『あに と いもうと』
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1.はじまり
「私、アイドル歌手になりたいの」
差し出された細い手の、綺麗に切りそろえられた爪にマニキュアを塗ってやっている最中、
手の主である彼の妹はふとそんなことを口にした。
それは彼の妹の昔からの口癖だった。ふぅん、といつものように受け流そうとしたのもつかの間で、実はもうオーディションを幾つか受けていることと、そのうちの一つで二次審査まで通過し、最終審査が迫っていることとを知らされた。
どうしてそんな勝手なことを何の相談も無しに、と叱る言葉よりも先に、万斉の口をついて出たのは
「なら、拙者はプロデューサーになる」
という言葉だった。
「どうして?」
手を万斉に預けたまま、お通はきょとんとした顔で尋ねてくる。
「それは……お通一人では心配だからでござるよ」
咄嗟に口に出た言葉の理由を、万斉は考えながら答えた。
「――信用無いんだなァ、私」しょんぼりとする妹に、万斉は
「そういう意味ではなくて」とフォローを入れ、「とりあえず、二次審査通過はおめでとうでござるよ」と付け加えた。
腰のある細い筆で、妹の小さな爪を彩りながら、
万斉は自分でもどうしてそんな言葉が口から飛び出したのかを考えた。
そうしなければいけない。
そんな気がしたから。
そうだ。
そうしなければいけない、それが理由だった。
「じゃあ、最終審査、お兄ちゃん付いてきてくれる?」
「ああ、勿論でござるよ」
塗り終えたお通の爪にフ、と息を吹きかけ、万斉はマニキュアの瓶の蓋を閉じた。
そしてふと、いつだったか同じようなことがあったような錯覚に襲われた。
(遠い昔、彼女を守りきれなかったような気がする)
2.懐かしい感じがするのはどうしてだろう?
赤いギターを弾く兄の姿を、お通はベッドに体育座りをして眺めていた。
万斉は今、お通がオーディションの最終審査で歌うための自作曲の作曲中だ。
別に自作曲でなくてはいけない理由などどこにも無く、お通は流行りの曲を歌うつもりだったのだが、万斉曰く「自作曲の方が絶対インパクトがある」と――。
ワンフレーズ弾いてはそれを譜面に書き、確かめるためにまた弾いては書き直す。
これを何度も根気よく繰り返し、お通のための曲は少しずつ出来つつあった。
万斉の凝り性な性格はこんなところで頭を擡げ、お通は可笑しさを覚えた。
お通は自身が芸能界を目指す事に関して、万斉はきっと反対すると思っていた。ああ見えて万斉は硬いところがあるからだ。
だから万斉が協力してくれる事は意外であると同時にとても嬉しいことだった。
「どうせならそのままデビュー曲になるような歌が良かろう?」
自分を眺める妹に、万斉はちらりと一瞥をくれながら机の上の譜面に鉛筆を走らせた。
「そりゃそうだけど」
「審査員が全員涙を流すような曲が出来上がる予定でござるよ、もうじき」
「……すっごい自信ね、お兄ちゃん」
「このくらいの自信がなくてどうする? トップアイドルを目指すんでござろう?」
ギターを奏でる兄と、それを眺める自分。
初めてのことなのに、酷く懐かしい感じのする光景だった。
3.先生、どうぞ
「先生、どうぞ」
眠気まなこを擦りながら出勤した銀八が職員室に入るや否や、先生どうぞの言葉とともに、CDケースが目の前に差し出された。
「……何コレ」
思わず受け取った後、銀八はそれを差し出した主である他クラスの生徒――河上の顔と、手の中のCDとを交互に見た。
「先生、寝癖が」
「コレは天然パーマですぅ。ってか河上ぃ、コレ何?」
「コレは拙者の妹のCDでござる」
「……お前妹いたんだ。何? お前の妹もござるとか言っちゃうわけ? ヘッドホンしちゃってるわけ?
サングラス掛けちゃってるわけ?
ってか第一妹のCDって何?」
「拙者の妹が近々デビューする予定でござる。これは拙者が作曲して妹が歌ってる自主制作のCD。
明後日のオーディションの最終審査で
歌う予定でござる。
そのうちプレミアが付くはずでござるよ」
「へぇ〜……プレミアねえ……ってお前、まだオーディション受けてる段階じゃねーかよっ」
銀八が突っ込もうとすると河上は既に銀八の目の前にはおらず、資料の整理をしている服部に「先生、どうぞ」とプレミアがつくらしいCDを渡していた。
「……河上、人の質問には答えなさい」
呆れ顔の銀八の手の中のCDは、河上の予言どおり、半年後にネットオークションで破格のプレミアがついたという。
4.歴史の時間の呪い
見るつもりはなかったんだ。
見えてしまったんだ。
そしてそれが一時間にわたる僕の不幸の始まりだったんだ。
伊東は心の中で、自分にそう言い聞かせた。そしてこの歴史の授業が一秒でも速く終わる事を心の底から願った。
この授業が始まる前の休み時間、クラスメイトである河上の携帯の待ち受け画面が偶然、伊東の目に入った。
自分の席で頬杖を付いた河上が時間を確かめるために携帯のシェルを開いて、たまたま伊東がその後ろを通った。
「それ……彼女かい?」
冷やかし半分で、待ち受け画面のツーショットを指差して言うと、河上はにべもなく「いや、妹」と答えた。
そしてその後、「可愛いでござろう? 名前はお通というのだが」と、普段は無口の部類に入る彼がニヤニヤしたかと思うと、
その口から次々と飛び出してきたのは「実はアイドル志願で」で始まる妹トーク。妹マンセーと妹ヨイショと自分がいかに妹を心配しているかのワンセット。
延々と河上の妹トークを聞かされた伊東はその休み時間、トイレに行くことが出来なかった。
「か……河上君がまさかシスコンだったとは……」
じわじわと襲い来る尿意に耐えつつ、伊東は心の底で河上を呪った。
5:無防備と後悔
万斉が帰宅すると、ポストにお通宛の手紙が届いていた。
玄関にはお通の靴が転がっていたから先に帰っているらしい。
「仕方のない妹だ」苦笑しながら転がった靴を整えてやり、手紙を渡す為お通の部屋のドアをノック、ゆっくりとノブを回した。
「お通、手紙が――」
そこには、果たして無防備な姿の妹。
お通は余程疲れていたのか、薄暗い部屋で制服を脱ぎかけたままベッドにうつぶせになっていた。
「おやおや……」
手紙をガラステーブルの上に置くと、万斉は眠る妹に毛布をかけてやった。
お通はすぅ、すぅ、と静かな寝息を立てている。
「……」
柔らかな頬をつん、とつついても、反応はない。
お通、と万斉が呼びかけても、答えない。
「……やっぱり、」
無防備な姿で眠る妹を見下ろしながら、万斉は誰に言うともなく、呟く。
「アイドルなんて……反対するべきだったろうか……?」
お通のこういう格好を何れは万人の目に晒さなくてはいけないのかと思うと、万斉はむしょうに腹が立ったのだ。
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