朝、起きたら女の子になっていた。
なんてマンガのような出来事が、たった今、日向の身に起こっていた。
「え!? 何、これ?」
胸には男だったらあるはずがない膨らみがある。そこそこ大きいが日向は元々男子なのでサイズは分からない。
思わず下半身に触れれば、男子だったらあるはずのものがそこになくて、わっと小さく声をあげた。
「ど、どうしよう!!」
自室の扉を開けると、慌ただしく階段を駆け降りて行った。
「こらー、翔子!! いくら遅刻しそうだからって慌てて階段を降りないの! 怪我なんかしたらどうするの」
偶然出くわした日向の母親に注意された。洗濯の途中なのだろう、両手に洗濯かごを抱えている。
「母さん、おれ、女の子になって……えっ、翔子?」
「翔子って誰?」
思わず漏れた日向の声に彼女は、
「何寝ぼけたこと言ってるの?」と言った。
「あんたのことじゃない!」
「おれ?」
日向は自分の顔を指さした。
「おれなんて男の子みたいな口調はやめなさい! 翔子は女の子なんだから」
「女の子って誰のこと言ってるの?」
「翔子、あんた、熱でもあるんじゃないの? 気分悪いんだったら学校休む?」
言いながら日向の額に触れた。
「おれ、女の子なの?」
そんなことを聞いたのは人生で初めてだ。
そうか、おれは女の子だったのか、と納得しかけて、「そんなことあってたまるか!」と呟いた。
日向は女子ではなく、翔子なんて名前でもなく、正真正銘男子である、日向翔陽だ。
これは何かの間違いだ。
「おれは女じゃない! それに翔子なんて名前でもないし……」
母親のくせに息子の性別と名前を間違えるなよと日向は思った。
「翔子、あんた、本当に……」
「元々頭が悪いと思ってたけど、とうとう本当に悪くなってしまったのね」と母親は言った。
自分の母親に聞き捨てならないことを言われたような気がしたが気のせいだと思った。
どうやら冗談などではなく、本気で日向を女子の日向翔子だと思っているらしい。
一体何がどうなっているんだ!と日向は混乱した。
「あーっ、もう!」と声を上げ、頭を抱えていると、心配そうに母親に顔をのぞき込まれた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない。もうどうしたらいいのか分からないよ!」
その場に座り込んだ。
「調子悪いの?」
「悪くないけど……」
身体の調子は健康そのものだったが、身体の性別が変わっているのは変だ。だが、そのことを母親に言うことはできなかった。
「あっ」
ぽんと母親は両手を叩いた。
「学校でいじめられてるの? あんた、影山君ファンから陰口叩かれてるって愚痴ってたもんね」
何だろう、それは。疑問に思いながらも黙って母親の話を聞いていた。
「人気者と付き合うのも大変よね」
付き合う? 誰と?
日向の頭の中で次々と疑問符が浮かんでいく。
母親の話に影山の名前しか出てこないことから推測すると、影山しかいない。
「おれ、影山と付き合ってるの!?」
日向の口から驚きの声が出た。
影山飛雄……烏野高校男子バレーボール部でセッターをやっている男だ。最初の頃は影山から一方的に邪険にされてきたが、近頃は影山との連携プレイに磨きがかかり、影山から認められるようになってきた。だが、特別に仲が良いというわけでもなく、クラスも別々で、もちろん恋人としてお付き合いをしているわけでもない。お互いに同性同士なのだから当然だ。
日向の母親は、何を言ってるの、とでも言いたそうな顔で日向を見る。
直接影山と日向が付き合っているとは言わないが、否定しないところをみると、それは事実のようだ。
日向はこれ以上話をややこしくしないようにその件には口を挟まなかった。
「もし、いじめられてるなら……」
「いじめられてないよ! 別に何でもないから!」
「そう? だったらいいんだけど……。調子悪くないんならさっさと行く準備しなさい。バレーの朝練あるんでしょ? ほらそんなところで座り込んでないで……」
母親に無理矢理立たされ、背中を押された。
「あっ、そうだ! 朝練!」
毎日どちらが先に到着するかで影山と競争しているのだ。今日も影山に負けるわけにはいかない。
日向は慌てて自分の部屋に戻り、準備を済ませると階下に降りた。
食パンを口にくわえて、「いってきます!」と家を飛び出た。日向の背後で母親が何かを言っているのが聞こえたが、急いでいたので敢えて無視した。
烏野高校に向けて懸命に自転車をこいでいる間に、すっかり性転換という面倒なことは頭の隅に置かれてしまった。あまりにも頭の痛い問題だったので、そんなこと最初から起こらなかったのだと思いたかったのかもしれない。
自転車を自転車置き場に置くと日向は走った。
昨日は影山にわずかの差で負けてしまったが、今日は日向が勝つのだ。そして、1秒でも長く、バレーに打ち込みたい。ここから烏野第二体育館までの距離が惜しいぐらいだ。
既に開いている体育館が見えて、今日も影山に先を越されたのかと思いながら体育館の中に足を踏み入れた。
一人サーブを打っている影山の姿を視界に入れ、やっぱり先を越されたんだと残念に思った。
今日が駄目なら明日は絶対1番になってやる。
「よーしっ!」
日向はその場で飛び跳ねると影山へと駆け寄った。
「影山!」
日向が呼び掛けると影山は振り向いた。なぜか驚いた表情で日向を見ている。
「影山?」
日向は首を傾げていたが、今自分の姿が女子に変わっていることを思い出した。いつもと同じような格好をしていても、服の上から浮き上がる男にはない胸の膨らみは隠せない。ライバルとして意識している影山に今の姿を見られることが恥ずかしかった。
「あ、影山、これは……」
「お前、何でここにいるんだ?」
「は? 何でって言われても……だって……」
「女子はこっちじゃないだろ。寝ぼけてんのか?」
「女子って誰が女子?」
このようなやり取りをついさっき母親とやったばかりだったことを日向は思い出した。
「あのさ、おかしいこと聞くけど、おれの名前って日向翔子?」
「はっ? 何、当たり前のこと言ってんだ。日向の彼氏の俺が彼女の名前を間違えるわけねぇだろ」
「おれが影山の彼女……」
既に母親から影山が日向の恋人であることを聞いていたが、実際に本人の口からそれを言われると本当のことだったんだなと実感する。
「いやいや影山だけはありえないって」
影山が日向の恋人である事実は認めたが、納得はできなかった。
他にも男子バレーボール部の人間はいるのに何でよりによって日向の恋人が影山なのだろう。影山のことは嫌いではないが、今までライバルとして意識していた人間が突然恋人に変わるのは違和感を感じるし、影山が恋人なのは嫌だ。
「何ぶつぶつ言ってんだよ」
日向は影山を観察した。普段部活で見ている影山そのもので変わったところはない。
「影山は影山か……」
「?」
影山は首を傾げた。
「やっぱり寝ぼけてんだろ」
「寝ぼけてねぇよ!」
自分の性別を含め、自分を取り巻く周りの状況がおかしいのだ。
「影山、起きた時からなんか変なんだよ! おれの身体が……」
「どうしたんだよ?」
影山は心配そうに見た。
「いや、別にどっか痛いとかそんなんじゃなくて……」
ぐぅぅ〜と、唐突に腹が鳴った。
影山は吹き出した。
「そういうことか」
「笑うなよ」
今更、朝に食パンしか食べて来なかったことを思い出した。何かをゆっくりと食べている余裕がなかったのだ。
「確かにお腹空いてるけど、そういうことじゃなくて……」
腹を抱えて笑っている影山に日向は顔を真っ赤に染めて「笑うな!」と言った。
「あぁ、もう腹立つな!」
日向は影山に笑われたことが悔しくて地団駄を踏む。
「わ、悪い。日向がおかしくて……」
笑われていることは不快だったが、影山ってこんな表情もできるんだと感心してしまった。
今まで影山の笑顔は恐いと思っていた日向に影山の笑顔も悪くないと思わせる自然な表情だった。
いつもこんな風に笑ってくれたら影山が恐くないのに、と日向は思った。
「ちょっとここで待ってろ」
そう言い、影山はどこかに消えた。
しばらくすると戻ってきて日向に紙袋を渡した。
「これ……」
紙袋の中には中華まんが一つ入っていた。どうやら影山が坂ノ下商店まで走って買ってきてくれたらしい。
「まだ開いてなかったけど無理言って開けてもらった。日向が貧血で倒れたら大変だからな」
「あ、ありがとう……」
影山に食べ物を奢ってもらうのは初めてのことで日向は感動した。影山にも優しいところがあるんだなと感心した。
同時にこんな珍しいことが起こるなんて明日は雨でも降るんじゃないかと思った。
まだ温かい中華まんを手に取ると日向は口に入れた。
「うん、美味しい」
日向は影山を見るとニッコリと笑った。
恐る恐るといった感じで影山の手が日向に伸び、日向の頭を撫でた。
一体何が起こったのだろう。
日向は中華まんを口に入れたままぽかーんとして影山を見ている。
――影山ってこんな奴だったっけ?
日向の知っている影山は親切に食べ物を奢ったり、人の頭を撫でたりするような優しい人間じゃない。
「食ったらさっさと行けよ」
日向にとってここは家に次ぐ第二の居場所だ。さっさと行けと言われても一体どこに行けばいいのか分からない。
女子だからやっぱり女子バレーボール部が使っている体育館に行くべきなのだろうか。
中華まんを食べ終わると日向は影山に言った。
「影山、奢ってくれてありがとう」
体育館を去ろうとする日向に影山は言う。
「また後でな。いつものように中庭で待ってるから」
「いつものように? 何のこと?」
二人の間で暗黙の了解で行われていることのようだが、日向にはさっぱり分からない。
「昼、一緒に食べてるだろ」
「あぁ……そういうこと!」
日向は納得した振りをして頷くと、「じゃあな!」と言って影山と別れた。
影山に撫でられて少し崩れた髪型を手で直しながら日向は歩く。
「行く場所は分かってるんだけど……」
未だ女子に変化した身体に心身共に慣れていない日向が女子の集団に混ざるのは不安だった。全く知らない場所に行くようなものだ。
「よーしっ、今日の朝練はサボり決定!」
大好きなバレーができないのは辛いが仕方がない。
「とりあえず、制服に着替えないと……」
どこで着替えようか考えて思い浮かんだのは男子バレーボール部の部室だった。
日向は単純な人間である。思い浮かんだら実行と後先考えずにそこに向かった。
幸い部室には誰もいなく、日向は鞄を置くと中から制服を引っ張り出した。ぐちゃぐちゃにして突っ込まれていたせいか少々皺になっているが大雑把な性格なのであまり気にならない。
いざ女子の制服を目前にすると考え込んだ。「う〜ん」と日向は唸り声を上げた。
やはり男子の日向が女子の服を着ることには抵抗がある。一番恥ずかしいはずの女子の下着を身に着けていることに関しては、最初から身に着けていたのであまり意識にのぼらない。
「これ、どうやって着るの?」
万が一その抵抗感を乗り越えたとしても、女子の制服を一度も着たことがないので着方が分からない。
「もうどうにでもなれ!」
日向の身近にいる女子を思い浮かべながら日向は着替えた。
「こんなもんかな」
自分の身体を目で確認しながら日向は呟いた。
「う〜〜〜、やっぱり、変だ!」
普段男子の制服を着た自分の姿に見慣れているので、女子の制服を着た自分には違和感がある。まるで女装をしているような気分だ。
影山が自分のことを元々女子だと認識していて良かった。もしそうじゃなかったら今頃どうなっていたことか。
――きっとバカにされるんだろうな。
「それにしても、どうなってるんだろう? おれ、昨日変なもの食べたっけ?」
いや、変なものを食べて女子化したなんて話、日向は一度も聞いたことがない。
更に言うならば、日向の母親や影山が日向のことを女子の日向翔子と認識していることがおかしい。そして、影山との関係性が恋人に変わっているのも更におかしい。朝起きてから日向や日向の周りで起こることはおかしいことだらけだ。
「一体どうなってるんだよ!」
何かがおかしいと日向は思う。夢なら早く覚めて欲しい。
ふと冷静になって周りの人間が来ないうちにさっさとここから出なければと思った。女子の日向がここに居ることが知られたら面倒だ。うだうだ言っても今の状況が変わるわけではない。
日向は部室から出た。
「スカートの中がすーすーする。気持ち悪い」
毎日違和感なくこの格好で生活している女子は凄い。
一時はどうなるかと思ったが意外とどうにかなった。周りから日向に接触してくるのを適当に合わせて過ごした。
だが、どうにもならない問題もある。
トイレに行くのを渋って何とか尿意をごまかしていたがとうとう我慢できなくなり、お昼休憩を知らせるチャイムが鳴った途端、日向は教室を飛び出した。
いつものノリで男子トイレに入るなんてバカなことはさすがにやらなかった。
身体が女子でも心が男子な日向は、女子トイレに入るのを躊躇する。今の姿が女子だと分かっていても、周りの視線を気にせずはいられなかった。
長時間にも思える試行錯誤の末、トイレから出ると、日向は盛大にため息をついた。
「女子って難しい」
その時、ぐうう〜とお腹の音が鳴った。
「お腹、空いた」
教室に戻ると、自分の席に戻り、鞄を漁った。
「ない……ない!」
本来なら鞄の中にあるべき弁当箱が見当たらない。
「そっか、入れ忘れたんだ。お金も持ってきてないし……」
この調子でずっと学校で過ごさなきゃいけないと思うと辛かった。家に帰るまで頑張れる自信がない。
日向は影山のことを思い出した。
「そうだ、中庭! 影山、待ってるって言ってた」
慌てて走った。
影山は先にベンチに座って、弁当を食べていた。日向が駆け着けると一言、「遅い!」と言った。
「ごめん!」
慌てて日向は謝った。
影山のことだから更にここで余計な一言がつくんだろうなぁと日向が構えていると、影山は言った。
「何、ボケっと突っ立ってんだ。早く座れよ」
「あぁ、うん……」
――あれ、変だな。
拍子抜けしながら、日向は影山の横に腰掛けた。
「日向、お昼は?」
「あっ、忘れてきたんだ」
「お前らしいな」
「お前らしいってどういうことだよ!」
ぐぅぅ〜っとお腹の音が鳴った。
影山にも聞こえたらしく、途端にぶっと吹き出した。
「お前、朝も……どんだけ食いしん坊なんだよ」
「わ、笑うなよ。勝手に鳴ったんだから仕方がないだろ!」
ぷぷぷと笑い続ける影山に少し腹を立てながらも、こうやって自然に笑う影山はやっぱり悪くないなと思った。
「いつもこうだったら恐くないのに……」
日向が知っている影山は無愛想か、怒っているかの二択で、たまに笑うことがあっても不気味で恐い。
近づき難いオーラを漂わせているのも普段の影山なのだが、今の影山にはそういった雰囲気はなく、穏やかに見える。
――影山ってよく見るとカッコいい?
近くにいることはよくあるのだが、意識して影山を見るのは今が初めてだ。
背は高く、体格もしっかりしていて、顔は男らしく整っている。そこに優しさや穏やかさが加われば、女子の好感度、高いんだろうなぁと日向は思う。
「何?」
「影山ってさ、なんかちょっと変わった?」
「どこが?」
「どこって言われても……前よりも優しい。今日の朝なんか奢ってくれたし!」
「俺は別に優しくない。日向にだけだ」
「おれだけ?」
影山から面と向かってそう言われてしまうと日向は照れてしまう。
――そういえば、今のおれたちの関係って恋人同士なんだったっけ。
「日向こそ、今日、変だ」
「えっ?」
ドキッとした。
「なんかちょっと男っぽい。しゃべり方とか……。おれって何だよ? 敢えて突っ込まなかったけど」
「えっと……」
この世界の影山が最初から日向を女子と認識して付き合ってきたのだとすれば、今の日向の話し方は不自然に見えるだろう。影山に指摘されて気付いた。
「こんなおれは嫌い?」
「う〜ん、そうだな……敢えて突っ込まないで放っておいたということは、そんなに嫌じゃないんだろうな。しゃべり方が多少男っぽくても日向は日向だ」
「良かった」
言った後で、何が良いんだろうと自分に突っ込んだ。
「よっ、お二人さん、仲いいね!」
影山だけじゃなく、日向もよく知っている男子バレーボール部2年の田中龍之介が口に飲み物の紙パックをくわえて立っていた。
何で田中さんがここにいるんだろうと日向は思う。
田中はニヤニヤ笑いをして影山に絡み付く。
「俺には彼女がいないというのに……」
「影山の癖にナマイキだぞ!」と言って影山の背中を叩いた。
「痛いです」
「お弁当まで作ってもらって!」
「いや、これは親に作ってもらったもので、日向が作ったんじゃ……」
「羨ましいぞ!」
「こらー、田中、何やってんだ!」
偶然通りかかったらしい菅原が現れて言った。
「スガさん!」
「そんなんだから女の子にモテないんだよ。二人の邪魔するな」
菅原は影山と日向ににっこりと笑って言った。
「ごめんな、邪魔して。俺から謝っておく」
菅原は影山の弁当をちらっと見た。
「影山、良かったな」
「いや、これは……もういいです」
まだ田中は何か言いたそうだったが、そのまま菅原に連行されて行った。
影山の弁当について、二人は盛大に勘違いをしてくれた。思わず日向はぷっと笑った。
「笑うなよ」
「だって、おかしくて……」
涙が出るぐらいに盛大に笑った後、日向は影山の弁当をのぞきこんだ。
「影山の弁当、可愛いな。お母さんが作ってくれたの?」
そこには所謂キャラ弁という何かのキャラクターをモチーフにして作られた弁当があった。影山の人柄とキャラ弁というのがミスマッチしていておかしい。
「俺の母さん、少女趣味だから……キャラ弁なんて女みたいで嫌だ」
「美味しそう……」
ちょうどお腹を空いているのもあって、日向はぽつりと呟く。少女趣味で女みたいでも食べられるならいい。
「日向、食べるか? お腹空いてるんだろ?」
「えっ、いいの? あっ、でも、影山の分が……」
「いいんだよ。ほら、食え!」
影山は日向に弁当を差し出した。
「でも……」
「遠慮なんかしてんじゃねぇよ! お昼、何も食べないまま放課後まで過ごすお前のほうがやばい。途中で倒れたらどうすんだよ」
「……いただきます!」
日向は影山から弁当を受け取ると、食べ始めた。お腹空いていたのであっという間に平らげてしまった。
「ごちそうさま! あぁ、美味しかった」
「全部食ったな……」
すげぇ、食いぶりと影山は呟いた。
「影山、ごめん。お腹空いてたからつい……。残しておいたほうが良かった?」
「いい。おかげで幸せそうに飯食う日向の顔が見れたし」
影山から「可愛いな、お前」と言われ、日向は箸を地面に落とした。
「なっ、か、可愛いって……」
――おれの何が可愛いの?
これは影山に褒められたと受け取っていいのか。男に男の自分が可愛いと言われて、素直に喜んでいいのか分からない。
だが、女子なら可愛いと言われたら普通喜ぶだろうし、影山に怪しまれないように喜んでおいたほうがいいんじゃないかと思い、とりあえず日向は「嬉しい!」と笑顔付きで言っておいた。
「お前、それ、絶対俺だけにしろよ! 他のヤロウの前ではやるな!」
「えっ、何?」
「自覚なしかよ!」
終わりのホームルームが終わって担任の教師が教室を出た後、日向は机に顔を伏せた。
――つ、疲れた。
とりあえず、どうにかなったが、女子としての生活は慣れないし、緊密な女子の人間関係に無駄に精力を使って疲れた。
過ごしている場所はいつもと同じなのにまるで別の世界にもぐりこんだような気持ちだった。
――もう、帰りたい。
今日はバレーどころじゃない。もう家に帰ろうと思い初めた矢先に日向の友人らしい女子が声を掛けてきた。
「翔子ちゃん、部活行こう」
翔子ちゃんという呼ばれ方にも日向は慣れない。
「あっ、うん……」
「珍しいね。バレー大好きな翔子ちゃんがまだ教室に居るなんて。いつもなら部室に直行しているのに」
「えっ、そう?」
性別は違えど、性質は似たようなものらしい。
「そうよ。なんかさ、今日の翔子ちゃん、変!」
「な、なんで!?」
「なんかいつも以上にガサツじゃない? 話し方、なんか男っぽい」
「な、何言ってんだよ、お、おれ……男じゃないし!」
「それ! 翔子ちゃん、いつもそんな話し方しない。おれなんて今まで一度も言ったことないじゃない。そりゃあちょっとはガサツなところもあるけど、でも、話し方は普通に女の子だった。もしかして身体の調子悪い? 保健室行こうか?」
「いや、別におれは……」
言ってから、今、指摘されたのに何、おれなんて言ってるんだよっと自分に突っ込んだ。
「遠慮なんかしなくてもいいんだよ。疲れてる時はちゃんと休まなきゃ!」
「だから違うって」
「あぁ、どうしよう! こういう時は親友の私が保健室に連れて行ってあげるべきよね!」
って人の話聞けよ!
日向は目の前にいる自称親友の少女に心の中で突っ込んだ。
日向の頭の中は混乱していたが、ふと頭の中に影山の姿が浮かび、口を開いた。
「あのさ、影山が……」
――あれ、なんでここで影山の名前出してるんだろ、おれ。影山が何?
日向は黙り込んだ。
「そっか、私なんかよりも恋人の影山君に介抱してもらいたいよね。ごめんね、気が利かなくて」
「えっ、その……」
そういうことじゃなくって……日向の言葉は続かなかった。
「私、影山君、呼んでくる!」
彼女は日向が止める前に教室を飛び出した。
「えっと……なんでこうなるの?」
女の子ってめんどくさいなぁと日向は思った。
しばらく待っていると、影山がやってきた。
「日向、大丈夫か!」
「えっと……」
何でもないとバレたら怒られそうだなぁと思って日向は気分が悪いのを装った。
「ちょっと気持ち悪い……かも」
「貧血か? 昼は……ちゃんと食べたよな」
「私、元々、貧血体質だから……」
か弱い女の子を演出する。わざとらしい演技に自分でやっておいて気持ち悪くなってきた。これで影山が騙されなかったら演技派だ。
「そうか」
――って騙されてるし! こいつアホだ。単細胞。
日向のよく知っている影山なら「嘘付くな、このボゲ日向だ!」とか言って無理矢理部活に連れて行くはずだ。
――もしかして影山って案外、女子に弱い?
普段あんなに恐い顔をしていてバレーボール第一で女子なんか興味ないみたいな感じなのに、と日向は思う。
――そういえば、今日の影山ってあんまり恐くない。怒鳴らないし……むしろ、優しい?
黙り込んでいる日向を調子が悪いせいだと思ったのか影山は言った。
「日向、帰るぞ!」
勝手に日向の鞄をかついだ。
「えっ?」
「何ボサっとしてるんだ」
「帰るってどういうこと!?」
「何だよ、そんなに調子悪そうなのに部活やるってのか? ぶっ倒れるぞ」
「でも、いつもの影山なら、甘えてんじゃねぇ、ボゲーーとか言って怒るんじゃ……影山、変」
「何おかしなこと言ってんだよ。男相手ならそうなるけど、女相手にそんなこと言わねぇよ。特に彼女にはな。俺からするとお前のほうが変だ」
何かが胸に引っかかった。それが何なのか日向には分からない。
「で、なんで影山がおれの鞄持ってるの?」
「日向を一人で帰らせるわけにはいかねぇだろ。俺も一緒に帰る」
「部活は?」
「部活なんかよりもお前の方が大事だ」
「バレーボールよりもおれのほうが大事?」
「当たり前だ」
「……」
なぜか影山の言葉が胸に突き刺さる。
だが、影山から気にかけてもらえて嬉しいのも事実だ。日向はやんわりと笑顔を見せた。
「日向、帰るぞ」
照れくさそうに顔を赤く染めて、影山は日向の手を掴んだ。
「あっ、そういえば、おれ、自転車で来てるんだった」
影山に連れられて歩いている間に気付いた。
「そうだったな」
影山が日向を送ると言ってここまではりきって歩いていたのに日向は何だか申し訳ない気持ちになった。
「影山、ごめん」
「気にすんな。さすがに最後までとは言えねぇけど、俺が日向を送ってやるよ」
日向は影山に繋がれた手を意識した。
「あの……影山、手……」
「手ぐらい繋ぐだろ、恋人同士なんだから……」
影山が顔を赤くして言うものだから日向まで恥ずかしくなってきた。
影山と繋いだ手が温かくて、女子の生活は大変だけど、悪くないなと思った。
「ただいま!」
帰宅して居間の扉を開くと、日向の母親がエプロン姿で料理を作っていた。
いつもなら「兄ちゃん、おかえり!」と言って日向の胸に飛び込んでくる妹の夏は、すぐ傍で夕方のテレビアニメに夢中になっており、日向の存在に気付いていない。
「おかえり! 早かったわね。部活は?」
「気分が悪かったから休んだ」
「ちょっと大丈夫? やっぱり今日学校休んだほうが良かったんじゃないの?」
「別にそこまで大したことじゃないし……ちょっと寝たら大丈夫!」
「そう? 明日も調子悪かったら学校休んで病院に行くのよ」
「大げさだって」
冷蔵庫から牛乳を出すと、コップに注ぎ、飲み干した。
妹の後姿をちらっと見ながら、扉を目指して歩き、リビングから出た。
階段を上り、自室に入る。
朝は慌てていたので自室の中を確認する暇がなかった。
よく見ると、日向がいつも目にしている部屋と違って女の子らしく、全体的に可愛らしい内装をしている。カーテンはピンクで棚には動物のぬいぐるみが置かれている。
――本当に女子なんだな、おれ。
「はぁ、何だか複雑」
何だか知らない女子の部屋に勝手に入っている気分で落ち着かない。
やれやれと呟き、ふらふらとベッドに倒れた。
「あぁ、疲れた……」
制服がクシャクシャになるのも気にしない。
いつまで女子でいればいいだろう。早く男子に戻りたいと痛切に願う。一生女子のままなのは嫌だ。
「スカートはスースーするし、トイレは大変だし、女子の人間関係はちょっと熱苦しくて嫌だ」
自分に接する周囲の態度が男子の時とは違う。
周りの人間は口々に元は男子である日向に対して女らしくないと非難する。元は男子なのに……と日向は戸惑ってしまう。男らしいとか、女らしいとか、意外とみんなそういうものにこだわるんだなと日向は思った。
影山だけが、日向は日向だと言って普段の日向でいることを認めてくれた。それが日向は嬉しかった。日向がよく知っている影山も何だかんだ言って日向のことを認めてくれている。嫌な人間のように見えるが、根は嫌な人間ではないのだと日向は思う。
傍にあったクッションを掴むと、それを胸に抱いた。
ふと机の上に視線を向ける。そこには写真立てが置かれていた。興味がわき、ベッドから立ち上がると、それを手にした。
「あれ……これ、おれ? それと影山?」
その写真に写っていたのは、日向と影山だった。だが、日向は撮った覚えが全くなかった。
写真の中の日向は、薄化粧にミニスカートという、女装癖がない限り、男子には有り得ない格好をしているのだから本来の日向ではないと断言できる。
そもそも、影山とは日向と親しく肩を抱き合って写真を撮るような親しい間柄ではない。お互いにライバルとして意識し合っているだけのただの部活仲間だ。
どこかの遊園地をバックにして撮ったらしく、日向は影山の横で幸せそうに笑っている。日向の横にいる影山もまんざらでもなさそうだ。
本来ならあるはずのない影山との親しい関係に対して日向が抱くのは気持ち悪いという感情ではなく、幸せそうでいいなぁという気持ちだった。もし、本当に日向が女子だったのなら、影山が恋人だっただろうなぁと納得してしまう。
「パラレルワールドってよくマンガの設定でよくあるけど、本当にあったんだな。どっかの世界に女子なおれがいてもおかしくないけど、なんか変な感じ」
この世界では日向が女子であることは当たり前で、周囲の人間もそのことを当たり前として認識して日向に接している。だが、偶然違う世界から迷い込んだ日向には馴染みのない世界で違和感を抱いてしまう。
そもそも、なぜ日向がこの世界に迷い込んだのかが謎だ。起きたら別の世界にいました、というのはマンガの世界にありそうだが、実際に日向の身に起こるとおかしい。
「とりあえず、元の世界に戻るまでは何とかここでやっていくしかないのかな」
果たしてそれまでに日向の身と心が保つか分からない。先行きが不安で仕方がない。
夕食の後、母親に風呂に入るように言われた。
「風呂!?」
「何、その反応は?」
「ちょっと今日は……」
「もしかして、翔子、今、生理?」
「じゃないけど……」
「だったら入りなさい。女の子が風呂に入らないなんて影山君に嫌われるわよ」
「とびおに嫌われるぞ!」
母親に続いて妹の夏が言った。
「夏、うるさい!」
生意気な妹を黙らせようと日向は夏の頬を抓った。
「やー、姉ちゃんがいじめる!」
「こらー、もういい年してるんだから夏をいじめるのはやめなさい」
母親に叱られたので渋々夏から手を離すと、日向は「チッ」と舌打ちした。
今、身体が本来のものとは違うという理由で風呂には入りたくなかったが、入らないと言うと母親と妹がうるさそうなので入ることに決めた。
着替えを取りに自室に戻ろうとした日向の腰に夏は飛び付いた。
「アタシも姉ちゃんと風呂に入る!」
「え〜、夏と一緒なんて嫌だよ」
普段ならともかく、本来のものとは違う身体で夏と一緒に風呂に入るのは嫌だ。
「夏、まだご飯食べてないでしょ!」
「え〜!!」
助け舟を出してくれた母親に感謝しながら日向は夏の身体を自分から引き剥がした。
脱衣所に入った日向は慣れない手つきで一枚ずつ服を剥いでいく。
鏡に映った自分の全裸に日向は顔を真っ赤にした。
「うわぁぁ……本当に女の子なんだ」
胸なんて思っていた以上に大きい。
思わずそこに触れてみたらマシュマロのように柔らかくてドキっとした。
女子の全裸なんてクラスの男子の間で回し読みされていたエッチな雑誌でしか見たことがなく、生で見るのは初めてだ。まだ高校1年生の少年には刺激的すぎる。
まだ風呂にも入っていないのに全身が熱い。
ふと鏡を見ると、その鼻から流れるものがある。赤い……血だ。
ふらふらと身体を不安定に揺らして日向は倒れた。
その時、頭を軽く打って気を失ってしまった。
「ううっ……」
「翔子、気付いたのね」
気付いた時には自室のベッドで横になっていて傍には母親が付いていた。
「母さん……おれ……」
起き上がろうとしたところ、軽く頭に痛みを感じ、「いたっ」と声を上げた。
「倒れた時に頭打ったのね。明日、病院に行って診てもらいましょ。何かあったら大変だわ」
うっすらとした前の記憶で自分の女子の身体に興奮し、鼻血を出して倒れたことを思い出した。鼻血のことに母親が全く触れないことを素直に喜べない。逆にそのことに触れられないことが男のプライドを刺激して恥ずかしく思う。
身体は女子になっても心は男子だ。
見慣れない女子の全裸を生で見ると動揺する。
それが他人のものならともかく、自分の女子の身体を見て倒れてしまうなんて一生の不覚だ。
「母さん、お願いだから一人にさせて」
今は母親と一緒にいるのは耐えられない。
鼻血を出して全裸で倒れている姿を誰かに見られるのは例え身内でも嫌だ。そんなみっともない姿を実の母親に見られてしまった。母親がそのことに触れないのが、余計に心にこたえる。
日向の必死な思いが伝わったのか母親は自室を出て行った。
日向は自室で一人になれたことにほっと息をついた。
動けなかったのでしばらくの間ベッドに横になっていると、着信メロディーが鳴り出した。
ベッドから起き上がって鞄から携帯電話を取り出す気にもなれず、日向が放置している間に着信メロディーは鳴りやんだ。
しばらくすると携帯が鳴り出し、放置していると鳴りやむ。それを何度か繰り返し、5度目に日向が我慢できずにベッドから起き上がって鞄の中から熊のぬいぐるみのストラップがついたピンクの携帯電話を取り出した。
「一体誰なんだよ」
しつこいと思いながら発信者の名前を確認すると、影山の名前が表示されていて日向は驚いた。
こんな時間に何の用だろうと胸を高鳴らせながら通話ボタンを押した。
「はい!」
緊張の余り少し上擦った声が出た。
『日向か?』
携帯電話の向こう側から影山の低い声が聞こえてくる。
「うん」
『今駄目だったか?』
「いや、別にそういうわけじゃ……何?」
『日向、帰る時、気分悪そうにしてただろ。大丈夫か気になって……』
あれは日向の演技だった。今更、影山を騙したことに罪悪感を抱いた。
「えっと、それは……」
――うわっ、どうしよう。
まさか影山が本気で気にしていたなんて思っていなかった。日向は軽くパニックに陥って電話してきた影山に対して適当に取り繕うことができない。
『日向、調子悪いのか?』
電話の向こうから聞こえる影山の声から日向への気遣いの気持ちを感じて、日向は申し訳なくなった。
影山の言うように今、身体の調子が悪いが、それは日向が女子化した自分の身体に興奮して倒れて頭を軽く打ったからであって、学校にいた時から調子が悪かったわけではない。
胸の罪悪感は消えないが、日向を心配してわざわざ電話を掛けてくれた影山に優しさを感じて胸が温かくなった。
「影山、心配してくれてありがとう」
「本当はな、お前のことを心配してたというのは単なる口実で、お前の声が聞きたかったんだ」
「心配してたっていうのは間違いじゃねぇけどな」と影山は言った。
影山のことをそういう意味で思っていないのに、影山から日向の声が聞きたかったと言われて胸をときめかせたのは自分は変だと日向は思った。
『悪い、引いたか? 声聞きたいなんて気持ち悪いだろ?』
「いや、別にそんなことは……」
どうして心臓の音が鳴りやまないんだろう。
まるで日向が影山に惚れているみたいだ。
「ない! 絶対そんなことはないから!」
『は? ないってなんだ? やっぱり気持ち悪いってことか?』
「今のはこっちのことで影山が気持ち悪いとかじゃなくて……」
身体は女子化しても心は男子のつもりだった。
心が男子な自分が影山に恋するわけがない!
日向の身体を気遣ったり、日向の声を聞きたかったなどという影山が珍しいから感動しているだけだと日向は自分に言い聞かせた。
「おれも影山の声が聞きたかった」
――は? おれ、何言ってんだ?
いきなりとんでもないことを言い出した自分の口に日向は突っ込まずにはいられなかった。
影山から反応は返ってこなかった。
突然無言になった影山に日向は恥ずかしくなった。
――何で黙ってるんだよ。影山の声聞きたいとか言ったおれが恥ずかしいだろ!
何も言わない影山に焦れて日向は電話を切ろうとしたところ、影山は言った。
『日向、もうちょっといいか? もう少し日向と話したい』
電話の向こう側で甘く誘うような声が日向に囁く。
ざわめく胸に動揺しながら頷いた。
「うん」
影山と会話しながら、頭の片隅では、男女のお付き合いってこんな感じなのかな、と感じていた。
女子として影山と接するのは新鮮だ。日向が知らなかった影山に出会う。もっと影山を知りたいなと思った。
いつの間にか、時間を忘れ、その一時をただ楽しんでいた。
ふと時計を見ると遅い時間で日向はあっと呟いた。すると電話の向こうで影山の声が聞こえた。
『じゃあ、もう遅いから電話切る。また明日学校でな』
「影山、おやすみ」
『あぁ、おやすみ』
電話を切った後、日向は盛大に息を吐いた。
まだ胸の高鳴りは治まらない。
心臓の音を影山に聞かれていなかったか心配だ。
明日になった全てが元に戻っていますように。そう願いながら日向は目を閉じた。