総督隠匿
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(新八)
珍しく道場の雨戸が開いていた。
中を覗くと、明かりもつけずに襷掛けをした姉上が掃除をしていた。
変なの、と思った。掃除をするには変な時間だったからだ。
明かりつけましょうか、手伝いましょうかと僕が申し出ると、『もうすぐ終わるから、明かりもお手伝いも要らないわ。それよりお風呂を沸かしておいて頂戴』と言われた。
僕は素直にそれに従った。
姉上のお風呂はその日、随分と長かった。
その次の日、庭の柿の木の実の一つがなくなっていた。
一番大きくて美味しそうな実だったし、背伸びすれば取れるくらいの場所にあったから、いい具合に熟れたら姉上と食べようと楽しみにしていたのに。
姉上に言うと、『近所の悪ガキ共の仕業でしょ』と返ってきたけれど、その夜台所のゴミ箱に柿の皮が捨てられていたのを僕は見つけた。
更にその次の日、僕は気付いた。
姉上が毎年この時期によく着る、蒲葡に黄金の蝶が舞う着物を今年に限って着ていないことに。
姉上に尋ねると、『今年も着ようと思って出してみたら、酷く虫食いしていたから捨てたのよ』と答えた。
あれは母上の数少ない形見の着物のひとつなのに。どうしてそんなに簡単に捨ててしまうのだろう。端切れで巾着くらい、作ればよかったのに。
夕餉には少し早い時間だ。
新八が帰ってくる前に、とお妙は大きな握り飯を二つ作り、沢庵と熱い茶とともに盆に載せ、道場へと向かった。
立て付けの悪い木戸からお妙が入ると、明かりのついていない道場の中は真夜中のようで、
冷えた空気と僅かな煙草の匂いがし、闇の中を何かが蠢いているのが分かった。
「……夕食です」
「あァ」
返事とともに、小さな六角行灯が点る。ほんわりとした灯りは道場全体を照らすには至らないが、畳二つ分くらいの範囲を明るくした。
行灯の灯りに浮き上がる人影。お妙の蒲葡の着物を着た高杉が胡坐をかいていた。
「そろそろ、お帰りいただけませんか」
高杉の前に盆を置きながら、お妙が言う。
「新ちゃん……弟が何かに気付いているみたいで」
銀時のところで働くようになってからというもの、新八は何事においても妙に鋭くなった。
着物のことだって、きっと去年までの新八なら気付きもしなかっただろう。
高杉は握り飯をほお張りながら、「迎えが来ねェんだ。仕方ねェだろ?」と返した。
幕府による攘夷派の取り締まりはこのところ特に厳しく、高杉といえどもうかつな行動は取れない。
偽名で安宿など取れば、すぐに真選組が駆けつけるだろう。
攘夷派御用達の宿や料亭の幾つかに、既に捜査の手が及び、名のある攘夷派がいくつも捕らえられた。
高杉は今、鬼兵隊本体とは離れ単独でここにいる。
鬼兵隊は幹部主導で真選組の手の及ばぬ場所に逃れ、総督である高杉と行動を共にできる日を待っているのだ。
高杉がしばしの隠れ家として、以前から密かに懇意にしているお妙の家の道場を選んだのは、ここに出入りする人数が少ないからだ。
「妙、お前だってまんざらじゃァなさそうだけどなァ……こんなに長いこと一緒にいられるのも、久しぶりじゃねェか」
楽しそうに隻眼が細められ、お妙は高杉から目をそらす。
「相変わらずしょっぱい梅干だ」高杉は言いながら、二つ目の握り飯に手を伸ばす。
屋敷に戻ったお妙は、新八が戻ってくると普段どおりに振舞った。
夕食を摂り、その後一緒にテレビを見た。風呂を沸かし、先に新八に入らせた。
新八が床につき、眠ったのを確認してからまた道場に向かった。
次に妙が屋敷に戻るとき、後ろには手拭を手にした高杉がいた。
檜の匂いがやけにわざとらしく鼻腔を突く。
「……いい湯だなァ、一曲謡いてェ気分だ」
やや灯りを落とした風呂の広い湯船で、高杉はいい調子で濡れた髪をかき上げた。
「妙、もっと寄れや」
湯船の端……高杉から離れて湯に浸かっていた妙は、渋々高杉の傍に寄る。
白濁した入浴剤で、湯に浸かった部分は殆ど何も見えない。
濡れた妙の髪は艶めき、うなじに張り付いた後れ毛がなんともいえない。
「幕府にも感謝しなけりゃなァ。こうでもなきゃお前と一緒に風呂なんざ入れなかったな」
高杉はクックッ、と笑った。
「……」笑っている場合じゃないでしょ、とお妙は言いかけたがため息をついて言うのを止めた。
匿え、と高杉が数日前この家を訪れたとき、呆れや嫌悪と同時に、高杉が無事でいてくれたという安堵感と、
また会えたという喜びがお妙の中で複雑に交錯していた。
どこで刀を交えてきたのか高杉の着物は派手に破れていた。新八の着物では足がついてしまうとお妙は自分の着物を着せ、道場に匿った。
食べ物を運び、新八の眠った後に湯を使わせ、そして……。
「妙、」
名を呼ばれ、お妙は顔を上げた。隻眼と視線が合う。
「ぁ……」
隻眼が迫ってくる。唇が重ねられ、チャポン、と湯が跳ねる。
「ん、」
そのまま抱きしめられ、お妙は侵入してきた舌に己の舌を絡め、貪った。
高杉の細い指が、お妙の肩を撫で、小振りの胸を弄る。
「……!」喘ごうとする声は口付けでまともに出すことは出来ない。否、思うが侭に声を出せば、すぐに新八が飛んでくるだろう。
濡れた高杉の冷たい髪が、お妙の頬に触れる。
お妙も己の手を高杉の背中に回し、創だらけの男の背中の感触を楽しんだ。
やがて高杉の手は湯の中に潜る。水に泳ぐ陰毛を掻き分け、柔肉を開き、淫芽を簡単に探し当てて摘んだ。
「ッ、……ぁ……!」
お妙の顔が快楽に歪む。
湯と、そうではない液体が白濁の中で混ざり合う。じわじわと弄られている箇所を中心に、波のように淫らな悦びが
お妙の全身をめぐっていき、もうどうしようもなくなっていく。
「妙、」
高杉が唇を離す。体勢を少し変えられる。向かい合わせに抱きかかえられ、湯の中で高杉の雄がお妙の雌に押し入ってくる。
「ぁ―――ッ!」
お妙は必死で声を堪えた。高杉は珍しく余裕の無い顔だ。
口吸いを交わしながら、雄と雌はいつまでも続かぬ密やかな日々を惜しむように一つになった。
高杉の手がお妙の尻を掴み、お妙の手が高杉の背中にしがみつく。
「ぁ、ッ……ん、……ッ……!」
「妙ッ、……妙……」
新八に気付かれぬよう、喘ぐのも互いの名を呼ぶのも、水音を立てるのも極力潜めた。
それでも互いの心の中では、声を大にして叫びたいほどに焔が音を立てて燃えていた。
今のこの時間は所詮まやかしなのだという事実の薪の元、また会えなくなる、愛しいものへの思いが。
それから少ししたある早朝、”迎え”がやってきた。
「長い間晋助が厄介になっていたようで……」
鬼兵隊の幹部だという河上という男だった。何度か会ったことがある。
サングラスにヘッドホン、背中には三味線という妙な格好だが、高杉のことを晋助と呼び、鬼兵隊での地位も高いほうらしい。
江戸にようやく高杉が落ち着ける場所を見つけられたといい、道場の入り口で出迎えたお妙に深々と頭を下げ、礼を述べている。
「いえ、何のおもてなしも無しで……」
やっと来た迎えにほっとしながらも、また離れて暮らす日々が始まってしまう。
危険渦巻く毎日が、高杉を待っているのだ。
道場の隅で僅かな荷物をまとめる高杉をお妙は見遣り、心の奥に寂寞を感じずにはいられなかった。
「お妙殿、これは僅かだが晋助が厄介になった礼でござる」
河上は小判を数枚、お妙に握らせた。
「う、受け取れませんお金なんてっ」
「まぁ、そう言わず」
「たいしたことなんて何もしていませんから」
数日間の滞在費用にしてはあまりの高額にお妙は河上にそれを突き返す。
いや、受け取ってくだされ、と河上はそれを拒みまたお妙に押し付け、お妙はいりません、と突き返す。
まるで三文芝居だ。
(朝っぱらから元気な連中だ)高杉は二人のやり取りを見て、小さく笑った。
「受け取っていただかねば、拙者の首が飛んでしまう」
何度目かの往復の末、河上のこの一言でお妙は渋々、小判を受け取った。
「それほど仰るのなら……」
小判がずしりと手に重い。
「万斉……下らねェ小芝居は終わったか」
風呂敷包みと草履を手に、煙管を咥えた高杉が立ち上がった。
「行くぞ、万斉」
「ああ。通りの向こうにバイクを止めてある」
「目立つモンで来るんじゃねぇよ、この阿呆」
「阿呆とは失礼な。潜伏場所の確保に拙者がどれだけ苦心したか」
高杉は河上に悪態をつきながら、手にした草履を置いて突っかけた。
「じゃあな、妙」
「待って、」
別れを告げようとする高杉を、お妙が引き止めた。
「渡したいものが……少し待っててください」
お妙は慌てて部屋に引き返した。急いで戻ってきたお妙が抱えていたのは、新しい草履だった。
「……それ、とても痛んでいるから」
草臥れた草履を履いている高杉の足元を指差して言い、お妙は高杉の傍に新しい草履をそっと置いた。
「浅草のお店で買ってきたの。高いものではないけれど、ここの草履は長持ちするから……」
「――そうか。ありがとうよ」
高杉は草臥れた草履を脱ぎ、お妙が出してくれた新しい草履に履き替えた。
(妬けるな)
河上が幾ら言っても新しい草履に変えようとはしなかったのに、ましてや高杉がありがとうよ、などというのを初めて聞いた河上は今にも噴出しそうなのを堪え、
「晋助、では行くでござるよ」と踵を返し、高杉を促した。
高杉の去った後、お妙は自室に戻り、箪笥の隠し引き出しをあけた。
そこには今まで何度か高杉から受け取った――もとい押し付けられた金が入っている。
そこに今日の小判が新入りの顔で一番上に乗せられた。
高杉は借金返済の足しにしろだの、着物でも買えと言ってはお妙に金を渡す。実際、これだけあれば、父の借金の全てを返してまだ余り、気になっている土蔵の屋根や古い台所の改修もできるだろう。
けれど、お妙はこれらの金を絶対使わないつもりだ。いつか高杉に全て突き返すつもりだ。
高杉は勿論受け取ってはくれないだろうが。
これだけの大金を自分のために使えれば、確かに楽かもしれない。しかし使わない。それはお妙の矜持でもあった。
「……いやだわ。お金を返すのに、またあの人に会わなきゃいけない……」
お妙は小さく息をついた。
妙、と高杉の呼ぶ声が、どこかから聞こえる。
低く、優しさを孕んだ、高杉の声が。
(新八)
今日、姉上が焚き火をしていた。
庭の枯れ草や落ち葉を集めて焼いていた。
何故か、古い草履も焼いていた。あれは男物の草履だけど僕のじゃないな、と思って姉上に尋ねると、『誰かが門の前に落としていったのよ。あんまり汚いから燃やしてるの』と姉上は言った。
煙がやけに多かったらしく、姉上は『ああ、煙たいわ』と、しきりに目を擦っていた。
まるで泣いているようだった。
(幕)
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