『4,980円』





短い眠りから目を覚ますと、見慣れない高い天井。
「……ん、」
身体を起こそうとしたのに、自由が利かない。
そこでようやく自分が今どこにいるのかを塁は思い出した。
「ああ、……そうでしたわ(笑)」
塁は顔を横に向ける。塁をがっちりと抱きしめたまま眠る、猪里の寝顔がそこにあった。




ここは猪里の部屋だった。




猪里を起こさないよう、塁は自分の身体に回された腕を解こうとしたが、これが結構難儀だった。
背は塁の方が一センチだけ高いけれど、力は猪里の方が圧倒的に強い。
鍛えられた腕は太く重く、その上塁を抱きしめてしっかり組まれたまま。
「この……馬鹿力っ!(怒)」
漸く猪里の腕を解いて自由の身になると、塁はほぅ、っと溜息を一つついて。
二人で寝ていた、部屋の隅に敷いた布団から出て、その傍のガラステーブルの上の、汗をかいたペットボトルに手を伸ばす。
炭酸が抜けかけたコーラは甘くて、喉を一気に潤してくれる。



殺風景な猪里の部屋。
見渡しても、本当にモノが無い。
下宿先という親類の家の離れ、下がガレージになっている。二階の十畳が猪里の部屋だった。
二人で寝ていた布団と、ジュースとパーティー開けをしたスナック菓子が置いてあるガラステーブルと、 その脇のゴミ箱の他はモノらしいモノが無い。
余計なものは皆福岡に置いてきたから、と猪里は言う。
「扇風機くらいはやっぱり欲しいですわね」
塁は誰に言うともなく、そう呟く。
この部屋にはエアコンも扇風機も、無い。
扇風機もエアコンも無いけんど、涼しいやろ? と猪里は言う。確かにその言い分には一理ある。
「……一人なら、ね」
開け放した窓からは風が吹き込んで、レースのカーテンを揺らす。
塁はペットボトル片手にその窓から外を見た。
同じ市内なのに、この辺りにはまだ田畑が多く残っていて、そのせいだろう、住宅街の自分の家の辺りと比べればはるかに涼しい。
夜も熱帯夜というよりはむしろひんやりしていて心地よい。
何度か訪れて、それは実感している。
最初は確かにエアコンも扇風機も要らない、と思った。
でもそれもやはり、一人なら、の話。
「一人と二人では、違うんですのよ?」
一人なら涼しくていいかもしれないが、二人が寄り添い、絡み合えば話はまた違ってくる。
「……何が違うと? 梅星」
いつの間に起きたのか、猪里が布団の上で胡坐を掻き、眠いのか目をこすっていた。
「ねえ、猪里君」
「ん?」
「……私、この部屋に扇風機はやっぱり必要だと思いますの」
「なんで? 必要なかやろ?」
猪里は塁の後ろに立ち、塁のペットボトルを奪って残りのコーラを喉に流し込む。
「こぎゃんに涼しいのに」
空になったペットボトルを猪里が後ろ手に投げると、どういうコントロールなのか見事にゴミ箱に命中。
軽い音を立ててペットボトルはゴミ箱に消えた。流石は野球部、というべきか。
「一人と二人は違うんですの。分かるかしら?」
「……何が?」
「直に感じる体温のあるなしは大きいって事ですわ」
そう言って、塁は猪里の首に手を回す。
「ね、こうすると、とても暑いでしょう?(尋)」
「うん、暑い……けど、気持ちよか暑さばい」
答えるように、塁の身体に猪里の手が回される。細い腰を抱き寄せて。
さっきの続きばせんね? と耳元で囁く。
塁が頷くと、猪里は塁を抱き上げ、皺寄ったシーツの上に下ろした。




「でもね、猪里君」
「……ん?」
組み敷かれ、ブラウスのボタンを外されながら、塁は今朝此処へ来る前に見た、駅前のディスカウントストアのチラシ を頭の中に思い浮かべながら言う。
「……思い切り愛し合うには、扇風機がやっぱり必要だと思いますの」
そのチラシには、扇風機 4,980円 と、確かにあった筈。
数量限定ではなかったから、まだあるはず。
「愛する私が脱水症状で倒れてもいいんですの?」
「……しょうがなかと、……梅星の言うとおりにするっちゃ。扇風機、買うばい」
根負け、というのだろうか。猪里はとうとう折れた。
「あら、本当?」
「……うん、男に二言はなかと。……でも、それは後で……な?」
「ええ、……後で」
二人はとりあえず第二ラウンドを先に済ませることにした。
扇風機はその後で、買いに行くということで。





塁の白い乳房に顔をうずめながら、猪里は惚れた弱みだ、と思った。




猪里が扇風機の良さを実感したのは、それからもう少し後のこと。


(END)





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