『非公式記録』
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多分かの子さんはアレを覚えてないんだ。
まぁ、覚えて無くて当たり前っちゃあ当たり前なんだけど。
アレを覚えているほうが多分奇跡だ。
俺は勿論覚えてる。だってあの時、かの子さんに惚れたんだから。
「付き合い始めて、もうすぐ3ヶ月だね」
冷たいフローリングにぺたんと座って携帯電話をいじりながら、かの子さんが言った。
「そーっすね、もう3ヶ月になるんですねえ」
俺はかの子さんの足元で仰向けに大の字になって、携帯をいじるかの子さんを見上げていた。
デートするのはいつも、かの子さんの部屋。
フローリングの肩さと冷たさが、心地よかった。
「あたしたち早かったよね、会ってから付き合うまで」
ぱたんとシェルを畳むと、かの子さんが笑う。
「ん、……そーっすね、そーいえば」
華武と十二支の練習試合の日に、俺とかの子さんは会って。
会って、というかお互い存在を確認しあった程度で会話なんて交わしてなくて。
それでも、俺がかの子さんに告ったのは、その次の次の次の日。
「思い立ったが吉日って言うっしょ」
ぷくぅっと、口の中のバブリシャスを膨らませて俺は言った。
一応これが、俺とかの子さんの「公式記録」ってことになってる。
華武と十二支の練習試合の日が初めて会った日で、俺は応援に来てたかの子さんに一目ぼれして、気合と根性でかの子さんの家をなんとか突き止めて、練習試合のその次の次の次の日にかの子さんの家に押しかけて……。
でもこれホントは、違ぇんだ。
かの子さんは知らない。っていうか、きっと覚えてない。
俺とかの子さんは、実は去年会ってるんだ。
去年の二学期が始まってすぐ、オープンスクールだったかなんだったか、とにかく高校に一日体験入学するのがあった。
平日にあるやつは公欠扱いになるからってんで、サボりたいだけの気持ちであちこちの学校の体験入学に行った。
十二支の体験入学も行ったんだ……そのとき、実はもう野球推薦の話が来てた華武に入ることを心に決めてたんだけど。
『部室ってここかぁ……へぇー』
野球部の部室の、落書きだらけの鉄のドアの前に立ってた。
『あ、これ大神さんの落書きだな』
見たことのある下手っぴな字で、『大神参上!』なんて書いてあって、その文字を指でなぞってた。
『野球部の練習、もうすぐ始まるけど見ていく?』
『えっ』
そのとき、後ろから不意に声を掛けられた。
振り返ると、黒髪の女の子が立っていた。十二支のセーラー服を着て。
『体験入学に来た子でしょ? 練習もうすぐ始まるんだけど、よかったら見ていく?』
『あ、いや、別にその俺は……いいっす、やっぱ』
『そう? いいの?』
―――びっくりした。
だってその子、すっげえ可愛かったから。
その子は面白い柄のバインダー抱えて、俺を不思議そうに見上げていた。
『栗尾かの子』
抱えてたバインダーにはピンクのペンで確かにそう書いてあった。
『あの、もしかして野球部のマネージャーさんっすか?』
『ええ、そうよ』
彼女は頷いた。
『あの。もう一つだけ質問いいですか』
『いいけど……何?』
『それって、あなたのですか?』
俺は何を思ったか、とっさにバインダーを指差してその子に尋ねていた。
『え、……うん。そうだけど……』
『わかりました、んじゃ、俺失礼します!』
『え、いいの、あの見学……』
『いいっす、』
俺は逃げるようにその場を走り去った。
今思い返すと怪しいヤツ極まりないんだけど。
栗尾かの子。
あのバインダーはあの子のもの。ということは、バインダーに書かれた名前はあの子の名前。
あの子の名前は、栗尾かの子。栗尾かの子。かの子さん。かの子さん。
……一目ぼれだった。
結局、華武に入ったんだけど。
俺の心臓は、あの瞬間かの子さんに鷲掴みにされたままで。
体験入学の日以来、かの子さんのことを忘れた日はなかった。
名前、家に帰ってチラシの裏に何百回と書いて書いて書いて書き続けた。忘れないように。
高校に入ってまた会えることがあったら、絶対告白するって、心に決めた。
そして三ヶ月前。十二支と華武の練習試合が決まったとき、もしかしてって思ってたらやっぱりもしかしたわけで。
他の女子マネージャーさんたちとかの子さんは華武に来て。
―――そして。
根性でかの子さんの家を突き止めた、から後の部分に続いて、今に至る。
でもあの日のことは何となく言い出せなくて……だってマジで恥ずかしいし。
かの子さんは案の定っつーか覚えてなくて、俺はそれを幸いにと『練習試合の時に一目ぼれした』なんて言った。
「かの子さん、付き合い始めて3ヶ月の記念に、メシ食いに行きます?」
「奢ってくれるの?」
「勿論」
「じゃあ行く」
「中華でいいっすか?」
「うん、美味しいの食べたいな」
「あれ? そーいえばかの子さんダイエットは?」
「……今日はお休み」
「それ昨日も言ってたよーな……」
「もう、御柳君意地悪っ!」
「あはは……怒った顔も可愛いっすよ」
かの子さんは知らない。
俺が去年の秋のあの日から、どれだけかの子さんのことを思い続けていたか。
かの子さんの名前を忘れないように、何百回もチラシの裏に書いたこと。
告白の練習、一人で布団の中でシミュレーションしたこと。
かの子さんが十二支で彼氏作ってたらどうしようかと内心ドキドキしてたこと。
告白して振られたらどうしたらいいんだって泣きそうになってたこと。
去年の秋から、告白するまで、ずっと。
―――これはかの子さんの知らない、俺の非公式記録。
「んじゃ行きましょう、かの子さん」
「そうね、早く行かないと混んじゃうし」
かの子さんと手を繋いで、ちょっと早い昼飯を食いに街へと繰り出した。
(END)
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