「紅蓮」 第1・1/2幕 “蛍”
<其之七>
殆どの者が床に着く支度を終える、夜四つ(午後10時)の頃。
微かな虫の音ばかりが響く旅籠の中庭に、一つの影が鎮座していた。
「──はっ!」
少しばかり息を溜めるような仕草の後、烈火は腰を落として抜刀の構えを見せ、短い気合を発して刀を一閃した。
しゅん、と小さく風を切る音が静まり返った庭に響く。
薄い月明かりに照らされ、抜き身の白刃がぼうっと鈍い光を放つ。
そのまま柄を両手に握り、足先を慎重に移動させながら二、三度刀身を上下左右に翻し、視線の先に本当に鬼が存在するかのような真剣な面差しで鋭い剣気をほとばしらせた。
「──はぁっ!」
刀身を振りかざし、刃の軌跡を何度か走らせた後、最後に右手に持ち替えた刃を大きく真一文字に振り抜き、静止する。
夜の空気がぴしりと刀の切っ先に裂かれる緊張感が走ったが、すぐまた何事もなかったかのように静寂を取り戻す。
烈火はそのままの体勢でしばし静止していたが、やがて徐に構えを解き、大きく息を吐いた。
柄を握った右手を見つめ、右腕をぐるりと一回転させると、月明かりにかざすように刀を掲げる。
抜き身の刀身が青白い光を放ち、自らの視線を映して煌いた。
刀の重さと柄の感触を確認した後、ゆっくりと刀身を下ろす。
───最後まで引っかかっていた右腕の動きも、今はもう違和感もなく、刀を振るうのに支障はない。
ようやく満足のいく動きを取り戻し、烈火は安堵の表情で息をついた。
そこで、みし、と床が軋む音がし、弾かれたように顔を上げる。
「──あ、ご、ごめんなさい。お邪魔して……」
そこにいたのは沙弥香だった。広場での演舞から帰ってきたばかりなのか、まだ半分舞の衣装着の格好で縁側の奥から顔を出している。烈火と視線が合うと、もぞもぞと気まずそうに言い訳した。
「部屋にいなかったから、どこへ行ったのかと思って……すみません」
「──いや、いいよ。もう終わったから」
烈火はふっと表情を緩め、鞘を拾って刀を収めると、庭から縁側の方へ上がった。
「もう…、大丈夫なんですか?」
「ああ、右腕の方もようやく元通りに動かせるようになった。これだけ早く回復したのも、沙弥香のおかげだよ」
「い、いえ……そんなことないです。元はといえば、烈火さんの怪我も私のせいなんですから……当然のことをしただけで」
烈火に面と向かって礼を言われ、沙弥香は微かに頬を赤くして目を伏せた。
「もういいって。気にするなよ」
「……は、はい」
「ずいぶんと世話になったし、明日、戻ることにするよ。君の親父さんにも挨拶しなきゃな」
「え…、明日……ですか?」
「ああ。そろそろ次の任務も出てるかもしれないし、怪我が治った以上、早く戻った方がいいからな」
「そう……、ですよね…」
少し寂しげな色がよぎった瞳を伏目がちに泳がせ、沙弥香の小さな呟きが洩れた。
「? どうかしたのか?」
「あ……い、いえ。何でもありません」
首を傾げる烈火に慌てて顔を上げて笑みを向けると、沙弥香は徐に空に昇った月を仰いだ。
「綺麗ですね、今夜の月は」
「──ああ、そうだな」
十六夜の月が放つ、淡い、乳白色の朧な光が辺りに落ち、静かな中庭を照らしていた。
「…もう、お休みになりますよね。私、着替えてからお部屋の支度してきますから」
「…あ、いや、それくらいは…」
烈火の返事を待たず、踵を返してぱたぱたと縁側の奥へ走っていく沙弥香の後ろ姿を、烈火は頭を掻きながら見送った。
烈火が部屋へ戻ると、いつもの簡素な室内着に着替えた沙弥香が、寝床の支度を既に整えていた。
「それくらい自分でやるから、別にいいのに」
鞘に収めた刀を部屋の隅に立てかけ、困ったように笑う烈火に、沙弥香も黙って微笑みながら首を振った。
「いいんです。私にできることは、させて頂きたいだけですから」
壁に映る行灯の火影が、窓から入る風に煽られて時折ゆらゆらと踊り、同時に何かの香がふわりと漂った。
舞の時に付けていたものだろうか。沙弥香が髪を手で払うと、その香りはより強く烈火の鼻をくすぐった。彼女の雰囲気に見合った、仄かな涼しさを感じさせる香りだった。
「……烈火さん?」
目を細めて自分を見つめる烈火に気づき、沙弥香が目を瞬く。
「…あ、いや。何でもないよ」
曖昧に笑う烈火に怪訝そうな面差しを見せつつ、彼女は居住まいを正して烈火の側に寄り添った。
「本当に…大丈夫ですか? もう少し、様子を見た方がいいんじゃ……」
そう言って自分の右肩に触れる沙弥香の手を、烈火が掴んで止める。
「!」
「大丈夫。もう充分だよ……ありがとう」
静かに首を振り、優しい口調で呟く烈火の眼差しに見つめられ、沙弥香は言葉を途切れさせた。
触れ合った掌から、温かな熱が伝わってくる。
「……烈火さんの手……あの時も、今と同じように……温かかった」
「え?」
沙弥香は烈火の手にもう片方の掌を重ね、呟く。
「私を、鬼から助けてくれたあの時も──烈火さんの手、力強くて、温かかった。……嬉しかったんです。…私…、今まで、男の人にあんな風に守ってもらったこと──なかったから」
「……沙弥香……」
少し寂しげな、憂いの混じった表情を浮かべ、ぽつぽつと離す沙弥香の顔を、改めて見つめる烈火。
窓から差し込むおぼろげな月明かりが、化粧っ気のない彼女の、素のままでも整った顔立ちを照らし出す。どこか儚げにも見えるその面差しが、烈火を惹きつけた。
「──私が生まれたのは、ここから遠い奥州の地の外れにある、小さな村でした。裕福ではなかったけれど、父も母も優しく、私を大切にしてくれました。……でも」
そこで一度言葉を切り、少しためらいながらも、話を続けた。
「私にこの力があることが知れてしまうと……周りの人たちは、私のことを気味悪がりました。……物心ついてしばらくして、この力があることに気づいた私は、時々、怪我をした動物を治したりしてましたから。…それを見て、あいつは普通の人間じゃないって」
「………」
自分に話すというよりは、どこか独白めいた響きを持つ沙弥香の語りを、烈火はただ黙って聞いていた。
この力のために、周りの村人からは異端視され、同じ年頃の子供と親しくなることもなく、寂しい幼少期を過ごしたこと。
そんな中、ただ一人だけ、自分をのけ者にせず、優しく接してくれた清太という幼馴染みの存在。
少々頑固ながらも優しかった、元郷士だった父と、常に自分の味方であってくれた母。
しかし、そんな生活も、彼女が十二の時に終わりを告げる。
それはある日、村外れで大怪我をして倒れていた、一人の浪人風の男を、彼女が見つけて介抱したことが始まりだった。
傍目には到底助かりそうにない怪我を負っていたその男の命を、沙弥香はその治癒能力を使って助けた。
だがその男は、当時奥州一帯を荒らし回っていた、凶悪な盗賊団の一味だったのだ。
そうとは知らず、ただの親切心から男の世話をしてやったことが仇となった。
程なくして、男の手引きによって彼女たちの村は盗賊の襲撃に遭い、老若男女問わず、逆らおうとするものは斬り殺された。彼女の幼馴染みの、清太も。
沙弥香に不思議な力があることが盗賊たちの仲間に知れると、役に立つとでも思ったのか、或いはどこかへ売り飛ばそうと考えたのか、連中は彼女を捕えて連れて行こうとした。
それを阻止しようと、沙弥香の両親は彼女に村から逃げるよう必死で促し──そして、殺された。
「──これは、その争いの時にできた傷です」
沙弥香はそう言って、徐に額の飾り紐を外した。
左の額に今もなお、はっきりと残る古い傷跡。それは、年月を経ても消えることのない、彼女の心の痛みをそのまま象徴しているようにも見えた。
「多分、この傷跡を消すのは難しいだろうと……お医者さんも言ってました」
悲しげに微笑んだ後、どこか遠くを見るような眼差しで月の光を見上げた沙弥香にかけるべき言葉が、烈火には見つからなかった。
不運、などという言葉で済ますにはあまりにも理不尽で、悲惨な過去。
まだ十二だった当時の彼女が、どれほどの衝撃と心の傷を受けたかは、想像だに難くない。
通報を受けた役人が村に着いた時には、生き残っていた村人は僅かしかいなかったという。
この事件を受けて、大規模な山狩りが行われ、盗賊の一味はその後殆ど捕えられ、処罰された。
しかし、もう村に戻ることはできなかった。その土地に残るには、あまりに辛すぎる記憶だった。
両親の埋葬を済ませた後、沙弥香は一人、村を離れた。
母の形見の、竹笛だけを手にして。
それからしばらくは、叔母や叔父を頼って何とか生活していた。が、他所の土地での暮らしに思うように馴染めず、また、あの惨劇が頭から離れることはなく、決して心が休まる暇がなかったという。
そうして、各地を転々とし、流浪の旅のように、一人で生きていた頃もあった。
今の両親と出会ったのは、四年前。
当ても無く歩いていた白河の山道で、突如土砂崩れが起きて下敷きになってしまった馬車の事故現場へ、たまたま沙弥香が居合わせたのだ。
その馬車に乗っていたのが、旅芸人一座の座長夫婦だった。
二人は瀕死の重傷を負っていて、そのままでは医者を呼びに行っても間に合わない状態だった。
沙弥香はその時ためらった。もう二度と人前では使わないと誓った自らの力。しかし、ここで助けなければ、彼らは確実に死んでしまう。
悩んだ末に、彼女は意を決して治癒能力を使ってその夫婦の傷を癒し、介抱してやった。
どうしても見過ごすことはできなかったのだ。
その一件がきっかけで、沙弥香は是非礼がしたいという座長夫婦の元にしばらく世話になり、やがて自分たちと一緒に来ないかという彼らの申し出に、ためらいながらも頷いたのだった。
聞けば、彼らは一人娘を幼い頃に流行り病で亡くしており、生きていれば同じ位の年頃になっていたであろう沙弥香に、亡き娘の面影を見たのかもしれなかった。
──それから一座の座員たちとも次第に打ち解け、見よう見真似で覚えた舞の腕を見込まれて公演にも参加するようになっていった。
もちろん、それが彼女にとって嬉しくない訳はなかったし、不満がある訳でもない。
──ただ、旅から旅に暮らす生活の中で──誰にも言うことのできない自らの力や生い立ちに、不安や寂しさを感じることがないといえば、嘘になった。
「……だから、嬉しかったんです。皆さんが私に親しくしてくれて……それだけじゃなくて、危ないところまで、助けてくれたことが。……私の力を知っても、変わらず普通に接してくれたことが」
「………」
「烈火さんみたいな人に逢えて良かった。…私、ずっと忘れません」
そこまで言葉を継いで、自分を真っ直ぐに見つめる烈火の視線に気づき、はっと我に返ったように沙弥香は頬を赤らめた。
「あ……ご、ごめんなさい、変なこと言っちゃって。……もう、休んだ方がいいですよね」
慌てて手を離し、場を取り繕おうとする沙弥香の腕を、烈火の手が掴んで引き止める。
「!」
振り向いて驚いた表情を見せた彼女の体が、そのままふわりと引き寄せられた。 |
→<其之八>
…はい、まだ続きます汗)

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