「見たくないもの」

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「いいか、新入り、海に放り込まれたくなかったら、さっさと言われた通りに
するんだ」
フライングダッチマン号の船員達に言われて、未佐緒は頷きながら、大きなブ
ラシでデッキを磨いていた。
見かけはボロボロ、沈まないのが不思議な船の甲板は広かった。
何故、こんな目に遭うんだろう、船室のベッドで目が覚めてから、自分の運命
は船員達の召使いがわり、船の清掃係ともいってもよかった。
だが、逆らったら、海へドボンである。
泳げないわけではない、ところが、サメがいると言われては言うことを聞くし
かなかった。
夢なら醒めてほしいと思っても、お腹は空くし、トイレには行きたくなる、海
から吹いてくる風で髪はべたつく。
映画の中で見た海賊達の海で、明らかに自分という存在は生きている。
信じられないが、現実だと認識せずにはいられなかった。

殺されなかったのは不幸中の幸いだった。
海賊船には女がいないから、暇つぶしにバッ○ン、バッ○ンと犯されまくるの
かと思ったが、それもない。
もしかして、遠い島国の日本かから来た、東洋の魔女だと言ったので、それで
薄気味悪いと思って手を出さないのだろうか。
いや、ナイスバディといえる体型でもなく、色気もないから敬遠されているの
だろうか。
どちらにしても、今の状況、清掃係という配置は未佐緒にとって複雑なものだ
った。
最初の数日は、気力体力を振り絞って頑張ったのだが。
段々と、体の節々が悲鳴をあげはじめたのだ。
現実の世界では、パソコンと本屋、犬の散歩ぐらいで、たいした運動をしてい
ないので無理もないことだった。

その日の夕食は魚のスープだった。
だが、スプーンを持つ手にさえ力が入らず、食べる気力も沸かなかった。
早々に与えられた船倉の小さな部屋に戻ると、ごろりと寝転び、ただ波の音を
聞いていた。
そのとき、不思議な音が聞こえてきた。
(これって、ピアノ・・・いや、オルガン)
映画のシーンを思い出し、もしかしてディヴィ・ジョーンズが弾いているので
はと思いだした。
見たいという好奇心と欲求が、むくむくと胸の奥底から沸き上がってきた。

音のする方へと歩きながら、その扉の前まで来ると未佐緒は考えた。
中へ入ることはとうてい無理である。
怒りをかって、それこそ夜の海へドボンである。
仕方ない、ここでじっと聞くことにしようと考え、ゆっくりとその場へ座り込
んだ。

最初は静かだった。
だが突然、激しい旋律に変わったりする。
まるで、胸の中で嵐が渦巻いているような、いや、葛藤を感じさせるような音
色は聞いていると胸が締め付けられるようだった。
そういえば、映画でもこのシーンで涙ぐんでしまいたくなったものね。
などと、思い出しながら未佐緒は目頭を押さえた。
そのとき、オルガンの音がやんだ。
いかん、見つからないうちにと、立ち上がろうとしたが。
滑りそうになり、扉の向こうから声が聞こえてきた。

「何をしている」
声は明らかに怒っていた。
ところが、次の言葉が出て来ない。
不思議に思って顔をわずかに上げた未佐緒はジョーンズの顔が驚いていること
に気づいた。
「どうした」
自分に言っているのだろうかと思い、尋ねようとしたとき。
「おまえ、泣いてるのか」
とジョーンズが聞いた。
うるっとしたぐらいだと思っていたけど、はっきり泣き顔だと分かってしまう
と恥ずかしいものである。
いやとか、別にとか、言い訳も間抜けに思えてしまう。
上手い言い訳をと思いつつ、未佐緒は立ち上がろうとした。
ところが足が痺れていたのか、慌てて目の前のジョーンズにしがみついた。

「なっ」
驚くジョーンズの声に、ひいいーっと未佐緒は胸の中で絶叫した。
怒ったら怖そうだ、ぼろぼろの服をしっかりと掴んだまま、見上げた彼女は怒
らないでと悲痛な声をあげた。
「服を離せ、抱きつくな」
「怒鳴らないでよ」
「離れろ、しがみつくな」
「だったら、怒らないでよ」
「手を離せと言ってるんだ」
押し問答、水掛け論のような台詞の掛け合いだった。
ようやく、離れたとき、二人は同時に疲れたように息を吐いた。

「自分で、歩けっ」
ジョーンズはぶつぶつと文句を言いながら、狭い船内の廊下を女の肩を支える
ようにして歩いていた。
「筋肉痛で、寄る年波には勝てません」
「年寄り臭いこと言うな」
このとき、ジョーンズは女の態度と言葉が最初の頃とは違うことに気づいた。
「おまえは」
言いかけたジョーンズは、何故か黙り込んだ。
女の泣き顔を見るのは久しぶりだった。
ずっと遠い昔、自分が人間だった頃、女達の泣き顔をみたことがあった。
娼婦や亭主に隠れて浮気をする女達。
恋に溺れて、愛を信じているうちはいい。
だが、男に裏切られ、捨てられ、泣き叫ぶという悲惨な結末を迎えたとき。
女達の、そんな顔は見ていて気持ちのいいものではなかった。

「本当の貴方ね、ディヴィ・ジョーンズ」

ふと思い出したのは、彼女の、カリプソの言葉だった。
自分に向けられた、あれは褒め言葉だったのか。
それとも、いや、どちらにしても、今の自分には意味がない。
なのに、改めて実感させられる。
こんな化け物のような姿になっても、冷酷になりきれない自分がいる。
甘さがある、心の片隅に、人間のような、らしさが、わずかに残っている。
あの夜、女をそのまま夜の海に放り投げてサメの餌にすることもできたのだ。
それなのに船に乗せてやり、船員達には手荒なことはするなと言い含めた。
女の泣き顔は見たくないのだ。

明日になったら、船を陸の近くにつけよう。
港でも、島でもいい、そして、この女を降ろそう。
そうすれば、見なくてすむのだ。
自分自身に言い聞かせるように、ジョーンズは胸の内で繰り返した。





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