『幸せ』


はるか天から落ちてくる五老峰の大瀑布。
この景色は聖域と同じく神話の時代から、変わることがないという。
山水画から飛び出してきたようなこの景色が、昔から好きだった。



「老師、お久しぶりです」
「おおムウか……久しいな」
大滝の傍、いつもの岩に座す老師に、私は声をかけ頭を垂れた。
ついこの間まで、ここにいたのは齢二百を超えた小さな翁だった。
今ここにいるのは、その翁と同じく編笠を被りくたびれた中国服を着た、けれど18歳の逞しい身体を持つ若者だった。
「まだ慣れぬか」
私の中の戸惑いを見抜かれた。この方には本当にかなわない……。
「ええ、まだ慣れません……老師」
私は素直に戸惑いを認めた。



老師はあの聖戦の際、本来の姿……18歳の若い肉体に戻られた。聖戦後は、住み慣れたこの地で、再び封印したハーデスの監視を続けておられた。
若返った、というのは少々おかしな言い方かもしれないけれど、老師ご自身がそうおっしゃっている。
若返った老師に戸惑っているのは私だけでなく、他の黄金聖闘士も同じだった。
否、一番戸惑っているのは、老師の弟子である紫龍と、老師の養い児である春麗だろう。



あの聖戦から、私達は奇跡的に生還した。
さすがにあの時は死を覚悟した。というより、死んだものだと自分でも思っていた。だから今こうして生きているのが不思議で仕方ない。
黄金聖闘士は、サガの乱で半分の数になり、主を失った6つの黄金聖衣が次の主を待っていた。
「いい候補はおらぬか?」
「まだ、ですね……あちこち、見込みのありそうな候補生を当たってはいるのですが」
「そうか……まだおらぬか」
老師の隣に私は腰を下ろし、現在の聖域の状況を報告する。
定期的に老師を訪問し、報告するのが私の今の仕事のひとつだった。
聖戦後、黄金聖闘士の6つの空席のうち、双子座以外はこれという宛てがなかった。
私は新しい山羊座に紫龍を推したのだけれど、老師は紫龍ではまだまだ、と首を縦に振ってくださらない。
束の間の平和が戻った聖域は、冥王との戦いで崩壊した十二宮の復興と、女神を中心とした新しい体制の確立、 新教皇の選出、そして次世代の聖闘士を育成することが急務だった。
「宮の方はどうだ」
「はい、かなり直りました。ああでも処女宮がまだ手つかずです……シャカが自分の宮は一番最後でよいと言うので」
「フッ……シャカらしいな……それに、あそこは派手にやったからのう」
老師の口調は翁の時と変わらなかった。
というより、私の記憶が確かならば、シオン様曰く「童虎は若い頃から年寄り臭い喋り方だった」とのこと。
「ワシは滅多な事がない限りはここを動けぬ……ムウ、大変だとは思うが、女神をよく補佐して新しい聖域を作ってくれ」
「はい、老師」
「聖戦は終わったが、次の聖戦がまたいずれやってくるのじゃ……」
二度の聖戦を生き抜いた老師の重い言葉に、私はただ頷くより他はなかった。



私は老師には大恩がある。
シオン様亡き後、私がジャミールに隠遁するにあたって何かとお世話になった。
老師は私をほんの赤ん坊の頃……私がシオン様に聖闘士になるべく引き取られた頃からご存知だった。
秘境での一人暮らしの中、行き詰ったときや判断に迷ったとき、私は良くここを訪れて老師にご相談し、判断を仰いだ。
時には老師の隣で涙したこともある。ある時は食べるものが底をついてしまって、お夕飯を頂いたことも。
幼く浅はかだった私に助言を下さり、自分の弟子のように可愛がって頂いた。
老師には、いつかご恩を返さなければと思うのだけれど。



「……ムウ」
「はい、何でしょう」
ふと途切れた会話の再開は、老師の思いがけないお言葉だった。
「お前は、もう少し前向きに生きた方が良い」
「―――え?」
何のことだか分からなくて、私は思わず振り返って老師を凝視した。
老師は空を見上げておられ、癖のある老師の髪が、私の隣でゆらゆらと揺れていた。
「幸せになってもよいのだぞ? いつかまた聖戦は来るが、この平和は暫く続くのじゃからな」
「あの老師、お言葉の真意が私には……」
わかりません、という言葉は遮られた。
不意に唇を奪われた。
熱いものが触れたと思ったら、にんまりと笑った老師のお顔が、私の目の前にあった。
「ムウ、こういうことじゃ」
膝に置いた手を握られる。硬くて大きな手が、私の手を……握る。
「あ、あの……老師、」
いけない。
声が上ずっている。
いきなりのことに反応がうまくいかない。
心臓が、早鐘を打っている。
「お前は、自分が思っているよりずっといい女だということじゃ」
目の前にあった老師のお顔がゆっくりと遠ざかっていく。握られていた手も離される。
「すまぬ、驚かせたな」
「い・いえ……」
「今のはモノの例えじゃ。心配せんでも本気ではない」
「……は、はい……」
ああ、よかった……。私はほっとした。とたんに、鼓動が少しずつ元に戻っていく。
「ムウ、お前にも幸せになる権利はある……と、ワシは言いたいのじゃ」
「………」
幸せ、か。
そんなものが私に許されているなんて、考えたこともない。少なくともここ数年は。
「お前は良く頑張った……人並みの幸せを得ても、罰は当たらぬ。むしろ女神はそれを喜ぶじゃろう。無論シオンも……」
「私は……結構です。そういうものには興味がありませんので」
少しだけ痛む胸。心に刻まれた古傷が疼く。
「女神をよく補佐して、と老師が今さっき仰ったじゃありませんか。私にはたくさんの聖衣の修復の仕事も、 弟子の貴鬼を一人前にする仕事も残っているんです。一人の女としての幸せを考える暇などありません」
思いついた言い訳を並べ立て、私は老師の仰る「権利」を必死で否定する。
「……申し訳ありません、老師。せっかくのお気遣いを」
「いや、ワシはただ思ったことを述べたまでじゃ。お前の言うことにも一理ある」
「それでは、そろそろ失礼いたします。女神に拝謁する時間が迫っていますので、聖域に戻ります」
「……息災でな」
「はい、老師も。紫龍と春麗によろしくお伝えください」




我ながら後味の悪い去り方をしてしまったと、聖域に戻って聖衣を纏いながら思った。
次に老師にお会いするときは、紫龍や春麗と一緒がいい。年下の者に助けを求めるのは、あまり褒められたものではないのだけれど。
うろたえないでいられるほど私は賢くないのだ。
「幸せ、か……」
マントを背に着けながら、私は泣きそうになった。
分かっている。
老師は私を心配してくださっているのだ。




ああ、でも、老師。
老師もお分かりなのでしょう?
私はあの男を、忘れられないのです。



私が幸せになることが老師への恩返しになるのなら、私はそれを一生果たせないかもしれません。



(END)




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