「いたずら」
10月最後の日。今日が終われば、明日から11月だ。
秋になってから、日野香穂子の身の回りは確実に変化していた。ヴィオラ奏者・加地葵の転入、そして今はリリを救う為、春に出会ったコンクール仲間たちとアンサンブルの練習・・・・
今日も早速ヴァイオリンの練習をしなければ・・・・と、放課後になって外に出た香穂子だったのだが。
「あっ、日野さーーん!」
「あれ?加地くん・・・?」
爽やかな笑顔で手を振ってこちらにやってきた人物。それは香穂子の環境を変化させた加地葵その人だった。
葵はまだ転校してきて1ヶ月経っていないにも関わらず、完全にクラスに溶け込み、皆から絶大な人気を誇っている。
そして香穂子にとっても、アンサンブルには欠かせない重要なヴィオラ奏者として大切な存在である一方で、『香穂子のファンだ』と公言することで、余計にその存在を気にしていた。
『ファンだ』と言われて嬉しい気持ちがあるのはもちろん、その人物がまた大した男前なのだから、余計に意識してしまうのは当然である。
今時の男子高校生という感じで、見ているだけで華やかで幸せな気持ちにしてくれる。そんな葵を、香穂子が異性として気にしない訳がない。
もちろんこんな気持ちを誰にも言うことは出来ず、香穂子は隠しているのだが、そのように気になっている葵から声をかけられたことで、香穂子に嬉しい気持ちが広がっていた。
「ふふっ。日野さん、今日が何の日か知ってるよね?」
「えっ?何?今日って、何かあった日だっけ・・・?」
自分の気持ちを悟られないように、ドキドキを抑えながら話す香穂子に対し、首を傾げてそう言う香穂子もまた可愛いなぁ、などと葵は思いながら、笑顔のまま答えた。
「うん。ハロウィンだよ・・・ってことで、Trick
or treat!」
「ええぇぇっ!?」
葵にウインクされながら爽やかにそう言われたことで、香穂子はヴァイオリンケースを持ったままその場に固まった。
それまでハロウィンなんて行事に全く興味がなかった香穂子は、そのように言われたことも初めてで、どうしていいか分からず、完全にパニックになってしまったのだ。
だがしかし。香穂子にだって知識くらいは存在する。確かハロウィンは、お菓子をあげればよかったのではないだろうか?
分かってはいるものの、香穂子が今手に持っているのはヴァイオリンの入ったケースと楽譜のみだ。お菓子は昼休みに友達と食べてしまったし、どうすれば良いか悩んでいた香穂子に葵が詰め寄る。
「・・ほら、日野さん。お菓子くれないと、いたずらしちゃうよ?」
葵がそう言って両手を差し出してきたものの、香穂子の考えは全くまとまっておらず、あたふたするしかなかった。
「えぇっ!?そっ、そんなこと、突然言われたって〜!あの、加地くん。冗談だよね?」
「うぅん、冗談なんかじゃないよ?日野さんがお菓子くれなかったら、僕は君にいたずらしちゃうんだ。」
「うっ!!・・ねぇ、加地く〜ん。その『いたずら』って何か、聞いてもイイ?」
慌てながらも、葵を見つめる香穂子のその純粋な瞳を見て、葵は完全に香穂子の虜になっていた。
そんな香穂子を独り占めしている幸せに浸りながら、葵は笑顔で答える。
「ふふっ、秘密。言ったらつまらなくなっちゃうもの。」
「えぇっ!?そんなぁ〜・・・・ねぇ、加地くん。私ね、1つだけお願いがあるんだけど・・・・くすぐり攻撃だけは、やめてね?」
「えっ・・・?」
葵は最初は驚いたものの、顔を赤くしてそう言う香穂子が愛らしくて仕方がなかった。自然とそんな香穂子を見ていると、笑顔が出てしまう。
「その、ね・・・くすぐり攻撃だけは、本当にダメなの。私、昔から弱くて・・・」
「そうなんだ・・・ふふっ、良いこと聞いちゃった。」
「うっ!!私、もしかして墓穴掘ってる・・・?」
「大丈夫、安心して。日野さんのことはくすぐらないから・・・・でも、日野さんはどうやらお菓子を持ってないみたいだから、いたずらしないとね。」
さすがにここまで言われてしまっては、観念せざるを得ないようだ。香穂子はヴァイオリンケースと楽譜をその場に置き、両手を挙げて降参のポーズをした。
「ははぁ〜っ、まいりました。加地くん・・・私、どうすればいいの?」
「日野さん・・・大丈夫だよ。ここにこうしていてくれるだけでいいから。」
「そうなの?ねぇ、加地く・・・!?」
ファサッと音がしたかと思うと、次の瞬間、香穂子は葵の腕の中にいた。
思いがけない形で葵に抱き締められたことで、香穂子の心拍数が一気に高くなる。一体、葵は何をするつもりなのだろうか?
「・・日野さん。出会った時から、君は白い貝から生まれたマーメイドのようにとても美しくて、本当は僕がこうして触れてはいけない、至高の存在なんだ・・・・でも、僕は君に会いたくてここに来た。そして君と会ってから、触れたいと願うようになってしまったんだ・・・・・」
「・・・加地、くん・・・」
「最初はね、君に会えて、君の音さえ聴ければ、それで良かった・・・・もちろん、今もそれだけで幸せだけど、そうじゃなくて・・・・僕は、もっと色々求めてしまうんだ。君のことをもっと知りたくて、もっと触れたくて・・・・」
「か、加地くん・・・!あの、私も。私、も・・加地くんのこと・・・」
「待って、日野さん。そんな、期待させるようなこと言わないで・・・・はい、いたずらはこれでおしまい。」
「えっ!?」
思いがけない形で葵に強制終了をかけられた香穂子は、一瞬思考が付いていけなかった。
そして、葵が香穂子から離れて笑顔を見せた時、香穂子はからかわれたのだろうか?と思ったのだが。
そんな香穂子の思いを払拭するかの如く、葵はすぐに付け足した。
「・・こうでもしないと、君に触れられない、不器用な僕を呪って。優しい君だから、そんなこと出来ないって分かってても、そう言わずにはいられないほど、僕は愚かなんだ・・・」
「そ、そんな、加地くん!そんなことないよ!・・・私、嬉しかった。」
「えっ?」
「加地くんにあぁしてもらえて、嬉しかったよ?・・・じゃあ、今度は私から、トリック・オア・トリート!!」
「日野さん・・・・」
葵は澄んだ碧色の綺麗な瞳を見開いて、ただ香穂子を驚いて見つめることしか出来なかった。そんな葵に対して、今度は香穂子が笑顔で葵に接近して両手を出してみせる。
「はい、加地くん。お菓子は?ないなら、いたずらしちゃうんだから!」
「あ・・ごめん。さっき、クラスの女の子たちにあげてきちゃって・・・」
「それじゃあ、ダメだね。いたずら決行ーー!!」
「ひ、日野さん!?え・・っ・・・」
香穂子は、驚いて何も出来ない葵に対して、今度は自分から葵の背中に手を回したのだ。
先ほど葵に抱き締めてもらった時と同じ温もりが、香穂子の中に戻ってくる。それが嬉しくて、香穂子は葵の胸の中に顔を埋めた。
「・・加地くん・・・少しだけ、こうしててもいい?」
「日野さん・・・やられた。これは予想外だよ・・・・でも、とっても嬉しい。もちろん、僕でいいなら喜んで。『少しだけ』と言わず、日野さんの気の済むまで、ずっとこうしてくれてていいよ?だって、こんなに清らかで可愛い君が、僕にこうしてくれるんだもの。嫌でも、期待しちゃうよ・・・君の気持ち。」
「加地くん・・・それは、その・・・」
葵に笑顔でそう言われると、急に恥ずかしくなってしまう。
勢いで抱きついてみたはいいものの、このまま葵の傍にいたら、恥ずかしくてどうにかなってしまいそうなのは香穂子の方だった。
一方の葵は驚きから解放されたようで、自分に抱きついてくれた香穂子を優しく抱き締めた。まるで、全てのものから香穂子を守るように・・・・
「ふふっ、なんてね。今は、高望みはしないでおく。でも、僕の気持ちはずっと変わらないよ・・・・いつまでも、日野さんのことを応援してるから。僕に何か出来ることがあったら、遠慮なく言ってね?」
「・・加地くん・・・うん、ありがとう。」
ハロウィンがもたらしたいたずら。それによって、香穂子と葵の距離が縮まったのは、言うまでもない。
お互いに笑顔を浮かべながら、この日2人は幸せな時間を満喫したのだった・・・・・・・・・・
END.
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