってしまっている。ただ、感情のない喋り方は変わっていない。
 俺がぽかんとしていると、彼は「ああ」と何かに気付く。
「意外か? 世の中には猫を被る奴が居るンだよ。……このうざったい世の中を渡るには、こういう性格のほうが便利ですからねぇ…」
「え、演技だったんすか?」
 一ヵ月以上も自分を隠してきたのか。そしてこれからも、そうするつもりなのだろうか。
 彼は当たり前のような「そう」と肯定する。
「面倒なことに関わるくらいなら性格偽ってるほうが楽だからな」
「………」
 俺は、言うべき言葉が見つからなかった。…彼は、俺が接触したことのない人種だった。
「…やっぱあんたは黙ってるほうがいい。昼休みになるとぴーちくぱーちくうるさいからな」
 うるさくて悪かったな、そう反論しようとしたが、廊下から足音が聞こえて、俺は黙った。

 …そういえば。
「海斗先輩と帰る約束してたんだった…」
 案の定、教室の扉が開いて、先輩が顔を出した。不機嫌そうだ。
「柊……遅いぞ」
 我ながら珍しい。大好きな先輩との約束を忘れるとは。まして、一緒に下校してくれるなんてことは滅多にないスペシャルイベントなのに。
 …誰かさんのせいだ。そう思いながら、先輩に謝る。
 その謝罪を聞いたのか聞いていないのか、先輩は踵を返した。また廊下に足音が響く。
 ……先輩、本気で俺を置いていくつもりだ。
 慌てて追い掛けようとするが、彼によって腕を掴まれ制止された。
「なんすか。俺急いでて…」
「ふぅん。アレがカイトセンパイ…ねえ。ぴーちくぱーちくうるさいから、休み時間の惚気話はしっかり聞こえてたよ」
「…それが何すか。レンさんをライバル視とかはもうしないから、手ぇ話してくれません?」
 彼の指から力が抜かれることはなかった。
「さんはいらないって言ってるだろ。センパイとあんたって付き合ってるの? そこかしこで抱き合ってるって聞いたけど」
 俺は全力で否定する。
「抱き合ってるんじゃなくて抱きついてるだけ、ただのスキンシップっす。付き合ってもないです。ただの先輩後輩っすよ。だって」
「…だって?」
「……なんでもないっす」
 ――だって、先輩には好きな人が居る。俺じゃなくて。
 そんなことは、とてもじゃないが言えなかった。彼に言う必要も、ない。
「ふぅ…ん」
 彼はじいと俺の顔を見ていた。
 数秒ほどして、腕の束縛が解ける。
 帰って良いということかと思って足を踏み出すと「待て」とまた制止された。
「最後に」
 彼は唐突に俺の胸倉を掴み、抗う暇も与えず俺をぐいと引き寄せた。殴られると思って目を咄嗟に目を瞑った。殴られると思った――
「!?」
 ――けれど、痛みも無く。
 目を開けると目の前に彼の顔があった。近すぎる。そして、唇に。唇に唇を。
 それは、というかこれは、この状況は。一般的にキスというものではないか。もしくは接吻。…ああ、こいつ睫毛長いなあ…――つい冷静にそんなことを考えてしまって、はっとする。
 慌てて顔を離すが、胸倉を掴まれていてあまり離れられなかった。
 顔が離れる瞬間に、彼の舌がぺろりと俺の唇を舐めた。彼の舌はとても熱かった。
「ばっ……」
 かやろう。驚きすぎて言葉も出ない。これが「絶句」ってやつか。

「最後に、スキンシップだ」
 彼はそう言って、初めて笑った。

 彼は、あまり笑わない。普段、笑ったところを見たことがない。俺を見下すときにするあの表情は論外だ。いつも無表情。まるでガラス玉を通して世界を見ているような、世界のすべてを知り尽くしてしまっているような印象だった。
 彼に体温があるのが、とても意外なことに思えた。

 彼はあっさりと俺の胸倉を掴んでいた手を離す。
「じゃ、また明日な。優等生くん」
 離した手を上げて左右に振りながら、彼は教室から出ていってしまった。
 廊下から聞こえる足音が遠退いていく。

 ――スキンシップだ。
 そう言って笑った彼の顔が、鮮明に網膜に焼き付いて離れない。
 目を焼くような赤い空をバックにした、極彩色の。
 後にも先にも無い見ることはだろう、最初で最後の笑み。


 窓の外の朱色の空は、さっきまで居た彼の色に、染まり初めていた。
 俺はその場に立ち尽くして、しばらく放心した。


 それはあまりにも、あんまりにも、特別すぎる、笑顔だった。


back//2007/06/07
うーむこの手の話は無理だ(何

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