『なまみ の からだ』
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細いガラス管の中で盛り上がった水銀は三十七度八分を指していた。
「微熱ですね」
横になった沙織から水銀体温計を受け取った医者はそう言うと、薬を出しておきますとくぐもった声で続けた。
「長旅が続いてお疲れなのでしょう。ご無理はなさらないように」
医者に手洗い用の洗面器を差し出しながら、侍女が沙織に微笑む。
このところ、ギリシャと日本を行き来してばかりで、ちっとも落ち着かないのだ。
体調がこのまま回復するようなら、また明日にでも日本に帰らなくてはいけない。
「先生、わざわざ遠いところを申し訳ありません」
「何を仰いますアテナ。これがわたくしの仕事ですよ」麓のロドリオ村から小一時間もかけて医者は沙織のためにやってきたのだ。
「アテナは幾ら女神の化身とはいえ、このお体は生身の身体です。切れば血は出るし、風邪も引くし病にも罹ります。どうぞお大事に」
医者はその後、聖典の一説をぶつぶつと呟いて沙織や侍女に何度も頭を下げて部屋を後にした。薬は後で邪武がとりにいく事になった。
「……生身の身体……か」
高い天井を見上げ、沙織は呟いた。
そうだ。
この身体は生身の身体だ。
生身の身体。
なまみの からだ。
ならば、
孕むことも出来ますか?
不意にそんな考えが過ぎって、沙織は思わず頬を赤らめた。
(END)
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