『我的妹妹』



北半球は夏が近づいていた。
空は青さを増し、山は濃い緑に染まる。
滝の水の冷たさが恋しくなる季節が、すぐそこまで迫っていた。



今日は昨日よりも暑いらしい。
「今年の夏は暑くなりそうですね」
呟いた私の額にはうっすらと汗が滲んでいた。
聖戦後、月の半分以上を聖域で過ごすようになった。
ギリシャのからりとした、比較的過ごしやすい暑さに慣れてしまうと、アジア特有の、湿気の多い纏わりつくような暑さが苦手になる。
「去年くらいならいいけれど、一昨年みたいなのは困るわ。老師のお体が心配だもの。」
私の前の小道を行く春麗が振り返る。
「でも今年から老師はお若いよ。大丈夫じゃないかな」
「あは、そういえばそうだったわ」
鈴を転がすような、春麗の笑い声。畑に続く小道を、春麗が先に歩く。そのすぐ後ろに私が続く。
気心の知れた女同士の会話は弾む。暑い日だが、春麗はまだ上下とも長袖の中国服だ。
あの生地は風通しがよくなさそうなのに、暑くないのだろうか。
確か冬に来たときも同じものを着ていたっけ。私の心配を他所に、光沢の有る緋色の中国服は先へ先へと進み、その背中にはお下げの黒髪がよく映えた。
いつもはただ無造作にゆるく結ってあるだけの私の髪は、出掛けに春麗の手によってお下げにされ、彼女とお揃いになった。
三つ編みは解いた後で髪に跡がついてうねるのが嫌だけれど、春麗のお願いに私は弱かった。私にとって春麗は、妹のような存在だ。
「老師ったらお若くなってから、畑に凝り出してしまって。あんなに耕してどうするのかしら。三人が食べられるだけあればいいのに。
今朝の青菜の事だって、ねぇムウ様」
「あはは……あれはねえ」
春麗が口を尖らせる。私は苦笑いを浮かべ、朝ここを尋ねた時、台所に山積みになっていた青菜を思い出した。
老師が今朝紫龍と共に収穫してきた青菜の山。こんなに、と驚き、次に呆れた。
市へ出すか、近所の家という家に配りでもしなければ、とても捌ききれない量だった。
今も今とて、老師は紫龍を伴って畑で精を出していらっしゃる。
飲み物と昼食を届けるために、私と春麗はこうして畑への道を急いでいた。



春麗は急な坂道を濡れた草むらを、慣れているのかどんどん進んでいく。私はその後に続く。
「そういえば今朝、紫龍とあまり口をきいていなかったね。喧嘩でもしたの?」
朝一番にここを訪れた私の目に、二人は意識して避けあっているように見えた。
「喧嘩じゃないわ、紫龍が一人腹を立てているのよ!」
「腹を? どうして?」
意外なことだ。紫龍は思慮深くて決して怒りっぽい性格ではないと思っていたのだけれど。
一人腹を立てているだなんて、一体どうしたことか。
坂を下り小川を飛び越え、また坂を上る。やっと道が広くなり、二人並んで歩くことが出来た。
春麗は口を尖らせ、不機嫌そうにその理由とやらを話してくれた。
「この間ムウ様の代わりに、聖域からミロ様がいらっしゃったでしょう? 老師にお手紙を届けるのに」
「ええ、私がアテナと共に祭祀を行っていた時だね」
「ミロ様が帰られた後、ミロ様って素敵な方ねって紫龍に言ったら、なんだか機嫌を悪くしちゃって、それから一人むくれてるのよ?」
「……へぇ、それからどうしたの?」
「どうも何も、それだけなの」
春麗の頬が、ぷっと膨らんだ。
「……それだけ?」
「そうよ、本当にそれだけなの。紫龍があんなふうだから、私も知らない振りをしてるの。だって私悪くないもの!」
話しているうちに、春麗の声がどんどん大きくなっていった。



……微笑ましい、と私は思った。



「春麗、紫龍はあなたが他の方を褒めたのが嫌なんですよ」
「分かってるわ、でも本当にそう思ったんだもの、だってミロ様って紫龍よりずっと大人だし面白いことも仰るし……ムウ様、私悪くないでしょう?」
「それはそうですけど……ああ知らなかった、紫龍が嫉妬深いだなんて……ふふ」
「笑い事じゃないわ、もう、ムウ様ったら!」
「ごめんごめん、でも可笑しくって」
私はおかしさを堪える。真剣な春麗はむきになる。
「それで春麗、あなたはどうするつもり?」
「どうするもこうするも、紫龍が勝手に怒ってるだけだもの、あっちが頭を下げるまで口もきかないって決めたの!」
「おやおや、穏やかじゃないですね……」
それを痴話喧嘩というのだと、犬も食わないものなのだと、自覚できるほど二人はまだ大人ではないらしい。
幼い恋は、惹かれあったりぶつかったり、我を張れば張り通し、一筋縄ではいかないもの。
嫉妬するほど互いを想い会うことの重み。いつもいつもそれをぶつければいいというわけではないこと。
幼馴染の、駆け引きを知らない青い恋。


微笑ましくて、うらやましい。



―――遠い日のことを、私は思い出していた。もう、戻ることのない日と、人のことを。



好きだった人はもういない。
誰にも言えない恋だった。



「でもね春麗、あなたが悪くなくても、あなたが折れるときも必要なのですよ」
最後の小川を飛び越える。少しきつい坂にさしかかる。この坂を上りきると、畑が見える。
「……私、悪くないのに?」
「どっちもどっちですよ。嫉妬する紫龍も紫龍だし、紫龍の性格を分かっている筈のあなたもあなたですよ」
「……そうかしら」
頑なになりがちな年頃。私にも春麗くらいの頃、そんな覚えがある。自分が悪くないと信じたら、何が何でも非を認めたくなかった。
どっちもどっち、という言葉が理解できなかった。
「紫龍に詫びろとはいいませんよ。ただ口をきかないなんて意地悪なことは止めて、何もなかったように、いつもどおりに接して御覧なさい。
きっと紫龍はきまりわるくなって、詫びてきますから」
女なら、器の広さを見せ付けなさい、と添える。
春麗はいまひとつ得心できないのか、眉根を寄せて考え込んでいる。
「ああ、見えた。まだ休憩していないようですね」
坂を上りきると、私の指差す方向には広い畑をまめまめしく耕す青年と少年が見える。
「ほら、春麗」
私が緋色の背中をトン、と叩くと、春麗は少しためらい、それから大きく頷いて深呼吸した。



「紫龍ーーーー!」
そして、元気に駆け出した。

(END)



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