「星の無い夜空の下で」





東京の夜空には星が無いと、教えてくれたのはこの男だった。


「……この風景も、もう見納めだな。」
隣に座った金次郎は、ひどく寂しそうに呟いた。
観覧車の小さな窓から見下ろす、東京の夜景。
色とりどりのネオンが鮮やかに輝くそれは、湾岸の不夜城だった。
「金次郎。明日の朝…何時?」
「8時だ。朝の8時の飛行機だ」
「そ、……」
明日、金次郎は北海道に帰る。
子供みたいなあどけない横顔と、相反する意志の強さ。
過ぎるほどに真面目。
私は……金次郎のそこに惹かれた。




ゆっくりと、ゆっくりと。
大きな円を描いて一周する観覧車。
20分足らずのその時間は、明日離れ離れになる私達には、短くて。
狭いはずの空間は、広すぎて。何もかもがもどかしく、歯がゆかった。
「……俺は北海道に帰ったら、もっと強くなる為に修行をするんだ…」
相変わらず窓の外を見ながら、金次郎は言った。
「山に篭って、一冬過ごす。俺はまだまだ、修行が足りない」
一冬、と一言でいうけれど。北海道の冬は長い。
そして今はまだ夏になったばかり。その期間は余りにも長い。
けれど言葉の一つ一つは力強く、この男の意志の強さを伺わせた。
「……一人で、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。今度カイに会う時、俺はきっと、もっと強くなってる」
その顔は、決意に満ち溢れている。
金次郎はこんなにも前を向いて歩き出そうとしているのに。
行って欲しくないと、後ろを向かせたがっている私がいる。
「カイも、プロレス頑張れよ」
「……ああ、」
「試合を見ることは出来ないけど…いつも心の中で応援してる」
金次郎は、私には眩しい存在だった。
だって金次郎はいつもまっすぐ前を向いていたから。
強さを求め、誰よりも悩んで、負けたり落ち込んだり打ちのめされたり、
それでも這い上がってなお上を求めて……だから、金次郎は眩しいんだ。
私なんかより、ずっとずっと年上に見えた。
年下の癖に。



「カイ、……」
「き、…ン」
観覧車が一番上に来た時。
金次郎のほうから、私にキスを……してきた。



"なぁ、知ってるか? 金次郎"
"ん?"
"この観覧車の一番上でキスしたら、その二人は……結ばれるんだって"



初めて二人で会って、この観覧車に乗った時。言い出したのは私だった。
そして交わした、初めてのキス。
私が、金次郎にキスをした。
それから毎回、会うたびにこの観覧車に乗って、ここでキスをしていた。



汗と、血の匂い。



それが金次郎の匂い。



何度目の時だったか、そう言ったら私も同じ匂いがすると、からかわれた。



再びこの匂いに、むせ返るほどのこの匂いに包まれることは、ずっと遠い先の話。
「ん、ぅ……」
不器用な舌が、私の舌に絡んでくる。私はそれに応じる。
力強い指が、私の身体を抱きしめて……私も……。
冗談抜きで互いの身体が折れそうなほど、強く強く強く。
「カ、イ」
ああ、そんな目で私を見ないでくれ。
そんな、優しい目で。
喉のすぐその辺りで出たがっている言葉を、吐き出してしまいそうだ。




"どうか私を置いていかないでどうかずっと一緒にいてどうかこのままどうかこのままどうか……"




初めてのキスの直後、金次郎は鳩が豆鉄砲食らったような顔をしてた。
私も初めてのキスだったし、ありったけの勇気を振り絞ったから、
その後続けるつもりだった言葉を忘れてしまって。
沈黙を破ったのは、ぽたりと床に落ちた一滴の鮮血。
『金次郎、鼻血っ!』
『あ、ああっ』
金次郎、鼻血出しちまったんだ。
『ご、ごめっ……ちょっとまって、ティッシュ、出すから!』
慌ててバッグからティッシュを出そうと私は慌てた。
鼻血はぼとぼとと垂れ、金次郎の白いシャツを汚した。
『とっ、……東京の、夜空は……ほ、星が、無い、な……』
血に塗れた鼻を押さえながら、金次郎がようやくつむぎだした言葉。
『……え、あ、……あぁ、そっ、そうだな……』
ずっと東京で暮らしてたから、言われて初めて気が付いた。
星がないなんて、思いもしなかった。
『でも、……ネオンとか、夜景はとても綺麗だ』
『そ、そう……あ、あった…ティッシュ』
バッグの底から、ぐちゃぐちゃになったティッシュをようやく見つけた。
『……カイのほうが、もっとずっと綺麗だけどな……』
金次郎が言った言葉は、私がしたキスへの答えだった。
鼻血出しながらなんて、ちょっとムードのない告白だったけれど。





金次郎は再び私にキスをしてきた。
「……っ、はぁ……」
シャツの裾から、無骨な手が入り込んでくる。
ブラの上から力任せに胸を揉んで……痛いよ、金次郎。
その行為は、出掛かった言葉を押し返そうとする。
明日は試合があって朝は早い。だから見送りにはいけない。
名残惜しさが隠せない。ああ、もう少しで、一周は終わり。
もう一周、したい。
なんて未練がましいんだろう私は。
好きな男が、強くなるために前に進もうとしているのを、引き止めたいと思うだなんて……。
私自身も、もっともっとプロレスラーとして強くならなきゃいけないのに。
私の気持ちを、金次郎はきっと分かってる。でも、何も言わない。
「カイ……」
「きん、じろっ……」
鎖骨の辺りに、ちょっと強めに吸い付かれる。
「……やっぱり、カイはとてもとても綺麗だ……」
「っ、」
首筋に顔を埋めたまま、金次郎が呟いた。
「……ごめんな、カイ。……独りぼっちにさせちまうけど………」
それは不器用な金次郎の、精一杯の思いやりの言葉だった。
「…………」






一筋の涙が、頬を伝って落ちた。






観覧車を降りて、そこで分かれた。
正確に言うと、私は観覧車を降りるとすぐ逃げるように走り去った。
これ以上一緒にいると、本当に別れられないような気がしたから。
アパートに戻り真っ暗な部屋の中、一人泣いた。
声も上げずに、いつまでも。
こんなにも弱い私。狡猾な私。
金次郎を好きな私。後ろ向きな私。
春まで一人で待てる自信なんて、どこにもない。
窓の外はネオンが彩る夜の街。
星のない空は、そのネオンの明かりをより鮮やかなものにする。
金次郎は、この夜景よりも私が綺麗だといった。




"やっぱり、カイはとてもとても綺麗だ"



私が……綺麗?




嘘なんか、言わないで。
今の私は、きっとこの世で一番みっともない。





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