『審判の日』(サガ×ムウ)
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死の間際に脳裏を駆け巡るのは、その人が最も幸せだった頃の思い出だという。
女神の前で自らの手で心臓を貫いた私の脳裏を駆け巡るのは、私にとって最も幸せだった思い出。
ギリシャから遠いジャミールの、小さな館で過ごした時間。
「私はこれより”瞑想”に入る。何人たりとも私の”瞑想”を妨げることは許さぬ」
”瞑想中”の教皇……私自身が作り出した、幻の私。
教皇の間の玉座に座して、微動だにせず瞑想に耽る幻の教皇を、疑う人間はいない。
幻の効果は数日間程。幻といっても、その気になれば動かすことも、手で触れることもできる幻だ。
ひとたび瞑想に入った私に話しかけることはおろか、教皇の間へ立ち入ることさえ堅く禁じてある。
偽の教皇を演じていた私は時折、こうして自分自身がまるでそこにいるかのように見せかけ、そっと聖域を離れていた。
向かう先はただ一つ。ギリシャから遠く離れた、ジャミールにある小さな館。
この世で私がただ一人、愛した女の住む地。
中国とインドの国境地帯にジャミールはある。
標高六千メートル級の山々が連なる、岩だらけの寂寥とした地。
生よりも死に近いその地は、地元の人間でも魔境と恐れて近づかない。
高地特有の薄い空気と吹き付ける風の冷たさは、ギリシャの温暖な気候に慣れた身体に酷く堪えた。
不毛の地には僅かな高山植物が申し訳程度に顔を覗かせる程度で、霧は濃く色彩は乏しい。
亡霊たちが守る一本道を抜けると、険しい崖の上にそびえ立つ五階建の古い塔が見える。
塔の前で、彼女は薪を割っていた。
「久しいな、ムウ」
私が声をかけると、ムウは手を止め顔を上げ、にっこりと笑った。
ここへ来ることは、数日前に手紙で知らせてあった。
「サガ……お久しぶりです」
はにかんだ笑顔。白い肌と、特徴ある眉化粧。大きな瞳。菫色の長い髪。
黄金聖闘士、牡羊座のムウ。
私が愛した女。
私が殺めた、本物の教皇……シオンの愛弟子。
「サガー!」
上から降ってくる声に塔を見上げると、ムウの弟子の貴鬼が、最上階の窓から身を乗り出し、
はちきれんばかりの笑顔で懸命に小さな手を振っている。
「大きくなったな、貴鬼」
「うん!」
ジャミールにある小さな館。
人はそこを、ムウの館と呼んでいる。
聖域から遠い不毛の地にあるその館は、私にとって何処よりも安らげる場所だった。
私が「サガ」でいられる場所は、この世界中でこの場所だけ。
塔は入り口も階段もない、不思議な造りになっている。
一階部分は居間になっていて、中に入ると暖炉で薪が燃えさかり外とは比べ物にならないほど暖かかった。
「これはいつもの石鹸、それとオリーヴ油にワインに……」
紙袋から出してテーブルに並べるのは、来がけにプラカ地区で買ってきた、ささやかな土産。
ギリシャコーヒー、ギリシャの雑誌にカレンダー。ブリキの小鍋。ギリシャでは当たり前に買える物ばかりだが、ここではなかなか手に入らない。
「ありがとうございます、サガ。いつもこんなに」
ムウが嬉しそうに手に取った石鹸は彼女のお気に入りだった。これが一番肌に合うのだそうだ。
「ねぇサガ、おいらのは?」
貴鬼はテーブルに顔を載せて頬を膨らませている。自分用の土産がなかなか出てこないのに、痺れを切らせかけているらしい。
「ああ、ちゃんとある。ほら貴鬼。欲しがっていた本だ」
袋の一番底から、子供向けの分厚い科学図鑑を出してやると、貴鬼の表情がぱあっと明るくなった。
「わぁい! ありがとう、サガ!」
図鑑を受け取ると、貴鬼は飛び跳ねんばかりに喜んで部屋を走り回った。
「やったあ! この本欲しかったんだぁ!」
「貴鬼、お行儀が悪いですよ」
ムウが注意したが、貴鬼はそれを聞かない。
「だってムウ様! おいらこれがずーーっと欲しかったんだもん!」
図鑑を高く掲げて喜んでいるその無邪気な様に、私の心は温かくなるのと同時に、罪悪感を感じずにはいられなかった。
何も知らない貴鬼は、当たり前のように私を慕ってくれている。
自分の師が隠遁者としてこの魔境に住んでいる理由も、時折ここを訪れる私という男の正体も、何も知らずに。
夕食の後、貴鬼はすぐに眠ってしまった。昼間、私が到着してからずっとはしゃいでいたのだから無理もない。
日ごろは師と二人の退屈な生活を送っている所為か、私が来ると貴鬼は私に始終付きまとって私を独占したがった。
前に来た際土産で持ってきた船の模型はまだ作りかけだった。それを一緒に作り、館の前でサッカーをした。
夕食を作るムウを館に残し、二人で柴を拾いに向こうの山まで行き、帰りにナム湖を見て……館に戻ってきたときには、もう日はとっぷりと暮れていたのだ。
上の部屋へ運んでベッドに下ろし、毛布をかけた。
「すみません、この子あなたが来るのが待ち遠しかったみたいで……疲れたでしょう?」
「いや、謝ることはない。私も楽しかった。ナム湖は前から見てみたかったし、それに……」
癖の強い、銅色の貴鬼の髪を撫でた。
「お前や貴鬼にここでの生活を強いているのは、私の所為なのだ……」
胸が痛んだ。
「―――この間、この子に聞かれたんです。どうして、こんな所で住んでいるのかって」
ぽつりと、ムウが呟いた。
「黄金聖闘士は十二宮を守るべき存在ではないのか、と……ムウ様は黄金聖闘士なのに、十二宮を守らなくてもいいんですか、って」
ムウは瞼を伏せた。
小さくて無邪気なこの子の疑問は、尤もだろう。
ムウは世界で只一人の聖衣の修復師であり、黄金聖闘士・十二人のうちの一人だ。
修復師は聖衣を修復し、黄金聖闘士は聖域の十二宮を守護するべきであると教えられたのに、それを口にしたムウ自身が聖域から遠く離れたこの地に住まい、
その任を果たしていないのだ。聖域からの召集にも、一度として応じない。
修復を依頼に来る聖闘士さえ、館の手前にうろつく亡霊たちが追い払うか、引き込んでしまうのだ。
「うまくはぐらかしたつもりですが、……いつまでごまかし切れるでしょうか」
「ムウ……」
「この子は私よりもずっと聡いんです……」
「ムウ、」
今にも泣き出しそうなムウを、私は抱きしめた。
ムウに染み付いた、サンダルウッドの匂いが鼻腔を擽った。
こんな荒涼の地へ、ムウを追いやったのは私自身だ。
『私』の中には、もう一人の”私”がいる。もう一人の”私”は、『私』の中にある悪そのものだった。
血を分けた双子の弟は、『私』に悪を囁き続けた。もう一人の”私”は、弟の囁きに呼応し、『私』の中で目を覚ました。
そして”私”はしばしば『私』を封じ込め、もう一人のサガとして悪事を重ね続けた。
誰にも明かさず、『私』は”私”を殺そうとしたが……出来なかった。そればかりか、”私”は『私』のなかで、どんどん大きくなっていった。
悪を囁き続けた弟をスニオン岬に幽閉し、根を絶ったつもりだったが……時既に遅く、”私”は時に『私』を凌駕する存在になっていた。
数年前。”私”はとうとう殺した―――ムウの師・教皇シオンを。
『私』はそれを防げなかった。
それだけではない。女神をも殺そうとした。それを阻止したアイオロスを抹殺させ逆賊の汚名を着せた。
シオンの死に、『”私”』がシオンに成り代わったことに、女神の不在に、アイオロスの抹殺の事実にいち早く気付いたムウは、
自らの身の危険を感じ、聖域を離れた。
あのままムウが聖域にいれば、”私”はムウをどんな目にあわせただろうか……。
「……すまない、ムウ」
細い身体を、力の限り抱きしめた。
「いいえ……後悔など、していません」
腕の中で、あえかにムウは答えた。
ジャミールを訪れるとき、『私』はいつも”私”をあらん限りの力で封じている。決して、出てこないように。
”私”は修復師であるムウを自らの手駒にしたがっているのだから。
ムウは私の罪を知りながら、私を愛し、逢瀬を重ねていた。
自分の師を殺した私を、ムウは愛してくれていた。
いつか私の罪の全てが白日の下に曝け出される日が来れば、ムウとて罪を問われることは免れない。
教皇殺し、女神殺しの罪人など、即死刑であるのはいわずと知れたこと。そして罪人をかくまうことは、罪人と同罪とみなされる。
いや、貴鬼さえも何らかの罪を背負うかもしれない。
しかし、ムウや貴鬼が罪に問われることは、私はなんとしても避けたかった。悪いのは私だ。私だけだ。
自らの悪に負けてしまった、私の仕出かしたことだ。ムウも貴鬼も悪くない……。
審判の日は、いつか必ずややってくる。私が殺そうとした女神の行方は杳として知れず、私は女神が聖域にいる振りを続けている。
しかしいずれ女神は聖域に戻ってくるだろう。
来るべき聖戦のために。そして、私を裁くために。
審判の日に、裁かれるのは私だけでいい。
「サガ……、」
数ヶ月ぶりの感覚はムウに恥じらいを生み、軽く首筋に口付けただけで、ムウは身を捩った。
「ここでは駄目です、……上の部屋に」
すぐ傍では、貴鬼が静かな寝息を立てているのだ。
「ああ、そうだな……」
塔の最上階が、ムウの寝室だった。
部屋の隅にはアリエスのパンドラボックス。もう何年も開かれていない。
パンドラボックスに描かれた金色の羊は、主と私を恨めしそうに睨んでいる。
「……ぁ……あ、」
あえかに喘ぐムウの声が、冷えた部屋の空気を震わせた。
数ヶ月振りの逢瀬はムウに恥じらいを産み、私はそれを楽しんだ。
東洋の血が濃いムウの、柔らかで白い肌は戦士とは程遠く思えた。少女から大人の女へと、ムウは抱く度に成熟していく。
私の手に余るほどの大きな乳房へ顔を埋め、頬で、口で、思うが侭に愛撫するとムウの声が切なくなっていった。
しとどに濡れる秘所に指で触れると、それだけでムウは軽く達した。
「どうした、そんなに……欲しかったか」
耳元で意地の悪い言葉を囁くと、ムウの頬が真っ赤になる。
口に出せないような行為を、体位を、数え切れぬほど重ねてきたというのに……時々、いまだに未通女のような顔をする。
「だって、サガ……あ、……」
脚を割り開かせ、堅くなった私自身をそこへと埋め込む。
「あ……ん、……熱い……サガ」
待ち焦がれていたかのように、ムウの入り口は私を受け入れた。
「お前の中も熱い――ムウ」
とろけるような感覚の淫壷は、私をしっかりと捉えて離さず、何時間でもこうしていたいほどの心地よさだった。
やがて、ムウの長い髪がシーツに激しく波打つ。
甘い喘ぎ声は嬌声に代わり、互いの名をうわ言のように呼び合う。
上になり下になり、全身を愛撫し口付けあう。
何処からがムウで何処からが私か分からなくなるほど絡みあい、……終には白濁の意識と体液に溺れ、失墜する。
僅かな時間を惜しむように、短い夜のうちに私達は何度も愛し合った。
「……美味しい」
「褒めていただいて、光栄です」
ベッドに腰掛け、寄り添いあって飲むのはギリシャコーヒー。疲れた身体には、慣れ親しんだ味が効いた。
ムウの淹れてくれたギリシャコーヒーの味が私は好きだった。
「私にはバター茶はどうも口に合わない」
私は苦笑した。ムウはなにがおかしいのか、肩を揺らしてクスクス笑った。
ここで食べるムウの手作りの料理は大概美味しいが、しかしバター茶だけは苦手だった。
「サガ、次に来るのは……」
「そうだな。夏至の祭祀があって……その後すぐにカトリックの枢機卿が来ることになっている。
それが終わったら……いや、降臨祭の時期が済むまでは無理かもしれない」
「じゃあ、三ヶ月後……」
「早くてその位だ」
約束はいつも曖昧だった。しかしその曖昧な約束さえ、いつか絶える日が来る。
この関係は、添い遂げることなく終わるのだ。最初からそれは分かっていた。
「……あ、貴鬼」
ムウが部屋の隅を見やった。いつの間にか、毛布を引きずった貴鬼が、眠い目をして立っていた。
「どうしました、貴鬼。眠れませんか?」
「……ムウ様、今夜はおいらもここで寝たいんです」
「え、」
ムウが戸惑ったように私に振り返った。
「いいだろう、たまには」私が答えると、ムウは頷いて貴鬼を抱き上げた。
一人用のムウのベッドに、貴鬼を挟んで三人で寝た。
「えへへ、」
貴鬼は嬉しそうだった。私とムウも、釣られて笑みをこぼした。
一人用のムウのベッドに三人、それも私は大男だから、身体の半分がベッドから落ちそうだった。
「ムウ様がお母様で、サガがお父様みたい」
「――え、」
「あ……」
貴鬼の言葉に、私とムウの顔が赤くなった。
この子の言葉は、いつも無邪気だった。
審判の日は、やってきた。
私が偽の教皇を演じ続けて十三年目の冬だった。
「サガ……!」
朧にかすむ意識の中、最後の力を振り絞って目を見開く。
ああ、私は幻を見ていたのか。遠い日の幻を。
私は死ぬのだ……今更のように自覚する。
自らの手で心臓を貫いた私の目の前には、かつて私が殺そうとした女神が私の名を呼んでいた。
「女神、これだけは信じてください……私は……」
十三年前、私が殺そうとした女神は生きていた。
城戸沙織と名を変え、私を裁き再び聖域に秩序と平和を取り戻すため、少年聖闘士達を引き連れて聖域へと乗り込んできた。
そして十二宮を突破し、”私”を倒した。
審判の日は、女神がこの聖域に再び降臨する日。『私』が待ち続けていた日だ。
女神の後には、黄金聖闘士達がいる。『”私”』が長年、騙し続けた黄金聖闘士達。
その中にはムウもいた。泣きそうな顔で、私を見つめている。そのマントの裾を握るのは、怯えたような顔の貴鬼だ。
ムウを人並みに幸せにすることも、貴鬼が次のアリエスになる日を見ることも……私には、出来なかった。
それどころかかき回すだけかき回して、私は死ぬのだ。
「私は、正義のために……戦いたかった……」
けれど、これでいい。これでいいのだ……私は私なりに策を講じた。
ムウや貴鬼が裁かれることはきっとないだろう。
もうムウはあんな荒涼の地に隠遁する必要はない。貴鬼は立派な次世代のアリエスになれるはず。貴鬼の中の、私の記憶は消した。
聖域はこれで浄化される。女神と共に聖域に乗り込んできたあの勇気ある少年達なら、必ずや冥王を討てるだろう。
「サガ、―――――信じます……」
女神は最後に、私に勿体無いお言葉を下さった。
彼女を殺そうとした私に。
遠のいていく意識。
感覚がなくなっていく。
闇に、溶ける。
ああ、これが死というものなのか。
瞼を再び閉じると、私の脳裏を駆け巡る……私が一番幸せだった頃の思い出が。
罪の意識に苛まれ、裁かれる日を待ちながらもムウと貴鬼と過ごした、ジャミールの館での思い出。
狭いベッドで語り合った夜。まるで家族のように。
―――おいら、明日は何処かに行きたいなぁ……サガ、ねえ明日何処かに行こうよ。
―――何処か? そうだな……それはムウ次第だな。
―――明日ですか? じゃあ、三人でラサに行きましょうか。市が立つ日ですから……。
―――わぁい、ラサの市、おいら大好き……
遠い日の思い出に包まれながら、私は冥府へと旅立った。
(END)
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