高校の廊下を日向は影山と歩いている。
お互いに同じ男子制服を着ており、自分はちゃんと男の子なのだと安心した。
そんな日向の心を読んだように影山が言った。
「お前は女だろ」
「へっ⁉︎」
突然影山に突き飛ばされて転んだところに、体の大きな影山が乗っ掛かってきた。
ただ事ではない。日向は身の危険を感じた。
身長差だけでは説明できないぐらい影山が重く感じる。
「何するんだよ！」
辛うじて出した声は、少しかすれていて弱々しく、迫力に欠けた。
無理矢理、影山に前を開かれた。そこには真っ平らな胸板があると思いきや、二つの膨らみがあらわれ、日向は声にならない悲鳴を上げた。
ーーど、どういうこと⁉︎
「女子のくせに男の格好なんてしてんじゃねぇよ」
「お、おれは男だ！」
「そんな格好で言われても説得力ねぇよ。胸のある男なんてどこにいるんだよ」
「うっ、そうだけど……おれは男だし……」
説得力も何も日向は生まれた時からずっと男だったはずだ。胸に膨らみがあるなんて何かの間違いだ。あり得ない。きっとこれは夢か何かだ。
「お、重い……影山、いつまで乗ってるつもりだよ」
影山はニヤリと笑った。
ーーその笑い方、気持ち悪い。
日向は嫌な予感がした。今すぐにでも影山から離れたいが重たくて離れられない。
「今、ここには俺達しかいないんだよな？」
「な、何⁉︎」
ーー影山、何言ってるの？
周りを見れば影山の言うように二人の他には人の姿が見られない。仮に今が放課後なのだとしても人一人いないのはおかしい。
「何だよ、影山。どけよ！」
「やだね。俺達、恋人同士だろ？」
ーー恋人同士⁉︎ 影山の奴、何言ってんだ？
影山とは恋人という枠に収まる関係性ではなかったし、そもそも、男同士で恋人同士はおかしい。さっきから影山はおかしなことばかり言う。
そのようなやり取りが前にもあったような気がする。
「じ、冗談だろ？」
「冗談じゃない。なぁ、やろうぜ」
影山の手が日向の胸を包んだ。
「い、嫌だ！」
その時、上の方から別の声が聞こえてきた。
「……ちゃん！」
「えっ……？」
「……ちゃんってば！」
「誰？」
「姉ちゃん！」
気が付くとそこは日向の自室で、影山の代わりに妹の夏が乗っ掛かっていた。
「あっ、姉ちゃん、起きた」
「夏⁉︎ 影山は一体どこ？」
「姉ちゃん、何寝ぼけてんの？ トビオはいないよ」
「嘘⁉︎ だってさっきおれの身体に乗っ掛って……」
もう少しで影山に貞操を奪われるところだったのだ。あれは夢だったのか。
「さっきから影山、影山言ってたけど、もしかしてトビオの夢でも見ちゃってた？」
夏はニヤニヤ笑いながら言った。
「見てない！ それより、お前さっきから姉ちゃんって……」
「えっ、何？」
「もしかして……」
日向が慌てて起き上がると、その勢いで夏がベッドから転げ落ちた。
「痛いな！ 人がせっかく起こして上げたのに！ 姉ちゃんのバカ！」
夏の抗議の声にも構わず、日向は服の上から胸に触れた。そこには女性体特有の柔らかい感触があった。男の日向には絶対ないものだ。
「む、胸！」
恐る恐る下半身の中心に触れると、男なら当然あるものがそこにはなかった。
周りを見渡したが、昨夜寝る前に見た景色と全く変わっていない。 女の子らしい可愛い部屋だ。
青ざめた表情で呆然としている日向を心配し、夏は日向の前で手を振った。
「姉ちゃん、大丈夫？」
「だ、大丈夫……」
こうなったら、仕方がない。この世界の人々にとって、日向は女の子だ。おかしく思われないようにちゃんと女の子を演じなければいけない。
日向は気持ちを切り替えると、立ち上がった。
あちこちに跳ねた髪をかきながら、階段を降りていると、今朝 夢に出てきた影山が玄関に立っていた。
「か、影山！」
夢のことを思い出し、もしかしてあれは正夢だったのかと思った。
「何でここにいんの？ お前の家っておれの家とは正反対じゃ……」
「日向、昨日具合悪そうだっただろ。だから……」
「もしかして、影山、おれのこと、心配して来てくれたの？」
日向がそう言うと影山は頷いた。
日向のよく知る影山なら、「体調管理ぐらいちゃんとやれ！ クソ日向。それぐらい基本中の基本だ。ボケ！」ぐらいの罵倒はあり得ても、わざわざ遠いところまで迎えに来る優しさは見せることはあり得ず、日向は違和感を覚えた。
「とりあえず、日向、着替えてこいよ。その格好は……」
見てはいけないものを見たとでも言うように、影山に視線を彷徨わせながら言われ、自分が起きた時のままの格好だったことを思い出した。
「あっ……」
これがもし女の子だったら、好きな男の子にこのような格好を見られたら恥ずかしいだろうなぁと思った。そう思うと本当に恥ずかしくなってきた。
日向は赤くなった顔を隠そうと下を向き、無言で影山に背中を向けると慌てて階段を駆け上がった。
ーーつうか、何で影山が来てんだよ！ あいつ、バレーバカじゃなかったのか⁉︎ 毎日バレーで忙しいのに彼女のことなんて構ってる暇ないだろ。
最近までただの部活の仲間だった自分が影山の彼女なのだと思うと違和感があった。
ーー自分以外の誰かを気遣って何かをするなんてあいつらしくない。
影山について頭の中で思考を巡らせながら、着慣れない女の制服に難儀しながら、何とか身支度を終わらせた。
スカートの中がスースーして気持ち悪いなぁと思いながら階段を降りると、母親が影山と話していた。
「あら、翔子、おはよう」
「……おはよう」
「翔子、リボン曲がってる」
日向の母親はそう言うと、影山が見ている前でリボンを結び直して見せた。
「髪の毛も……って、それは癖毛か……。彼女のためにわざわざ迎えにきてくれるなんて、影山君っていい人じゃない。影山君に逃げられないように可愛くなきゃね」
「いちいち、うるさいな」
余計なお世話だと思った。性別が変わったからか、母親が口うるさくなったような気がする。影山も影山だ。いくら恋人だからってわざわざ迎えに来る必要はない。思わず日向は言った。
「別に迎えにまで来なくていいのに……」
「迷惑か？」
「別にそう言うわけじゃないけど……」
「翔子、わざわざ迎えに来てくれたのになんてこと言うの！ ほら影山君待ってるんだからさっさとご飯食べてきなさい」
母親に言われ、日向はリビングへと足を進めれば、後ろの方から母親の声が聞こえた。
「影山君、翔子ったらごめんなさいね。母親が言うのもなんだけどそんなに悪い子じゃないから」
うるさいなと小声で毒づきながら日向はリビングの扉を開けた。
玄関で待たされた影山は日向の母親の話を聞きながら、今朝会ったばかりの日向の姿を思い描いた。
パジャマ姿の日向なんて初めて見た。いつものちゃんとした格好の日向も可愛いが、朝起きたばかりの日向も可愛い。
昨日具合悪そうに見えた日向を心配して、わざわざ遠い場所にある日向の家を訪ねたのは正解だった。
今までの影山はバレー一筋のスポーツマンだったが、日向と恋人同士になってから変わった。気が付けば、何かにつけて日向を構っている。
そんな影山に対して、周囲は、恋人ができたからと調子に乗り過ぎだと言う者、そんなんでバレーに集中できるのかと叱る者と否定的な反応が多い。
影山自身も恋をして変わっていく自分に違和感があり、これでいいのか分からない。
一度部の先輩である菅原に相談したら言われた。
「好きになっちゃったんだから仕方ないよな。
みんな恋人がいないから、お前のこと妬んでるんだよ。
俺は今のところ誰かと付き合うつもりはないけど、影山のことは応援するよ。
ただし、恋にのめりこみすぎてどれもダメなんてことにはなるなよ。メリハリが大事だからな。
でも安心した。お前って人には全く興味がないのかと思ってたから」
今までは確かにバレーのことしか見えず、他人のことなんかどうでも良かった。日向に出会って変わったのだ。
日向とは、中学3年の大会の試合会場で出会った。影山の属する北川第一が初戦で戦うことになったのが、日向がマネージャーをしている雪ヶ丘中学だった。名も知らない弱小校だとバカにした北川第一のメンバー相手に日向は絶対勝手見せるからと言って見せた。
結果は雪ヶ丘中学の負けで、日向については、ただのマネージャーでチビのくせに言うことだけはでかいという印象だったが、試合が終わって会場を去ろうとした時に日向に涙ながらに「お前を超えてやる」と言われたことが印象に残った。そんな彼女にまさか、高校で再会するとは思わなかった。
ーーあの時は男だと思ってたんだよな。
あの時は制服を着ていなかったし、髪型は男と女どっちでも取れるような短めの髪型、今ほど胸もなかったから勘違いした。
新しい高校で女子制服姿の彼女を見た時は驚いた。
思わず「女だったんだな」と呟いたら、睨み付けられ、「わたしは女だ」と言われた。それ以来、バレー初心者の彼女の練習に付き合ったり、彼女と長い時間を過ごすうちに影山は日向翔子という人物のことが好きになっていた。日向も同じ気持ちだったようで、思い切って告白してみたらとんとん拍子にうまくいき、今の彼氏彼女の仲で落ち着いた。
出会った頃は男らしかった彼女も、近頃は女らしく可愛くなってきたと思っていたが、ここ最近の彼女は初期の彼女を思い出させるぐらいどこか男っぽさがある。
ふと気付くと目の前に大きな鞄を肩に掛けた日向が立っていた。
「準備終わったのか？」
「うん」
「鞄持ってやるよ」
影山はそう言うと日向の返事を待たず、日向が持っている鞄を奪うと自分の方に掛けた。
「何突っ立ってるんだ。行くぞ」
いつまでも動こうとしない日向にそう言い、日向の頭を撫でる。するとゆっくりと日向は動き始めた。
まさか、あそこで頭を撫でられるとは思わなかった。
影山の少しかたい手の感触や、思っていた以上に大きな手の形を頭の表面で感じた。
そこで嫌な気持ちになれれば良かったのにまんざらでもなく、少し安心してしまった。そう感じた自分に日向は戸惑っている。
この世界の自分が女であることはいいとして、なぜその恋人が影山なのかが日向には疑問だ。日向がよく知っている影山はいつも口、態度が悪く、優しくない。だから日向は影山のことをあまり好きじゃなかった。どこに自分と影山が恋愛関係になる要素があるのだろう。だが、今までは自分が影山に対して抱えていた感情も、この世界で何度も影山に優しくされるとあやふやになってきた。
だからこそ、影山にちょっと頭を撫でられただけで動揺してしまうのだ。
ーー何でこいつはこんなに冷静なんだよ。
ちらりと横を見ると、影山が涼しげな表情で自転車をこいでいる。
女になった今、改めて影山を見ると、成る程、女が影山に憧れる気持ちが分からなくもない。影山はかっこいい。
影山を見ていると何だかおかしな気持ちになってきて、全身が熱くなった。
「大丈夫か？」
「だ、大丈夫！」
「そうか。気分が悪くなったら言えよ」
「あっ、うん……ありがとう……」
影山の優しさが心にしみた。こうも優しくされると感情が揺れて辛い。好きになってしまうから、今までのように日向に対して厳しい影山のままでいて欲しい。
「影山、そんなにおれ、じゃなくて、わたしのこと、気遣わなくても大丈夫だから！」
「それはどういう意味だ？」
「えっ……だって、こんなに影山に優しくされると辛いから……」
「……」
しかし、影山の反応はなかった。日向は影山に何か変な事を言ってしまったのかと不安になった。
「影山？」
「今日いきなり家に訪ねて迷惑だったか？」
「迷惑じゃない」
ーーびっくりしたけど……。
「じゃあ、良かった」
時折会話を混じらせながら自転車をこいでいる間に気が付いたら学校に到着していた。いつものノリで男子バレーボール部の部室に行こうとしたら、影山に止められた。
「女子はあっちだろ」
「あぁ、そうか！ そーだよな。ついいつものノリで……」
「いつものノリ？」
「いや、何でもない！ 影山に釣られちゃった。わたしも男子の方に混ざりたいなぁなんちゃって！」
「何言ってんだ。日向は女子なんだから男子には混ざれないだろう」
「影山ともっと一緒に居たいってことだよ！ もう、女心ちっとも分かってないなー」
「………」
ーー冗談なんだから真面目に答えるなよ！
前から思ってたけど、こいつは真面目すぎる。もう少し人間として柔らかくなればいいのに。
「影山、じゃあな！」
何やら考え込んでいる様子の影山に日向は明るく言うと歩き出した。
朝練の後、日向は部室の扉の前に居た。
慣れない女子バレーボール部でも周りの流れにうまく合わせて何とか時間を過ごせた。だが、問題は着替えだ。
授業が控えているので早く着替えを済まさなければいけないのに中に入るのを躊躇している。日向も年頃なので女性の身体に関心がないこともないが、生のものを無許可で見るのは抵抗がある。
扉の奥から女子の黄色い声が聞こえてくる。何だか楽しそうだ。
ーーど、どうしよう！
そうこうしている間に扉が開いて制服を着た恐らく上級生の女子二人が出てきた。慌てて日向が扉の前から引くと、そのうちの一人が日向を不思議そうに見た。
「日向さん、そんなところで何やってるの？ 早く着替えないと授業始まっちゃうよ」
「今から入ります」
中に入ると、まだ何人かが残って着替えていた。
「あぁ、もう少しで授業始まっちゃう」
「宿題やってきた？」
「数学の×先生が～」
あちこちから聞こえてくる女子の会話を耳にしながら、日向は死角を探す。なるべく誰にも見られない場所がいい。だが、狭い部室の中でそれは難儀だった。
部室の中はそこら中に誰かの私物が置かれているので、男子と同じくらいかそれ以上に散らかっている。女子への幻想がゆっくりと崩れて行くのを感じた。
ちょうどいい感じの場所を見つけ、誰も見ないように見られないようにこそこそと着替えていると、背後から声がした。男子の時のくせで、上の服を思いきり脱いだ瞬間だった。
「日向さんって胸大きいよね」
「へっ？」
突然後ろから話を振られ、日向は素っ頓狂な声を上げた。
「ごめんね。急に声かけて」
ーー誰だっけ？ 名前をきいてもいいかな？
恐らく同学年の女子だ。顔を見たことがある。だが、クラスは同じではないので名前は知らない。
「あの……わ、たし、胸大きい？」
前にグラビア雑誌で見たモデルのほど大きくないので日向は小さな胸だと思っている。
「大きいよ。いいなぁ。胸大きくて羨ましい。彼氏に揉んでもらって大きくしてるの？」
思わず自分の胸を揉む影山の姿を想像してしまい、真っ赤になった日向は彼女に強く言った。
「そんなわけないだろ！ 」
「ごめん。そんな怒らなくてもいいじゃん。もしかして図星？」
「違う。これは元からだから！」
日向はさっさと着替えてしまうと鞄を持って部室を飛び出した。