『名前しか知らない島』




アパートの窓からはエトナ火山が見えた。
山と段々畑と紺碧の海、というここでは当たり前の取り合わせが、春麗には不思議でならなかった。
五老峰にいた頃、海はあまりにも遠すぎたから。
「綺麗だろう、エトナ山はヨーロッパ最大の活火山だ」
窓辺に立つ春麗の隣に、いつの間にかデスマスクは立っていた。
「あっちの部屋、片付いたからな」
「あ、……はい」
「好きに使え」
デスマスクはポケットから煙草を取り出すと、一本銜えて火をつけた。
紫煙が吐き出され、乾いた風に乗っていく。
「随分遠いところまで来たもんだな」
「ええ……本当に」
地中海のシチリア島。



一緒に行くか? と、デスマスクに聞かれたのは一昨日の夜。
何処へ? と春麗が聞き返すと、地中海のシチリア島、とだけデスマスクは答えた。
名前しか知らない島へ、この男だけを頼りに春麗は来てしまったのだ。



「綺麗な島ね、とっても」
「古いものが沢山残ってるからな。落ち着いたら、色々案内する」
「その前に、イタリア語をもっと教えて」
「……ああ、そっちが先だな」
今さっき、春麗がゴミを捨てにアパートの裏手に回ったとき、裏庭で子供達がサッカーをやっていた。
金色の巻き毛の男の子達は、東洋人の春麗を珍しそうに見ていた。
一人の男の子が、春麗に何かを言った。イタリア語だろうが、春麗には分からなかった。
ソファの上においてあるタブロイド誌。その誌名すら読めない。
ここは、遠い遠い国だった。
デスマスクからはまだBuon giornoとCiaoしか教わっていない。
言葉はその内何とかなるだろうと思えるけれど……何とかならないこともある。
幼馴染の紫龍。突然いなくなった春麗をきっと心配しているだろう。
老師も恐らく……老師には、あまつさえ恩をあだで返すような形になってしまったのだ。詫びる言葉もない。
不意に、涙が出そうになる。
罪の意識。それが春麗に、重く重くのしかかってくる。
今、隣にいるこの男だけが、春麗のたった一人の拠り所だ。
それでも、春麗はこの男と一緒にいたかった。
罪だと分かっていても、ずっとずっと一緒にいたかった……だから。


「春麗」

デスマスクの大きな手が、春麗の肩を抱きよせる。
逞しい身体。そして、優しく低い声。
「お前はオレに連れてこられたんだ……だから何も悪くない」
デスマスクの言葉は慰めだと分かっている。それでも、気持ちはいくらか軽くなる。
「はい……、」
春麗は頷いた。何度も、何度も。
「……ごめんな、春麗」
デスマスクが謝った。いいの、と春麗は頭を振った。



地中海、シチリア島。
小さなアパートの最上階の、夕暮れの風景。


(END)






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