「蛸船長と同人女」

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「はあーっ」
これで何度目の溜息だろうか。
飲みかけの紅茶は完全に冷めていた。
パソコンのキーボードを叩いていた手を休めて、未佐緒は呟いた。
「海賊ねえ」

溜息の原因は、数日前の友人の訪問のせいだった。
「ねえっ、本を作ろうよ、同人誌、夏のコミケで売るのよ」
夏のコミケといっても、スペースが取れなければ参加できない。
申し込みの期日はとっくに過ぎているわよ。
そういうと、友人は得意げな顔になった。
「知り合いがね、新刊委託を喜んで引き受けるっていうのよ。あんたが書くっ
て言ったら、アキラちゃん、凄く喜んでさ」
「オカマの作家さんね」
「そうよ、だから、売り子の手伝いもするのよ」
「燃えてるわね、何が、あんたに火をつけたの」
「海賊っ、ジャックスパロウはいい男で、林檎の船長も髭かエロエロフェロモ
ンをたっぷりと漂わせてるし、義眼の男とか、皆、格好いいのよ」
いきなり声のトーンが高くなり、未佐緒はぎょっとした。
「海賊の映画って、パイレーツか、とっくに終わってるし、あんたが好きだな
んて知らなかったわ」
「愛は突然、恋はいきなり、新刊予定は未定から始まるのよ」
「い、意味がわからないわ」
「挿絵は、あたしが描くから、小説はあんたに頼むわ。100ページぐらいの
分厚い本を作るわよ」
「なっ、無茶な、学生じゃないのよ、仕事があるじゃない」
「何を言ってるの、お互い物書き、イラスト描きでしょ、やることは本業と同
じでしょーが。はい、これ」
そう言って、強引に手渡されたのは映画のDVDと大きな封筒だった。

その夜、夕食を食べながらパイレーツを見ていた未佐緒だったが、途中から箸
を握っていた手が止まり、唇が震え、食べることができなくなった。
うっっ、目頭に滲み出てくる涙を拭きながら、彼女は思わず呟いた。
「た、蛸船長、可愛そうすぎる」

見終わった後、しばらく、ぼんやりとしていた未佐緒だったが、封筒の事を思
い出した。
見終わった後、必ず見るようにと言われていたのだ。
中に入っていたのは映画のパンフレットや資料だった。
だが、あるものを見たとき、彼女の目は大きく見開かれた。
そして思い出した、学生時代から友人は立派な腐女子だったということを。

それは友人のイラストだった。
思わず目を閉じ、首を振った未佐緒はすぐに受話器を取った。

「あたしに、オヤジと野郎のエロ小説を書けっていうの」
「勉強だと思って、ネットのサイトには告知もしてあるから、後には引けない
わよー、ほほほ」
(酔ってるわね、この女)
友人の声に未佐緒は、はあっと溜息をついた。
こんなときは、何を言っても無駄ということは、昔からのつき合いで分かって
いた。
真夜中はとっくに過ぎていたが、気分をかえようと風呂に入ることにした。

全く、とんでもないことになってしまったと思いながらも、マリンブルーの入
浴剤を入れた湯に浸かっていると、気分も落ち着いてきた。
「ホモの勉強しないといけないかなあ」
そんなことを考えながら、うとうととしていた彼女だったが。
しばらくして、眠気が覚めたように目を開けた。

自分は、うたた寝をしていたのだろうか。
目を開けると周りは暗い、電球は数日間から切れかけていたので、寿命がきた
のだろう、湯も冷たく感じられた。
風呂から出ようとした。
ところが、足が着かないのだ。
(ど、どうしたの)
自分は外にいるのだと分かったのは、数秒後だった。


「船長、なんか浮いてますぜ」
「死体だろう、いちいち報告するな、そんなこと」
めんどくさいといわんばかりにジョーンズは、部下の言葉を聞き流し、夜の海
を眺めていた。
静かすぎるほどの夜の海は、昼間とは別の顔を彼に見せていた。
こんなとき、終わった恋の痛みが何故か蘇ってくる。
在るはずのない心臓が痛むのは錯覚だと分かっていても、胸が痛むのだ。

突然、ジョーンズは、暗い海面を覗き込んだ。
水音がしたのだ。
最初は空耳かと思った。
だが、昼間ならともかく、真夜中だ。
こんな遅くに、魚が跳ねるか。
驚いて下を覗き込むと、闇夜の中に何かが動いて見えた。
思わず、ボートを降ろせとジョーンズは大声で叫んだ。

「あ、ありがとおっ、はあっ、はっっ」
引き上げたボートに乗っていたのは女だった。
苦しそうに息を吐きながら、伏せていた顔を上げた女は自分の周りに集まった
船員達を見て、驚いたように顔色を変えた。
だが、それは船員達もだった。
周りに船の気配はない、何故、女が一人で、夜の海を泳いでいるのだ。
奴隷船から逃げ出したのだろうか。
だが、この近くにそんな船が来ることはない。
何故なら、ここは特別な海域なのだ。

「ゆ、夢かな」
女はぽつりと呟き、自分の顔を両手でパンと叩いた。
周りにいるのは人間ではない、怪人、怪物なのだ。
しかも、見たような気がする、そう、映画、海賊、怪物。
そのとき、船員達の間から、怒りに満ちた男の声がした。
「何故だ、生きた人間が、どうして、こんな果ての海域にいるんだ」
現れたのは、長いうねうねとした何本もの足、触手を持った怪物で。

「デイヴィ・ジョーンズっっー」

周りの男達も驚くほどの大きな声で叫んだ彼女は、立ち上がるなり大きな声で
名前を呼んだ。
その瞬間、思わずジョーンズは顔を反らせたのは・・・無理もなかった。


夢なのだろうか、自分は映画の世界にいるのだろうか。
訳が分からず、驚き、興奮した未佐緒は何を言えばいいのか分からなかった。
いや、言葉を失ったといってもよかった。
次の瞬間、何かが切れたように卒倒し、彼女は眠りに落ちた。

そして、一日眠り続け、ようやく目を醒ました。
だが、そこは自分の家ではなかった。
見慣れない場所、船室のベッドの中だったのだ。





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