『池ノ中』
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神官庁の脇にある古い池には、水色の魚が一匹だけ泳いでいる。
この池がいつからあるのか、そしてその魚がいつからいるのか、誰も知らない。
「最初から一匹だけなんですよ」
アフロディーテの言葉を聴きながら、池を囲む石畳にしゃがみこんだ沙織は池を覗き込んだ。
「最初から?」
「……ええ、最初からだそうです。この魚は、そういう種類なのだそうで……」
アフロディーテは昼食の残りのパン屑を水面に散らした。
「寂しくないのかしら……」
「さあ、どうでしょうね。寂しいだろうと仲間を入れても、上手くやっていけないどころか……共食いをする始末で」
空腹でないのか、魚はパン屑に興味を示さない。
水草の下をくぐり、池の壁面に沿って優雅に泳ぐだけだった。
石造りの池は古く、藻を貼り付けたレリーフが底に沈んでいるのが見えた。
「だからずっと一匹だけなのですよ」
「そう……」
いつからこの魚はここにいるのだろう、とアフロディーテは考えた。
少なくとも、アフロディーテが物心ついた頃にはこの魚は既にここにいた。
六つか七つの頃、シュラやデスマスクと一緒になって、この魚を網で掬おうとして年寄りの神官に叱られたことも覚えている。
その時にはもう、随分長命している魚だと聞いた。
「アテナ、そろそろお部屋に戻りませんか……」
アフロディーテが声をかけたが、沙織はじっと池の中の魚を見つめていた。
次の日、沙織はブリキのバケツを手に池の淵に現れた。
水を張ったバケツの中には、どこから手に入れてきたのか、薄紫の小さな魚が一匹。
沙織が小さな魚を池に放す。水色の魚が寄ってきた。
薄紫の魚は水色魚のほんの半分の大きさしかない。
「上手くいきませんよ、きっと食われる……」
沙織と共に池を覗き込むアフロディーテは眉をしかめた。
今までにもそんなことを試みた人間は何人もいたのだ。
「そんなことないわ、ほら……」
二匹の魚は、寄り添いあって泳ぎ始めた。
「……本当だ」
アフロディーテは驚いた。
「アテナ、どうして……」
「さあ、どうしてかしら」
驚くアフロディーテに、沙織はうふふ、と意味ありげな笑みを浮かべるだけだった。
「アテナ、まさかお力を使われたのでは」
「いいえ。それよりアフロディーテ、食堂にパンをもらいに行きましょう、二匹ともお腹を空かせているみたいだわ」
アフロディテーの水色の髪と、沙織の薄紫の髪が寄り添いあって石段の下へと消えていく。
青い魚と、薄紫の魚。
その日からずっと、二匹の魚は仲睦まじく池の中で暮らしている。
(END)
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